談志の御託 ”落語は人間の業の肯定”と私は言った。”人間の業ってのは何だ”と言われると、「人間なんざァ腹一杯になりゃあ動かないもんだし、働かないものだ。」ということを前提にしていた。つまり仕方がないから働くのだし、また、”人間の欲望には限りがないもの”とは言っても知性というものがあるはずだから、どこかで欲望を止める作業をするはずであり、私自身にも当然それはあって、曰ク”そんなにおだてられてもそうは出来ないヨ”であり”そんなにやらなくても充分さ”であった。もっと言えば”人間そんなにやるもんでないヨ”である。 人間は”やってはいけないこと”というのをどこかで決めていた。それは人間が生きて行くために必要なものであり、長い年月をかけてやっとみつけ、それを守ってきたのだろう。 人間なんて弱い動物だし、放っておくと死んでしまうから生きて行くために知性を働かせて、やれ”家族をつくったり””火を燃やしたり””屋根をつくったり”してきた。これを「文明の進歩」と称しているのだが、その延長戦上に宇宙征服まであるのだろうか……。 もし、あったとして、それも業の肯定と言うならば、現代のように、あの成り上がった日本人も、所詮人間、業の肯定だから仕方がない、と私の落語は言わなければならないのか……。 非常にいい加減な言い方だが、業の肯定といっても、その業とはそこそこのものであり、まさか、人間が地球を壊すまでの行為をするとは思っていなかった。言い訳だが、お江戸の町の人間の中での業の克服の限界があった。 お江戸の落語長屋の住人達は、人間というものをちゃんと識っていた。”欲張ると碌なことがない”ということも”便利になってもたいしたことがない”ということも……。 さあ、さあさあさあ、現代(いま)の日本人達の目立つ行為の数々は、一体何なのだろう。 … … くどいようだが、これも「人間の業」と言って、はたしていいのか。 ”違う”と思いたい。どこかに人間、知性という歯止めがあるはずだ。それを含めて人間の業であり、その知性は文明の進歩に疑問を持ち続けているはずであり、その根本は、生物の生きている理由は,種族の継続と、そのための個体の保存とするならば、”なにもそんなにまで文明を求めなくてもいいのではないか””求めすぎて下手をすると壊してしまって元も子もなく無くなるようなことになるヨ”とどこかで忠告しているはずだろう。1991.1.9より なまけ者と好奇心の間を揺れ動いています。実は人見知り。ただ、人に興味あり。 誤字脱字失礼致します。書き込んでから気づくこと多々。 ひねくれ者で昭和を引きずっています。
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