2017/05/07 15:31
 
豊島に漂着するまで

こんにちは。今日はわたし、まりやの話しをします。お付き合いいただけると嬉しいです。

 

私はこれまで、看護師をしていました。

私は小児の専門病院に勤めていました。希望の病棟に配属になって、でもそこは長い闘病の末に亡くなっていくこどもも多い部署でした。

こどもたちはみんな小さなからだで毎日頑張っていて、そしてなにより可愛くて可愛くて、こちらが反対に元気をもらえる瞬間ばかりでした。

 

でも、こどもたちやそのご家族の頑張りが必ずしも回復につながるとは限らず、その現実にぶつかるたびに、他人の私でさえバランスを保つのが難しいほどでした。

 

どうしようもなく涙してしまうことも多くて、こんなにも『生きている』『生かされている』ということを感じられる、感謝できる環境にいるのに、多くのこどもたちとの永いお別れをするたびに、「自分なんかが生きている」ということに疑問を持ってしまう自分がいました。

 

「もう一回おうちに帰りたい」と純粋に願い頑張るこどもたちや

「あと数日、数時間だけでもいいから一緒に居たい」と心底願っているご家族を前に、

そんな自分勝手な感情を抱いている自分をどうしても許せなかった。

 

でもどうしても強くなりきれなかった私は、少しずつ、自分の心のいろいろな声や感情の動きにできるだけ気づかないように、蓋をするようになりました。

でもそれは一時しのぎで何の解決にもなっていなくて、結局なにも変われず弱い私はどうしようもなくなって、数年の年月勤めたのち、その現場から『逃げる』ということを選択しました。

 

 

逃げた先はアフリカでした。ちょうど退職を決めたタイミングで 青年海外協力隊 という存在を知り、そこに飛び込んでみようと決めました。

合格通知で初めて聞いたそのアフリカの小さな国は、『ベナン共和国』という国でした。

 

 

 

 

 

 ベナンでのまいにち

ベナンは、ベナンで出会えたベナンのひとたちは、私のいままでの感覚をひっくり返してくれました。そして、蓋をしていた自分の感情が少しずつ出せるようになったのは、ベナンのひとたちとの関わりが大きいです。

 

全身でお喋りをするように、喜怒哀楽をはっきりと表現するベナンのひとたちが、私にはとてもまぶしく映りました。こんなふうに、自分の感情に素直にいたい、それを共有したいと、そう思うようになりました。

 

 

 

 ベナンの小さな村での生活

そのなかで、私が仲良くなった女性は、ナデージュといいます。

西アフリカのベナンの、ウェボという街のはずれにあるドワという村に住んでいます。

大体のひとが暦を気にして生活をしていないので、自分の年齢を良く知りません。

彼女はおそらく20歳そこそこで、2人のこどもを持ち、旦那さんの2人目の奥さん。

 

彼女とどうして仲良くなったのかあまり覚えていないけれど、笑顔が素敵だったのと、いつも白人の私たちが言われる「お金ちょうだい」「なにか物をちょうだい」ということをなぜか一切言わず、現地語で屈託なく話しかけてくれました。

 

彼女と、その家族とたくさんの一緒の時間を過ごしたいと思い、私は徐々にその家で寝泊まりするようになります。1畳ほどのゴザを、彼女と、5歳くらいと3歳くらいの少年2人と私とで横たわり眠る、きゅうきゅうな日々。

 

電気や水道の通っていないその村の生活はとても豊かなものでした。

 

たくさんの情報は入ってこないけれど、その分目の前の家族や集落のひととの繋がりがなによりも強く、そしてあらゆる知恵が溢れている。

日が昇ると起き、暑いときは木陰で休み、食べるものは自分で育てたり木に生っているものを収穫し、こどもは周りの集落みんなで育て、暗くなると眠る生活。

 

月明かりが明るくて、満月近くなると私たちは月明かりでお喋りをするのが楽しみでした。

 

日本という国がすごく遠いところにあって、そことベナンには時差があるということを説明するために、地球が丸い、ということを伝える必要がありました。

「この地面は丸くない!」と信じていなかったけど。

 

 

 

 そして日本へ。

日本に帰ってきて、いろんなことの違和感を感じました。

夜も明るくて24時間眠らないお店があって、年中同じものが食べられる生活。

舗装されていて、靴が汚れない生活。

どこにいても電波というもので誰かと繋がっていられて、でも休日なんかは、誰とも会話しなくても買い物をして食事をして、生きて行けてしまう生活。

 

たくさんの物や情報が溢れ、豊かなようで、でもなにか満たされない感覚を、常に抱くようになりました。

 

 

 

 そして、再びの単身ベナン。

やっぱりもう一度だいすきなベナンに行きたくて、ナデージュやその家族に会いたくて、ひとりでベナンに行きました。

丸いらしい地球の遠いところから飛行機に乗ってきた私を、ナデージュも家族も、村のひとたちもとても喜んで迎えてくれました。

 

そして、まさかのマラリアに罹患。

薬草を持ってきてくれたり祈祷師さんが来てくれたりしたけれど、やはり限度があるもので、あんなに「先進医療」というものへの疑問を感じていたのに、ぼろぼろの車で高熱のなか首都まで行き、白人の先生の居る病院に行き、薬を処方してもらいました。

 

命がかかるなんてそんな大したものではなかったけれど、食欲がよみがえったあの瞬間は、身体が生きようとしているのだと嬉しくて、自分の生命のエネルギーを感じた瞬間だった。

 

 

 

 

 

逃げる、ということ

いろいろなものから逃げて、いろいろなところへ行ってみたけれど、大切なのは結局は『自分自身』なのだなと思います。

場所を変えたって自分が変わらなければなにも変わらないし、反対に、自分次第でどうとでも変えられるのではないかと、そんなふうに思っています。

 

そしていまでは、『逃げる』ということは必ずしも悪いことではないと思っています。

我慢して頑張ることはもちろん大切だけど、踏ん張れるところまで踏ん張ったら、心のバランスが崩れる前に、元気で居られるように、『逃げる』ということは時として前向きな選択なのかもしれないと、そう思います。

 

 

 

「いまからでもなんにでもなれる。」

そんなふうに思って、わくわくするほうに進んだら、いまは豊島の、mammaに行きつきました。

 

看護師という仕事もすきだけれど、いまは少し離れてみて、でもこれからもまた違うかたちでなにかしら、関わっていけたらと思っています。

 

わからないこと慣れないことばかりでメンバーみんなの足を引っ張りまくっているけれど、新人社会人はこれから頑張っていきます。

私の原動力は『わくわく』。この気持ちがあれば、この先も大丈夫だと思います。

 

 

 ありのまんま の私。

心の声を無視したり感情に蓋をするクセがついてしまった私には、正直、自分の『ありのまんま』というのがなんなのか、いまでもわからなくなる時があります。

 

でもいろいろな『ありのまんま』があっていいのかなと思っています。

旅先で出会ったひととしか話せないこと、そんな話をしている『ありのまんまの自分』そんな姿でもいいのかもしれないと思っています。

 

 

自分なりの、ありのまんまの姿で居られる場所

そんなmammaをつくっていきたいと思っています。

 

まりや