
【與田治郎右衛門(襲名前:與田純次)について】 戦争体験語り部、実業家、元大使館職員。大正14年(1925年)、兵庫県城崎郡竹野村(現:兵庫県豊岡市)に生まれる。先祖は江戸時代初期から寛政8年(1796年)まで庄屋(江戸時代の村役人である地方三役の一つ)を務めており、寛政8年以降は「元庄屋」という屋号で様々な商売を営んできた。 大日本帝国上海大使館事務所勤務の後、1945年、大日本帝国陸軍満洲独立工兵隊1893部隊に幹部候補生として現役入隊(甲種合格)。終戦直前、満州にソ連軍が侵攻し戦闘になり、所属部隊は、ソ連軍の戦車攻撃に対し、命をかけた肉薄攻撃作戦(黄色爆薬を抱えて蛸壺と言われる縦穴式の一人だけが入れる塹壕に潜り、ソ連軍戦車の下に飛び込む特攻)に出る。自身の蛸壺の方へ戦車は向かって来なかったが、近くの戦友たちが蛸壺から飛び出し自爆する光景、またその爆撃を受けながらも土煙の中から何事も無かったかのように出てきた戦車の様子は、今なお脳裏に鮮明に焼きついている。終戦後、朝鮮半島を南下敗走。20日間に及ぶのサバイバル生活を、カタツムリを食べて生き延びる。途中、部隊は、ソ連軍に囲まれ銃弾を浴び、隊員の半数が銃弾に倒れる。その後、ソ連に日本軍捕虜として連行され、約3年間の強制労働を強いられる(シベリア抑留)。 零下40度の極寒の中、森林伐採、燃料(薪)調達、凍りついた川から水を汲む、船の先導、死者の埋葬、馬鈴薯畑の開墾、牧草(馬の餌)調達、麦の収穫、病院の炊事、等の労働をした。抑留1年目に凍傷で右手中指の第一関節の先端を切断。その後、擬似赤痢に感染したため、栄養失調になり、一時意識を失う。監視の厳しい抑留生活の中、シラカバの木の皮でトランプを自作し、戦友たちと無事に帰国できるかを占った。このトランプは帰国時にソ連の検閲に引っかからなかったため、日本へ持ち帰ることができ、現存している。 1947年に解放され帰国。翌年、父・與田治郎右衛門(先代)と共に保険代理業を開業。その後、天然凍豆腐製造業、乾麺製造業、豆腐油揚製造業を開業し、1949年に凍豆腐製造業九鹿冷凍工場を設立開業。しかし工場は数年で倒産し、多額の借金を抱えてしまう。借金取りに追われる身となったが、「私は逃げも隠れもしません、このシベリア帰りの丈夫な体を預けますから使ってください」と、自ら債権者の方へ近づき、与えられたあらゆる仕事をこなした結果、借金を放棄してもらった。その後、再起を図るため、1955年4月に、豆腐油揚製造用機器及び各種燃焼機器卸小売及び工事施工業者、元庄屋商店(現:株式会社元庄屋)を開業し、社長に就任。これまでに、但馬地方で、約3万台の家庭用・工業用灯油ボイラーの販売・設置を行ってきた。 1991年2月、内閣総理大臣・海部俊樹より、シベリア抑留に対する慰藉の念として銀杯が授与される。 2017年4月、先代(父)まで十数代に渡り襲名されていた「治郎右衛門」を襲名。與田純次改め與田治郎右衛門となる(神戸家庭裁判所豊岡支部審判)。 近年、自らの戦争体験を、インターネットを通じて若い世代に伝える活動を行っている。過去にはシベリア抑留に関しての執筆をしており、また各種メディアから戦争体験に関する取材を受けている。 92歳になった2017年現在も、「生涯現役」をモットーに毎日働いている。健康の秘訣は就寝前・起床後に各30分かけて行う腹筋・背筋のストレッチ。 【各種メディア】 読売新聞 (1955年6月2日、但馬)「夏に備えの海水浴場プラン、浜辺一帯を遊園地化」 産經新聞 (1976年1月19日、但丹ニュース)「シベリアの思い出いっぱい、シラカバのトランプ見つかる」 神戸新聞 (1998年7月9日、但馬)「半世紀ぶりにシベリアへ、抑留体験した豊岡市の3人」 関西電力 (2008年、でんかライフ.com)「灯油ボイラー2万台を手がけた給油機器の老舗、オール電化で雪国豊岡の冬を快適に!」 みんなの戦争証言アーカイブス (2016年)「與田純次さんインタビュー:冬は零下40度です。部屋の中にいても死んだら凍って棒状になるんです。」 神戸新聞 (2016年8月16日、但馬)「シベリアの収容所、シラカバの皮で手作り、トランプに苦難の記憶」 神戸新聞NEXT (2016年8月15日)「祖父の戦争体験を動画で発信、孫が帰省時に撮影」 神戸新聞NEXT (2016年8月16日)「トランプに残る戦争記憶、シベリア抑留経験の男性」 『致知』(2017年2月号、致知出版社)「生涯現役」 読売新聞 (2017年3月19日、但馬)「祖父と戦争 後世へ動画、豊岡出身の兄弟撮影」 『にふょん』(2017年5月号、大和ハウス工業株式会社会報誌)「三方よし、生涯現役」 北近畿経済新聞 (2017年5月1日)「91歳"生涯現役"、戦争体験の語り部も」 etc 【受賞歴】 海部俊樹(第76/77代)内閣総理大臣より、シベリア抑留に対する慰藉の念として「銀杯」が授与される。 (その後も、福田康夫首相、菅直人首相から「賞状」が授与されている。) 【関連書籍】 『戦争の大問題』(体験談掲載) (2017年、丹羽宇一郎著/東洋経済新報社) 『シベリア慰霊訪問記』(寄稿) (1997年、全国強制抑留者協会 編) 『この記録わすれまじ』(所属隊員欄に名前掲載) (1979年、独工十八柳生会 編) 『孫たちへの証言ー記録することで戦争抑止へつなげようー』(寄稿) (2018年、新風書房) 『致知』(インタビュー掲載) (2017年2月号、致知出版社) etc 【略歴】 1925年11月、兵庫県城崎郡竹野村(現:兵庫県豊岡市)で、商売人の父・與田治郎右衛門(11代目)と母・よしのもとに生まれる。生家は江戸時代まで竹野村の庄屋であった。 1938年3月、兵庫県立城崎郡竹野村立竹野尋常高等小学校 卒業 1942年12月、兵庫県立豊岡商業学校 卒業 1943年2月、大日本帝国上海大使館(現:在上海日本国総領事館) 勤務 1945年2月、大日本帝国陸軍満洲独立工兵隊1893部隊 現役入隊 1945年8月、ソ連に日本軍捕虜としてシベリアに連行される。 1947年4月、シベリア抑留より帰還。 1948年4月、兵庫県城崎郡竹野村にて保険代理業 開業 1948年4月、兵庫県多可郡野間谷村にて天然凍豆腐製造業 開業 1949年6月、兵庫県養父郡八鹿町にて乾麺製造業 開業 1949年12月、兵庫県養父郡八鹿町にて凍豆腐製造業九鹿冷凍工場 設立開業 1951年10月、兵庫県城崎郡竹野村にて豆腐油揚製造業 開業 1952年7月、兵庫県城崎郡竹野村にて飲食業 開業 1955年4月、兵庫県豊岡市寿通にて元庄屋商店豊岡営業所を開業し、豆腐油揚製造用機器及び各種燃焼機器卸小売及び工事施工 開業 1955年4月、竹野町商工会副会長 就任 1955年4月、竹野村観光協会企画宣伝部長 就任 1955年7月、兵庫県城崎郡竹野村にてバンガロー(コテージ) 開業 1960年4月、北但信用組合理事 就任 1975年3月、兵庫県豊岡市中陰にて兵庫コロナ販売(住宅設備機器卸売) 開業 1988年11月、兵庫県豊岡市幸町にて中島水道工業所 設立開業 1991年2月、海部俊樹(第76/77代)内閣総理大臣より、シベリア抑留に対する慰藉の念として賞状と銀杯が授与される。 1998年7月、全国強制抑留者協会主催のシベリア慰霊訪問団に参加。自身が収容されていたラーゲリ跡地にて弔辞を述べる。 2017年4月、父の代まで十数代に渡り襲名されてきた「與田治郎右衛門」を襲名。
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