『薄暮』
山本 寛
私はセーラーよりブレザー派だ。
中学校は公立で、黒のセーラーに白いスカーフだった。
ダサい。
お兄ちゃんは私よりも頭が良くて、中高一貫の進学校に通っていた。
紺のブレザー。羨ましかった。
高校は制服で選んだようなものだ。
親からは、そんなに頑張っても無駄だからどこでも入れたら十分、とからかわれ、それがやけにムカついて、中三から柄にもなく猛勉強して、進路指導の時言われたのよりランク一つ上の高校を選び、十二月の模試ではC判定だったのが、奇跡的に合格した。
家から電車とバスを乗り継いで、二時間もかかる、私学。
毎日五時半起き。眠い。
でも初めてブレザーに袖を通した時、思わず鏡の前で「カワイイ。」を連発してしまった。自分にじゃない、制服にだ。
こりゃ肉体改造しなきゃな。そう思った。
でもいまだに痩せない。お腹の肉がむっちり掴める。
部活は音楽部に入った。
クラスで最初に仲良くなった岡村さんから吹奏楽部に誘われたが、四歳から続けているヴァイオリンを今さら手放すのも勿体なくて、断った。
とは言え部員は十人。オーケストラを編成するには苦しいが、中学の時はもっと少なかったから、慣れている。
ソロ以外に室内楽もできるのは嬉しい。
ヴァイオリンは好きだ。と言うより、発表会で綺麗なドレスを着てカッコよくポーズを取る自分に酔って、ここまでやってきた。
プロを目指すつもりはないけれど、それなりに頑張ってきた。
パールマンの弾く『ヴォカリーズ』を聴いて、この曲に夢中になって、毎日弾いてた時もあった。
あと、ディーリアス。オケ曲だけど、『春初めてのカッコウの声を聴いて』は、気分のいい時、いつも心に鳴っている。
ピアノもやっていたが、指がいつまで経ってもオクターブ届かないので、諦めた。
音楽部で仲が良くなったのはひぃちゃんとリナ。二人から「サッチン」とあだ名が付けられた。
中学の時は「小山佐智」を略して「コサチ」、これはこれで悪くなかったが、サッチンの方がずっとカワイイ。
ひぃちゃんは同じヴァイオリンで、リナはチェロ。これに松本先輩のヴィオラが加わって、カルテットが組めるようになった。
カルテットと言えばベートーヴェンだろうということで、早速十四番の楽譜が配られ、練習を始めた。
難しい。これを半年かけて、なんとか制覇しようと言われた。
十月の文化祭で披露する予定だ。
私がこの高校生活で一番気に入ったのは、帰り道。
校門から長く長く続く坂道があって、そのちょうど先の向こう正面に西日が照るのだ。
全身に陽光を浴びて、家路に就く。
世界全体が、オレンジ色に輝く。素敵。
しばらく行くと広い竹藪があって、夏には蚊が大量発生して、手脚をたくさん噛まれた。
でも笹の揺れる音に癒される。住宅からこぼれる夕餉の匂いも混じった、優しいいきれが包んでくれる。
ここはみんなでワイワイ歩くより、ひとりがいい。
ひぃちゃんとリナには悪いけど、晴れた日は特に、先に帰ってしまう。
バス停はいかにも古めかしい。節榑立った小さな木のベンチがひとつ。
バス停の付近には田んぼが広がる。見晴らしはいい。ていうか、田んぼ以外何もない。
バスが来るまで、ここで日没を延々と眺める。
本当はここよりも学校から反対方向のバス停の方が駅に近くて、ほとんどの生徒がそっちを利用している。
でも私は、この風景が見たいから、敢えて遠回りをして、ここから帰ることにしている。
人もほとんどいないので、ひとり占め。
遠くの山々にゆっくりと日が沈む。空が七色に染まる。
私は空の、緑の部分をずっと見ているのが好きだ。幸せな緑。空の深さを一番感じていられる。
そして月が、星が現れる。
世界にはたくさんの色があり、光と影がある。目映くもあり、切なくもある。そしてそよ風の匂い。用水路のせせらぎ。
アマサギの鳴き声。頬を撫でる触覚前髪。
自分の五感が世界を味わいつくす、そんな気持ちの良い時間だ。
この時間のことを「薄暮」と言うのだと知ったのは、つい最近だ。
二学期が始まって、スカートの中が蒸れてしょうがない九月も半ばを過ぎた頃、いつものように音楽室でお弁当を食べつつ、
「そろそろ彼氏作りたいよねぇ。」
ひぃちゃんがまたこう切り出した。これでもう三回目だ。
「はぁ……。」
ひぃちゃんは芝居がかった溜息を吐く。
女子高生にはありがちな議題だとは思うが、自分でもビックリする程、ときめかない。
ひぃちゃんは続けて、
「夏休みはなんっにもなかったしなぁ。」
私はポテトサラダをつまみつつ、
「花火大会行ったじゃん。」
「私たち三人ででしょ?男っ気まったくなし!」
「だから、元カレ誘えば良かったじゃんか?」
リナがこう返すまでが、もはやルーティン化してしまった。
「元カレ言わない!アレはただの幼馴染み!」
「えー?でも昨日もLINE来てたんでしょ?」
「アイツはぼっちだから遊び仲間が欲しいだけ!まだガキなんだから。」
「音楽部は、男子部長ひとりだしねぇ。」
私はなんとなく話を合わせる。
「サッチンって、男の影ある気がするな。」
「え?」
ひぃちゃんがなぜか恨めしそうにこっちを見ている。
「サッチンカワイイもん。いたでしょ?」
「え?いないいない。」
「ホントに?」
「ホントホント。」
「あのワーグナーに誓えますか?」
と、防音壁に貼ってあるワーグナーの肖像画を指さす。
「ひぃちゃん、ワーグナーってヤリチンだったから、ダメだって。」
リナがなんとも言えないツッコミを入れる。
「ああーコジマになりてぇー」
「私、そういうの、ホント興味なかったから。」
「そうなの?」
と、ひぃちゃんはシソご飯をワンブロック掬い上げる。
「じゃあさ、みんなで『プリブラ』の中からひとりずつ選ぼうよ!」
冷静だったリナが急に目を輝かせる。
「また始まった。」
「私はずっと涼真様一筋だから、ひぃちゃんは翔玲君あたりがいいと思うよ!」
「私アイドルアニメはパス。」
リナがうっとりした眼差しで箸の先を咥える。
「涼真様、中一の時からずっーと俺の嫁!」
「もうそれって結構古くない?」
「古くない!来月もプリミュに行くんだから!」
「プリミュ?」
「『プリブラ』のミュージカル!」
「ああー……。」
「ねぇーひぃちゃんも一緒に、
「行かないって。」
「チケット二枚買ったのにぃー。」
「アンタもう学祭近いんだよ?あんまり合奏サボらないでよ?
七楽章なんてまだロクに合わせてないんだからね!」
「急に真面目になるー。あ、サッチンはどう?」
「私も……パスかな。」
恋愛には本当に興味がわかない。いや、人間関係全体に対して、
私は人より冷たい気がする。
過去誰かに傷つけられた訳でも、裏切られた訳でもない。臆病なだけなのだと言われれば、そうかも知れない。
小六の時に、どうして自分は生きているのだろう?どうして自分
は自分であって、お兄ちゃんでもなければお父さんでも、お母さん
でもないの?TVの中で顔を粉塗れにしてふざけているお笑い芸人でもなければ、
今日駅前のパチンコ屋の前でぶつかって睨まれたあのおばさんでもないの?という疑問で、眠れなかったことがある。
あの夜は、怖かった。
自分という存在がどこまでで、どこからが他人か、世界と自分との境界が解っているようで、まだ解ってない気がする。自分の皮膚一枚が、どれだけ自分を護ってくれているのだろうか。今にも中の臓腑が飛び出して、理科準備室の人体模型みたくなってしまうんじゃないだろうか。
だから目の前に見える世界が、時々ぼんやりと霞む。
お風呂に入っている時、自分のちょっとだけ膨らんだ胸を見て、
私はどうして男じゃないんだろう?とか。
私はどうして家の前に夜になると集まってくる野良猫に生まれて
こなかったんだろう?とか。
え、これはもしかして夢?私、生きてる?誰がそれを証明する
の?
うわー、頭おかしい。そんなことを考えてる自分って、暗いよね。
周りには決して言えない、私だけの秘密。こんなの相談できないし。
それから一週間後の放課後、この日もみっちり二時間合奏をしたが、どうしても縦が揃わなかった。
第一ヴァイオリンの重圧か、気ばかり焦る。
「小山さん、走ってる。」
松本先輩から何度もそう言われ、ますますプレッシャーが増す。
ひぃちゃんもリナも指が回ってないところが多いから、みんながみんな、という感じなのだが、今日は酷く、落ち込んだ。
今日もひとりで下校した。
特に今日は、ひとりになりたかった。
ひぃちゃんがどうやら「幼馴染み」に呼ばれて飛んで帰ったのもあって、なんか全体が嚙み合わないというか、ちぐはぐな感じが、気持ち悪かった。
坂の上から西日を浴びる。こうやって、もやもやを殺菌しよう。お布団のような気分になって、てくてく歩く。
夏服からブレザー復活して大満足だけど、これだけ日に照らされると、まだちょっと汗ばむ。
ヴァイオリンのケースの重さが今日は負担だ。今日くらい音楽室に置いてくれば良かったかな。
バス停に着いた。
だんだん日が沈むのが早くなってきているが、今日は間に合った。
遠い山々の少し上、太陽はまだ世界を照らしている。
今日は空にたくさんの雲のシルエットが浮かんでいる。
輝いている空と明暗のコントラストがついて、まるでオランダ絵画のようだ。
たまに吹く風が、秋の訪れを告げるようにとても涼やかだ。
その風が広々と実った稲穂を揺らす。壮観だ。
ああ、癒される。
私は人間不信なのかな。そう思いたくはないけれど、ひぃちゃん達とお喋りしているよりも、こうやって夕焼けに身を浸している方が、自分を解放できる気がする。
世界と自分が、確かに繋がっている感じがする。
リヒャルト・シュトラウスの『夕映えの中に』が、脳内で鳴っていた。
バスが来た。
今日も空いてる。いつもの定位置に座る。
遠回りをしているだけなので、十分くらい迂回するととやがてウチの生徒が大量に乗ってくる。私は余裕で座ってられる。それもここのバス停を選ぶ利点だ。
それまでは田んぼの中をひたすら走る。一気に辺りは暗くなる。
街灯も碌にないから、地上はもう真っ暗だ。
二駅過ぎて、三つ目。
あ。
また、あの人だ。
バスに乗ってきたのは、同学年くらいの男子。
しかし、ウチの制服ではない。
この辺に他の高校あったっけ?といつも考えるのだが、とにかくここ十日くらい、ほぼ毎日ここで出会う。
スケッチブックとイーゼルを抱えているので、おそらく美術部なのだろう。
この辺まで遠征して、風景でも描いてるのかな?
彼も必ず、私の左前に座る。
今日はおばさんがひとり、最後尾に乗っているので三人でバスに揺られているが、二人っきりの時もある。
そういう時は、なんか、気まずい。
彼は必ず背を丸め気味にして、イーゼルを膝の前に置いて座る。
彼が不意にくしゃみをした。クチュン。女の子みたい。ちょっと笑えた。
そう言えば、彼と目を合わせたこともない。
せっかくなんで声をかけてみようか、なんて気も起こらない。
自分、コミュ障ですから。
しばらくするとウチの生徒がどんどん乗ってきた。
通路までびっしり人で埋まるので、すぐ近くの彼の姿も見えなくなった。
そのまま駅について、もみくちゃになってバスを出る頃には、いつも彼の姿を見失っている。
駅のホームを見回してみても、おそらく電車が逆方向で向かいのホームにいるのだろうが、見つからない。
その辺になると、やだ私、何意識しちゃってるの?と急に恥ずかしくなり、探すのをやめて、文庫本を開く。
本を読むのは嫌いじゃないけれど、自分でも呆れるくらいスピードが遅いので、宮本輝の『優駿』を、かれこれ一か月くらい読み続けているが、まだ上巻が終わらない。
電車に往復三時間も揺られているので、暇つぶしにと思って読み始めてみたが、あれ、この登場人物誰だっけ?どういう人間関係だったっけ?とかいって前の頁に戻ったりして、ちっとも進まない。
これ読み終わったら、意地を張らないで漫画にするか……。
翌日は雨だった。
第七楽章の合奏が上手くいかない。
アレグロで細かなパッセージが続くのだが、それ以前に息が合わない。
アーティキュレーションも揃わない。ピッチもガタガタだ。
まぁつまり簡単に言うと、全然曲になってない。
「ちょっとみんな、これじゃ間に合わないよ!」
松本先輩も声を荒げる。
全然できてないのは私だ。
苦手なのは解ってたから、家で自主練もしてきた。
でも苦手意識というのは、取れない時はなかなか取れない。
同じところで躓く。そんなに難しいところかな?と自分で疑問にすら思うのだが、指が言うことを聞かない。
何度調弦してもE線が合わない
今日は特に生理だから、もうずっと、イライラしっぱなし。
帰り道、傘を差しながら三人で下校した。
今日はいつもと違う道。駅に近い方のバス停へ向かう。
ヴァイオリンのケースが濡れないよう、胸に抱えてかつ傘を差すので、非常に歩きにくい。
雨の日は嫌い。曇りの日も嫌い。えっと、セロトニン?太陽の光を浴びると脳内で作られるあれが出ないらしい。鬱にもなりやすいらしい。今日は最悪だ。
「サッチン。今日も自主練するの?」
「うん。」
「七楽章さ、テンポもう少し遅くしてくれればいいのになぁ。」
「先輩許してくれないもんね。」
「なんか部長と上手くいってないらしいよ。」
「嘘!?」
またひぃちゃんとリナは痴話トークに夢中になる。
「夏合宿の時はあんなにラブラブだったのに?」
「そうみたい。」
「だから最近カリカリしてるんだ。」
「ヴィオラの音に出てるよね、ガリガリガリガリって。」
「音に出すのはやめて欲しいなぁ。」
「それなー。」
ふと、気になった。
スケッチブックのあの人、今日もあそこにいるのかな?
まさか、いないよね?
結局、その晩はヴァイオリンを持って帰ってはみたものの、自主練はせず、さっさと寝た。
そんな気分にはとてもなれなかった。
寝る前に通ったリビングのTVでは天気予報が流れていて、今日の各地の放射線量が表示されていた。
もうこの図を見るのもすっかり慣れた。
何度も学校で教わった気がするが、0.0何マイクロシーベルトとか、数値が小さすぎて感覚的に掴めない。本当に毎日公表する意味があるのかも解らない。今の高校にも線量計は設置されているが、百葉箱並みにもう誰も見ていない。
でもこういう日は、ちょっとだけ気になる。
ベッドに入ると無性に寂しくなって、何か音だけでも欲しくなって、スマホでディーリアスを小さめの音でかけて、知らない間に眠った。
眠るまで、雨はずっとしとしと降っていた。
生理痛もだいぶ収まった翌朝は晴れた。
この日は松本先輩が学校を休んだ。風邪らしい。
合奏ができないので、残りの三人は個人練をして過ごした。
やっぱり弓が重い。ちょっと弾くたび、間を置いた。
四時過ぎくらいになって、みんな飽きてしまって、
「ねぇ、久しぶりにガスト寄らない?」
という、ひぃちゃんの誘いを断り、ひとり下校した。
行かなければいけないところがあった。
竹藪の先にある、あのバス停。
いつもの景色が見たかった。
いや、違う。それだけじゃない。
バスの来るタイミングを見計らっていた。
次のに乗ればいいのかな?いや、確率で言うと、もっと後だよね?
でも今は日暮れが早くなったから、次のでいいのかも。
何ソワソワしてるんだろう?私。
こんな私、違う。
なんだか、ちょっと、おかしいよ。
ん?
なんか動いた。
普段はあまり気にしない、バス停から少し国道を右へ進んだところにある、小さな橋。
橋と言っても用水路に架けたような橋だから、とても短い。
石造りなのかな、最近できたようなものには見えない。
そこに、人影があった。
普段車もたいして通らない道だから、バス停の周りは人気がまったくなくて、用水路に水鳥がたむろするのは見えるのだが、人と言えばたまに遠くの畦道に手押し車を押してとぼとぼ歩く農家のお爺さんを見るくらい。
あっ。
背中の向こうにイーゼルがある。
彼だ。
ドクン、と心臓が全身を打った。
予想外の所で見つけて、身体のあちらこちらの細胞が動揺してる。
何意識してるんだろう?
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
コミュ障ですから。
彼が、こっちを振り向いた。
わっ。
思わず視線を逸らす。
しばらくこっちを見て、またイーゼルに向かった。
なんかやだ、こんなのじゃない。
次のバスに乗って帰ろう。
「あの、」
え?
声の主は、間違いないく、彼だ。
「あの、すいません。」
結構な大声で、語りかけてくる。それなりに距離があるから当然だが。
「はいっ。」
こちらも負けじと、大声で応える。
「この辺のこと、良く知ってますか?」
知ってると言えば知ってるけれど、地元の人間ではないのだから、知らないと言えば知らない。
「まぁ、それなりに……。」
「この辺で、緑の強い林って、ないですか?」
緑の強い、林?
一瞬では、何を言っているのか解らない。
「えと、林、ですか?」
「ごめんんさい、ちょっと、来ていただけませんか?」
誘われた。行くしかない。
心臓が激しく鳴り続ける。鼓動のたびに身体がピョコピョコ跳ねる。
あ、いけない、今日スカートのプリーツがちょっと皺になってるんだった。歩きながら、それが気になってしょうがない。
「こっから、こう、見てください。」
彼が目の前の風景を指さす。
「……?」
「田んぼの稲が実っちゃって、緑色が出なくなっちゃったんです。だから、ちょうどあの辺、赤い納屋があるところ、あの辺にいい感じの林があれば、色のバランスが取れるんですけど……。」
「はぁ……。」
緑も何も、夕景だ。みんなオレンジ色に見える。
「えっと、画角で、……こんな感じ。」
と、人差し指と親指でフレームを作って、私に見せる。
「解ります?」
「えっと……。」
さっぱり解らない。
「ダメか……すいません。」
「こちらこそ、すいません。」
それっきり、彼は押し黙ってしまった。
なんだ、この気まずさは。
こんなの、なんか嫌。
「あの……。」
自分の身体の芯の部分から、勇気が湧き出た。
「近くの、高校ですか?」
「あ……いえ。」
俯き加減で彼はかぶりを振る。
「駅で言うと、二駅北の……。」
「ああ……。」
そう言えば、制服で解った。
「どうして、ここまで?」
「美術部に入ってて……今、展覧会用に、この辺の風景を絵にしてるんです。」
そう言って、彼はスケッチブックに書かれた何枚かの水彩画を見せた。
「どうしても美しい夕焼けを描きたくて、見つけたのがここだったんです。開けていて、広い絵が描けると思って。」
あれっ。
今何か、繋がった気がする。
「でも、何か足りない。なんだろうなぁ。」
「あの、じゃあ、」
思わず声に熱が入る。
「バスでもう一駅行くと、それに近いところがあるかも。」
「そうですか、じゃあ、連れてってもらっていいですか?」
歩いて行こうと思えば行けたんだけれど、その直後バスが来たので、二人で乗った。
そして、一駅で降りた。
バス停から、木立の間を少し歩くと、また田んぼが広がる。
「ここはどうですか?」
「うーん……。」
お気に召さないようだ。
もう日が暮れる。
「ごめんなさい……お役に立てなくて。」
「明日また、探してもらえませんか?」
「え?」
どれだけ落ち着こうとしても、ドキドキが止まらない。
「あ、はい……。」
日没と同時に、私達はバスに乗り、家路に就いた。
気づけば、二人掛けの席に、隣り合って座っていた。
片方がヴァイオリンケースを抱え、片方はイーゼルとスケッチブックを抱えている。随分と窮屈だ。
もうコミュ障の私は意識が頭上一万メートルの彼方に飛んでいきそうな勢いだった。本当に気圧が低い気がする。耳がキーンとする。そのくらい世間話は苦手だ。ましてや男子と。
彼も気まずい沈黙を察知してか、
「すいません、見ず知らずの人に、ここまで付き合わせちゃって……。」
「いえ、全然……。」
そしてまた、沈黙。会話会話、会話にしなきゃ。
「お名前、訊いていいですか?」
雉子波祐介。変わった苗字。私と同学年だ。
「絵は、昔からお好きなんですか?」
「いや、……描くようになったのは中二の時からです。」
「きっかけとか、あったんですか?」
彼は少し言い淀んだが、
「……この世界を、描きとめておきたくて。」
「……?」
「僕、避難してきたんです。この市に。」
ああ……。
「僕の住んでいたところは、今も帰還困難区域です。……今まで当たり前のように見ていた風景が、こんな一瞬で、見えなくなってしまうものなんですね。……だから、今生きている、この場所を、少しでも多く残しておこうと。」
「……。」
「写真でも良かったんですが、絵の方がなんか、こう、自分の想いが込められるというか。」
「それ、良く解る。」
そこから、話を一歩外すかのように、彼が勉強したという、影響を受けた画家の名前がどんどんと出てきた。でも私が知ってたのはゴッホだけ。
私もお返しに、ヴァイオリンケースの趣味や好きな作曲家について、思いつくままに喋ってみた。
途中、いつものようにウチの生徒達が乗り込んできた。
どうしよう、知り合いがいたら見つかるな、そう思ったが、
「ディーリアス、僕も好きです!」
彼が興奮気味にそう言ったものだから、会話をやめる訳にはいかなくなった。
ディーリアスを知っている同世代の子は初めてで、ビックリした。
同乗する生徒に知り合いはいなかったみたいだが、大丈夫かな。そこからはずっとキョロキョロしつつ会話するしかなかった。
「あのバス停で、明日の四時に待ってます。」
彼は駅前で、そう言った。
「雨だったら、どうします?」
「その時は、明後日で。」
改札を二人で潜って、そこで別れた。
それぞれ逆のホームだ。
線路を間に、向かい合ってホームに立った。
ちょっと、恥ずかしい。
知らんぷりするのも失礼かな、と思って、愛想笑いをした。
向こうも、目線をしばし外しつつ、ぎこちない笑顔を浮かべてこっちを見ている。
たぶん、お互い同じような表情をしていたのだろう。
向こうの電車が先に来た。大勢乗っていたので、そこで彼の姿は消えた。
翌日、部活をどうやってサボろうかと延々悩んだ挙句、
「昔の友達と、外せない約束ができたので。」
と、キワキワの嘘をついたら早速、ひぃちゃんが嚙みついた。
「彼氏でしょ?彼氏??できたの??」
「いや、違うから。」
「でも男でしょ?」
「いや、女。女子。」
「じゃあ証拠の写メ送ってよ。」
「いや、それは……。」
「ひぃちゃん、自分が上手くいってないからって、八つ当たりしないの。」
リナが呆れ顔で諭す。
どうやらひぃちゃんは、「幼馴染み」に振られたらしい。だから最近の彼女のルサンチマンの、凄いこと。校内のカップルを見ては憎まれ口を叩いている。
「嘘ついたらずっと呪ってやる!死ね死ね死ね死ねしんじまえ ~!って。」
「やめなさいって。」
みんな、今日だけはごめん。
松本先輩には、帰って自主練すべき箇所をいくつか指摘され、宿題にされた。
下校。晴れた。
鰯雲がより一層空の高さを感じさせる。
でもホッとしたかというと、正直、期待というより、不安だった。
昨日のようなテンションで、今日も持つのかな?
彼との仲が、どう発展するのか、しないのか。
経験したことのない、未知の人間関係に、怯えていたのかも知れない。そりゃするって。
彼氏とか、そんなんじゃないし。
そんなことを期待して、これから目的地へ向かう訳じゃないし。
そもそも、彼氏と「付き合う」ということの意味が、何をすれば「付き合う」ことになるのか、解らない。
いや、本音は、解らないフリをしていたいだけかも。
まだ十五歳の少女に、恋愛の何が解るというのだ。
とか。
異性との恋愛は私にとって、強烈に他人を意識することなのだと思う。
自分と他人とに、明らかな線引きをすること。
家族では、その線引きはできない。あまりに近くにいすぎるから。
家族以外の人間で、自分と他人とは違うのだ、という厳然とした事実に驚愕しつつ、しかしそれでも敢えて、その線引きを越え、一体感を見出したい。ひとつになりたい。それも家族以上に。
そんな、物理的にはあり得ない、絶望的で不毛な欲求だと思っている。なんとなく。
私に果たして、そんなことができるのだろうか?想像はしたことあるが、それでも想像つかない。
バス停に着いた。
また同じ、石橋の傍に、彼はいた。
待っていたというより、昨日と同じくイーゼルにスケッチブックを掛け、一心不乱に絵と向き合っているようだ。
今日はいつにも増して、西日が強烈だ。目に染みる。
「あのう……。」
恐る恐る近づいて、話しかけた。
「あ、今日もありがとう。」
彼は、どこか吹っ切れたような笑顔で、私を見た。
「ここで、描くことにしました。」
「え?」
「やっぱり、ここが一番、光線の色合いがいいんです。決めました。ここの絵を描きます。」
「そうですか。」
「だから、わざわざ呼んでおいて、無駄骨を折らせてすいません。」
「あ、いえ、いいんです。」
彼はそこから、ひたすら、夕日と格闘していた。
彼の絵の描き方は、下書きがほとんどない。水彩絵の具を直で
置き、一気に色を付け仕上げるスタイルのようだ。
油彩のように絵の具を重ねるタイプではないので、一か八か、色を作ったら、一筆書きのように大胆に紙に乗せていく。修正はほとんどできない。
その迷いのなさは職人技のようだ。筆が縦横無尽に走る。
「今日は、描けそうな気がする。」
筆を止めずに、彼はそう言った。
「あなたのお陰です。」
「いえ、そんな……。」
確かに、今日は特に、オレンジの光線が、気持ちいい。
「でも、ここを気に入ってくれて、嬉しい。」
「うん。」
「私の、大好きな風景だったから。」
「解ります。」
「あ、緑の空。」
「え?」
「ほら、あそこ、解りますか?」
「ええ。」
「私、あれを見ていると、幸せな気持ちになれるんです。」
「そういう映画がありますよ。」
「え?」
「『緑の光線』っていう映画。」
「知らない。」
「太陽の緑の光線は幸運の印らしいですよ。」
「そうなんだ。」
「DVD、家にあった気がします。貸しますよ。」
「ありがとう。」
はっと我に返るような冷たい風が二人の間を吹き抜けた。それに呼応して芒がざわつく。
なんか私達、今日は目的もなく、普通に世間話してる。
その自然さが、心地良い反面、怖い。
私は彼から離れ、橋の欄干にもたれかかった。
彼の邪魔をしているのかも知れない。今からどうしよう?私。
夕日の温かさと、風の寒さが、私の心をくすぐる。
ここで今まで味わったことのなかった感覚。
帰ろ、っかな?
このまま見守るのも悪くないけれど。
「何か、弾いてくれませんか?」
「はい?」
「ヴァイオリン。」
「ここで、ですか?」
「駄目ですか?」
「いや、……そんなことは、」
「お願いします。」
彼はスケッチブックから目を離すことなく、集中力のある声色で
頼んでくる。
「音楽があれば、一気に描けそうな気がするんです。」
そこまで言われたら、断りようがなくなった。
ちょうど手持ち無沙汰だったし、それにこの風景の中で、ヴァイオリンを弾く、それは実に魅力的なことだ。今まで思いつかなかったのが不思議なくらいだ。
夕映えの中で絵を描く少年とヴァイオリンを弾く少女。
素敵。それだけで絵になる。
私はケースからヴァイオリンを取り出し、弓を張り、軽く松脂を 塗った。それから弦のチューニングをやりつつ、
「何、弾きますか?」
「曲ですか?」
「はい。」
「お任せします。この景色に相応しいものを。」
「ディーリアス?」
「でなくてもいいです。」
何にしよう……。
あまりカッコつけたものを弾いても、雰囲気が壊れそうな気がする。
この景色に相応しいもの……。
いつも気になるE線を、念入りにアジャスターで合わせる。
再び欄干の端にもたれかかり、inCでいいかな、弦に弓を乗せた。
我ながら、雑味のないいい音が出た。
弾き始めたのは『朧月夜』。
菜の花畠に、入り日薄れ、見渡す山の端、霞ふかし。
季節的にはちょっと違うけど、これが浮かんだので、気分で。
ああ、気持ちいい。
自分の音がこれ程世界に溶け込んでいくのは、初めての体験かも知れない。
ホールの残響とはまた違う、世界が共鳴している響き。
風の音、草のざわめきの音と優しく混じり合う、ヴァイオリンの調べ。
世界が私と一緒に歌っている。
素敵。
春風そよふく、空を見れば、夕月かかりて、におい淡し。
一番を弾いて、一息入れた。
「『朧月夜』ですね。」
彼が振りむき、微笑んだ。
「いい歌です。」
そう言うと、絵筆を水入れに突っ込んだ。
そこから日没まで、何曲か弾いた。ディーリアスも弾いた。
こんなに気持ち良く弾けたのは、生まれて初めてじゃないだろうか。快感。
絵の方は、惜しいところまで行ったようだが、間に合わなかったらしい。
ヴァイオリンの独奏の次は蟋蟀の合唱が始まった。
「帰りますか。」
もう暗くてほとんど見えなくなった自分の絵を入念に確認しつつ、彼は言った。
「もう何枚か描こうと思います。この辺で。」
帰りのバスの中で、彼は満足そうに言った。
「そう。」
「次は、昨日紹介してもらった、あそこにしようかな。」
「いいんじゃない?」
タメ口をちょいちょい差し入れ始めた自分がいる。
「小山さんは、部活、忙しくなるんですよね?」
「え?……まぁ、学祭近いし。」
「じゃあ、もう付き合ってもらうのは、無理かな。」
「付き合う」という単語が彼から飛び出して、思わず息を飲んだ。
「そうですね、……これから日が沈むのも早くなるし、夕日を一緒に見るのは無理かも。」
「そっか……。」
ちょっと間が空く。あれ、なんか急に空気が重くなった。
私のせいかな。そんな酷いこと言った気はしないのだが。
彼の表情が見る見る内に強張る。どうしたんだろう?と覗き込むと、
「……あのっ、」
彼は頭のてっぺんから出たような声を上げた。
「あなたのヴァイオリン、また聴きたいです。」
「……!」
すっごい、睨まれてる。
「もう一度、聴けますか?」
「え、そりゃ、必要なら……、」
「だから、あのっ、」
「はいっ、」
「LINE、交換してくれませんか?」
こないだ買ったスタンプだったかな、カモノハシが有頂天で飛び上がってる絵、あれが脳裏に浮かんだ。
LINEでお互いスタンプだけで会話になってない会話をしている瞬間、好き。
また駅のホームで向かい合った。
次に会う日時は決めなかった。
でも、今はそれでいい。
彼のはにかみ笑顔を見送った。
家に着くまでの住宅街の坂道、私はスキップをして帰っていた。
朧月夜。
<後半に続く>