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山本寛オリジナル作品「薄暮」アニメ制作プロジェクト

山本寛による新作オリジナル劇場作品「薄暮」アニメ制作費を募るプロジェクトです。2018年劇場公開を予定

現在の支援総額

21,036,500

140%

目標金額は15,000,000円

支援者数

1,225

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2017/02/25に募集を開始し、 1,225人の支援により 21,036,500円の資金を集め、 2017/04/29に募集を終了しました

エンタメ領域特化型クラファン

手数料0円から実施可能。 企画からリターン配送まで、すべてお任せのプランもあります!

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現在の支援総額

21,036,500

140%達成

終了

目標金額15,000,000

支援者数1,225

このプロジェクトは、2017/02/25に募集を開始し、 1,225人の支援により 21,036,500円の資金を集め、 2017/04/29に募集を終了しました

山本寛による新作オリジナル劇場作品「薄暮」アニメ制作費を募るプロジェクトです。2018年劇場公開を予定

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【リターン内容追加!】ユーザー様からのご意見参考にしまして、設定資料集付きコースや、1000円よりご支援いただけるコースも用意いたしました。監督から御礼の電話がかかってくるコースも用意いたしました! 詳細はこちらからhttps://camp-fire.jp/projects/view/11715


【本編エンドロールにお名前をクレジットについて】こちらのリターンについては、支援者様の「本名」での記載だけでなく、ご希望の方は「ハンドルネーム」での記載へ変更対応可能でございます。こちらはプロジェクトサクセス後に再度詳細を案内させていただきます。 引き続き本プロジェクトのご支援よろしくお願い申し上げます。    


 『薄暮』  山本 寛    私はセーラーよりブレザー派だ。  中学校は公立で、黒のセーラーに白いスカーフだった。 ダサい。 お兄ちゃんは私よりも頭が良くて、中高一貫の進学校に通っていた。 紺のブレザー。羨ましかった。  高校は制服で選んだようなものだ。 親からは、そんなに頑張っても無駄だからどこでも入れたら十分、とからかわれ、それがやけにムカついて、中三から柄にもなく猛勉強して、進路指導の時言われたのよりランク一つ上の高校を選び、十二月の模試ではC判定だったのが、奇跡的に合格した。  家から電車とバスを乗り継いで、二時間もかかる、私学。 毎日五時半起き。眠い。 でも初めてブレザーに袖を通した時、思わず鏡の前で「カワイイ。」を連発してしまった。自分にじゃない、制服にだ。 こりゃ肉体改造しなきゃな。そう思った。 でもいまだに痩せない。お腹の肉がむっちり掴める。  部活は音楽部に入った。 クラスで最初に仲良くなった岡村さんから吹奏楽部に誘われたが、四歳から続けているヴァイオリンを今さら手放すのも勿体なくて、断った。 とは言え部員は十人。オーケストラを編成するには苦しいが、中学の時はもっと少なかったから、慣れている。 ソロ以外に室内楽もできるのは嬉しい。  ヴァイオリンは好きだ。と言うより、発表会で綺麗なドレスを着てカッコよくポーズを取る自分に酔って、ここまでやってきた。 プロを目指すつもりはないけれど、それなりに頑張ってきた。 パールマンの弾く『ヴォカリーズ』を聴いて、この曲に夢中になって、毎日弾いてた時もあった。 あと、ディーリアス。オケ曲だけど、『春初めてのカッコウの声を聴いて』は、気分のいい時、いつも心に鳴っている。  ピアノもやっていたが、指がいつまで経ってもオクターブ届かないので、諦めた。  音楽部で仲が良くなったのはひぃちゃんとリナ。二人から「サッチン」とあだ名が付けられた。 中学の時は「小山佐智」を略して「コサチ」、これはこれで悪くなかったが、サッチンの方がずっとカワイイ。 ひぃちゃんは同じヴァイオリンで、リナはチェロ。これに松本先輩のヴィオラが加わって、カルテットが組めるようになった。 カルテットと言えばベートーヴェンだろうということで、早速十四番の楽譜が配られ、練習を始めた。 難しい。これを半年かけて、なんとか制覇しようと言われた。 十月の文化祭で披露する予定だ。  私がこの高校生活で一番気に入ったのは、帰り道。 校門から長く長く続く坂道があって、そのちょうど先の向こう正面に西日が照るのだ。 全身に陽光を浴びて、家路に就く。 世界全体が、オレンジ色に輝く。素敵。 しばらく行くと広い竹藪があって、夏には蚊が大量発生して、手脚をたくさん噛まれた。 でも笹の揺れる音に癒される。住宅からこぼれる夕餉の匂いも混じった、優しいいきれが包んでくれる。 ここはみんなでワイワイ歩くより、ひとりがいい。 ひぃちゃんとリナには悪いけど、晴れた日は特に、先に帰ってしまう。  バス停はいかにも古めかしい。節榑立った小さな木のベンチがひとつ。 バス停の付近には田んぼが広がる。見晴らしはいい。ていうか、田んぼ以外何もない。 バスが来るまで、ここで日没を延々と眺める。  本当はここよりも学校から反対方向のバス停の方が駅に近くて、ほとんどの生徒がそっちを利用している。 でも私は、この風景が見たいから、敢えて遠回りをして、ここから帰ることにしている。 人もほとんどいないので、ひとり占め。  遠くの山々にゆっくりと日が沈む。空が七色に染まる。 私は空の、緑の部分をずっと見ているのが好きだ。幸せな緑。空の深さを一番感じていられる。 そして月が、星が現れる。 世界にはたくさんの色があり、光と影がある。目映くもあり、切なくもある。そしてそよ風の匂い。用水路のせせらぎ。 アマサギの鳴き声。頬を撫でる触覚前髪。 自分の五感が世界を味わいつくす、そんな気持ちの良い時間だ。  この時間のことを「薄暮」と言うのだと知ったのは、つい最近だ。    二学期が始まって、スカートの中が蒸れてしょうがない九月も半ばを過ぎた頃、いつものように音楽室でお弁当を食べつつ、 「そろそろ彼氏作りたいよねぇ。」 ひぃちゃんがまたこう切り出した。これでもう三回目だ。 「はぁ……。」 ひぃちゃんは芝居がかった溜息を吐く。 女子高生にはありがちな議題だとは思うが、自分でもビックリする程、ときめかない。 ひぃちゃんは続けて、 「夏休みはなんっにもなかったしなぁ。」 私はポテトサラダをつまみつつ、 「花火大会行ったじゃん。」 「私たち三人ででしょ?男っ気まったくなし!」 「だから、元カレ誘えば良かったじゃんか?」 リナがこう返すまでが、もはやルーティン化してしまった。 「元カレ言わない!アレはただの幼馴染み!」 「えー?でも昨日もLINE来てたんでしょ?」 「アイツはぼっちだから遊び仲間が欲しいだけ!まだガキなんだから。」 「音楽部は、男子部長ひとりだしねぇ。」 私はなんとなく話を合わせる。 「サッチンって、男の影ある気がするな。」 「え?」 ひぃちゃんがなぜか恨めしそうにこっちを見ている。 「サッチンカワイイもん。いたでしょ?」 「え?いないいない。」 「ホントに?」 「ホントホント。」 「あのワーグナーに誓えますか?」 と、防音壁に貼ってあるワーグナーの肖像画を指さす。 「ひぃちゃん、ワーグナーってヤリチンだったから、ダメだって。」 リナがなんとも言えないツッコミを入れる。 「ああーコジマになりてぇー」 「私、そういうの、ホント興味なかったから。」 「そうなの?」 と、ひぃちゃんはシソご飯をワンブロック掬い上げる。 「じゃあさ、みんなで『プリブラ』の中からひとりずつ選ぼうよ!」 冷静だったリナが急に目を輝かせる。 「また始まった。」 「私はずっと涼真様一筋だから、ひぃちゃんは翔玲君あたりがいいと思うよ!」 「私アイドルアニメはパス。」 リナがうっとりした眼差しで箸の先を咥える。 「涼真様、中一の時からずっーと俺の嫁!」 「もうそれって結構古くない?」 「古くない!来月もプリミュに行くんだから!」 「プリミュ?」 「『プリブラ』のミュージカル!」 「ああー……。」 「ねぇーひぃちゃんも一緒に、 「行かないって。」 「チケット二枚買ったのにぃー。」 「アンタもう学祭近いんだよ?あんまり合奏サボらないでよ? 七楽章なんてまだロクに合わせてないんだからね!」 「急に真面目になるー。あ、サッチンはどう?」 「私も……パスかな。」  恋愛には本当に興味がわかない。いや、人間関係全体に対して、 私は人より冷たい気がする。 過去誰かに傷つけられた訳でも、裏切られた訳でもない。臆病なだけなのだと言われれば、そうかも知れない。  小六の時に、どうして自分は生きているのだろう?どうして自分 は自分であって、お兄ちゃんでもなければお父さんでも、お母さん でもないの?TVの中で顔を粉塗れにしてふざけているお笑い芸人でもなければ、 今日駅前のパチンコ屋の前でぶつかって睨まれたあのおばさんでもないの?という疑問で、眠れなかったことがある。 あの夜は、怖かった。 自分という存在がどこまでで、どこからが他人か、世界と自分との境界が解っているようで、まだ解ってない気がする。自分の皮膚一枚が、どれだけ自分を護ってくれているのだろうか。今にも中の臓腑が飛び出して、理科準備室の人体模型みたくなってしまうんじゃないだろうか。 だから目の前に見える世界が、時々ぼんやりと霞む。 お風呂に入っている時、自分のちょっとだけ膨らんだ胸を見て、 私はどうして男じゃないんだろう?とか。 私はどうして家の前に夜になると集まってくる野良猫に生まれて こなかったんだろう?とか。 え、これはもしかして夢?私、生きてる?誰がそれを証明する の? うわー、頭おかしい。そんなことを考えてる自分って、暗いよね。 周りには決して言えない、私だけの秘密。こんなの相談できないし。  それから一週間後の放課後、この日もみっちり二時間合奏をしたが、どうしても縦が揃わなかった。 第一ヴァイオリンの重圧か、気ばかり焦る。 「小山さん、走ってる。」 松本先輩から何度もそう言われ、ますますプレッシャーが増す。 ひぃちゃんもリナも指が回ってないところが多いから、みんながみんな、という感じなのだが、今日は酷く、落ち込んだ。  今日もひとりで下校した。 特に今日は、ひとりになりたかった。 ひぃちゃんがどうやら「幼馴染み」に呼ばれて飛んで帰ったのもあって、なんか全体が嚙み合わないというか、ちぐはぐな感じが、気持ち悪かった。 坂の上から西日を浴びる。こうやって、もやもやを殺菌しよう。お布団のような気分になって、てくてく歩く。 夏服からブレザー復活して大満足だけど、これだけ日に照らされると、まだちょっと汗ばむ。 ヴァイオリンのケースの重さが今日は負担だ。今日くらい音楽室に置いてくれば良かったかな。  バス停に着いた。 だんだん日が沈むのが早くなってきているが、今日は間に合った。 遠い山々の少し上、太陽はまだ世界を照らしている。 今日は空にたくさんの雲のシルエットが浮かんでいる。 輝いている空と明暗のコントラストがついて、まるでオランダ絵画のようだ。 たまに吹く風が、秋の訪れを告げるようにとても涼やかだ。 その風が広々と実った稲穂を揺らす。壮観だ。 ああ、癒される。 私は人間不信なのかな。そう思いたくはないけれど、ひぃちゃん達とお喋りしているよりも、こうやって夕焼けに身を浸している方が、自分を解放できる気がする。 世界と自分が、確かに繋がっている感じがする。  リヒャルト・シュトラウスの『夕映えの中に』が、脳内で鳴っていた。  バスが来た。 今日も空いてる。いつもの定位置に座る。 遠回りをしているだけなので、十分くらい迂回するととやがてウチの生徒が大量に乗ってくる。私は余裕で座ってられる。それもここのバス停を選ぶ利点だ。 それまでは田んぼの中をひたすら走る。一気に辺りは暗くなる。 街灯も碌にないから、地上はもう真っ暗だ。 二駅過ぎて、三つ目。 あ。 また、あの人だ。 バスに乗ってきたのは、同学年くらいの男子。 しかし、ウチの制服ではない。 この辺に他の高校あったっけ?といつも考えるのだが、とにかくここ十日くらい、ほぼ毎日ここで出会う。 スケッチブックとイーゼルを抱えているので、おそらく美術部なのだろう。 この辺まで遠征して、風景でも描いてるのかな?  彼も必ず、私の左前に座る。 今日はおばさんがひとり、最後尾に乗っているので三人でバスに揺られているが、二人っきりの時もある。 そういう時は、なんか、気まずい。 彼は必ず背を丸め気味にして、イーゼルを膝の前に置いて座る。 彼が不意にくしゃみをした。クチュン。女の子みたい。ちょっと笑えた。 そう言えば、彼と目を合わせたこともない。 せっかくなんで声をかけてみようか、なんて気も起こらない。 自分、コミュ障ですから。  しばらくするとウチの生徒がどんどん乗ってきた。 通路までびっしり人で埋まるので、すぐ近くの彼の姿も見えなくなった。 そのまま駅について、もみくちゃになってバスを出る頃には、いつも彼の姿を見失っている。 駅のホームを見回してみても、おそらく電車が逆方向で向かいのホームにいるのだろうが、見つからない。 その辺になると、やだ私、何意識しちゃってるの?と急に恥ずかしくなり、探すのをやめて、文庫本を開く。 本を読むのは嫌いじゃないけれど、自分でも呆れるくらいスピードが遅いので、宮本輝の『優駿』を、かれこれ一か月くらい読み続けているが、まだ上巻が終わらない。 電車に往復三時間も揺られているので、暇つぶしにと思って読み始めてみたが、あれ、この登場人物誰だっけ?どういう人間関係だったっけ?とかいって前の頁に戻ったりして、ちっとも進まない。 これ読み終わったら、意地を張らないで漫画にするか……。  翌日は雨だった。 第七楽章の合奏が上手くいかない。 アレグロで細かなパッセージが続くのだが、それ以前に息が合わない。 アーティキュレーションも揃わない。ピッチもガタガタだ。 まぁつまり簡単に言うと、全然曲になってない。 「ちょっとみんな、これじゃ間に合わないよ!」 松本先輩も声を荒げる。  全然できてないのは私だ。 苦手なのは解ってたから、家で自主練もしてきた。 でも苦手意識というのは、取れない時はなかなか取れない。 同じところで躓く。そんなに難しいところかな?と自分で疑問にすら思うのだが、指が言うことを聞かない。 何度調弦してもE線が合わない 今日は特に生理だから、もうずっと、イライラしっぱなし。  帰り道、傘を差しながら三人で下校した。 今日はいつもと違う道。駅に近い方のバス停へ向かう。 ヴァイオリンのケースが濡れないよう、胸に抱えてかつ傘を差すので、非常に歩きにくい。 雨の日は嫌い。曇りの日も嫌い。えっと、セロトニン?太陽の光を浴びると脳内で作られるあれが出ないらしい。鬱にもなりやすいらしい。今日は最悪だ。 「サッチン。今日も自主練するの?」 「うん。」 「七楽章さ、テンポもう少し遅くしてくれればいいのになぁ。」 「先輩許してくれないもんね。」 「なんか部長と上手くいってないらしいよ。」 「嘘!?」 またひぃちゃんとリナは痴話トークに夢中になる。 「夏合宿の時はあんなにラブラブだったのに?」 「そうみたい。」 「だから最近カリカリしてるんだ。」 「ヴィオラの音に出てるよね、ガリガリガリガリって。」 「音に出すのはやめて欲しいなぁ。」 「それなー。」  ふと、気になった。 スケッチブックのあの人、今日もあそこにいるのかな? まさか、いないよね?  結局、その晩はヴァイオリンを持って帰ってはみたものの、自主練はせず、さっさと寝た。 そんな気分にはとてもなれなかった。 寝る前に通ったリビングのTVでは天気予報が流れていて、今日の各地の放射線量が表示されていた。 もうこの図を見るのもすっかり慣れた。 何度も学校で教わった気がするが、0.0何マイクロシーベルトとか、数値が小さすぎて感覚的に掴めない。本当に毎日公表する意味があるのかも解らない。今の高校にも線量計は設置されているが、百葉箱並みにもう誰も見ていない。 でもこういう日は、ちょっとだけ気になる。  ベッドに入ると無性に寂しくなって、何か音だけでも欲しくなって、スマホでディーリアスを小さめの音でかけて、知らない間に眠った。 眠るまで、雨はずっとしとしと降っていた。  生理痛もだいぶ収まった翌朝は晴れた。 この日は松本先輩が学校を休んだ。風邪らしい。 合奏ができないので、残りの三人は個人練をして過ごした。 やっぱり弓が重い。ちょっと弾くたび、間を置いた。 四時過ぎくらいになって、みんな飽きてしまって、 「ねぇ、久しぶりにガスト寄らない?」 という、ひぃちゃんの誘いを断り、ひとり下校した。  行かなければいけないところがあった。 竹藪の先にある、あのバス停。  いつもの景色が見たかった。 いや、違う。それだけじゃない。 バスの来るタイミングを見計らっていた。 次のに乗ればいいのかな?いや、確率で言うと、もっと後だよね? でも今は日暮れが早くなったから、次のでいいのかも。  何ソワソワしてるんだろう?私。 こんな私、違う。 なんだか、ちょっと、おかしいよ。  ん? なんか動いた。 普段はあまり気にしない、バス停から少し国道を右へ進んだところにある、小さな橋。 橋と言っても用水路に架けたような橋だから、とても短い。 石造りなのかな、最近できたようなものには見えない。  そこに、人影があった。  普段車もたいして通らない道だから、バス停の周りは人気がまったくなくて、用水路に水鳥がたむろするのは見えるのだが、人と言えばたまに遠くの畦道に手押し車を押してとぼとぼ歩く農家のお爺さんを見るくらい。  あっ。 背中の向こうにイーゼルがある。 彼だ。 ドクン、と心臓が全身を打った。 予想外の所で見つけて、身体のあちらこちらの細胞が動揺してる。  何意識してるんだろう? どうしよう、どうしよう、どうしよう。 コミュ障ですから。  彼が、こっちを振り向いた。 わっ。 思わず視線を逸らす。 しばらくこっちを見て、またイーゼルに向かった。  なんかやだ、こんなのじゃない。 次のバスに乗って帰ろう。  「あの、」 え? 声の主は、間違いないく、彼だ。 「あの、すいません。」 結構な大声で、語りかけてくる。それなりに距離があるから当然だが。 「はいっ。」 こちらも負けじと、大声で応える。 「この辺のこと、良く知ってますか?」 知ってると言えば知ってるけれど、地元の人間ではないのだから、知らないと言えば知らない。 「まぁ、それなりに……。」 「この辺で、緑の強い林って、ないですか?」 緑の強い、林? 一瞬では、何を言っているのか解らない。 「えと、林、ですか?」 「ごめんんさい、ちょっと、来ていただけませんか?」 誘われた。行くしかない。 心臓が激しく鳴り続ける。鼓動のたびに身体がピョコピョコ跳ねる。 あ、いけない、今日スカートのプリーツがちょっと皺になってるんだった。歩きながら、それが気になってしょうがない。  「こっから、こう、見てください。」 彼が目の前の風景を指さす。 「……?」 「田んぼの稲が実っちゃって、緑色が出なくなっちゃったんです。だから、ちょうどあの辺、赤い納屋があるところ、あの辺にいい感じの林があれば、色のバランスが取れるんですけど……。」 「はぁ……。」 緑も何も、夕景だ。みんなオレンジ色に見える。 「えっと、画角で、……こんな感じ。」 と、人差し指と親指でフレームを作って、私に見せる。 「解ります?」 「えっと……。」 さっぱり解らない。 「ダメか……すいません。」 「こちらこそ、すいません。」 それっきり、彼は押し黙ってしまった。 なんだ、この気まずさは。 こんなの、なんか嫌。 「あの……。」 自分の身体の芯の部分から、勇気が湧き出た。 「近くの、高校ですか?」 「あ……いえ。」 俯き加減で彼はかぶりを振る。 「駅で言うと、二駅北の……。」 「ああ……。」 そう言えば、制服で解った。 「どうして、ここまで?」 「美術部に入ってて……今、展覧会用に、この辺の風景を絵にしてるんです。」 そう言って、彼はスケッチブックに書かれた何枚かの水彩画を見せた。 「どうしても美しい夕焼けを描きたくて、見つけたのがここだったんです。開けていて、広い絵が描けると思って。」 あれっ。 今何か、繋がった気がする。 「でも、何か足りない。なんだろうなぁ。」 「あの、じゃあ、」 思わず声に熱が入る。 「バスでもう一駅行くと、それに近いところがあるかも。」 「そうですか、じゃあ、連れてってもらっていいですか?」  歩いて行こうと思えば行けたんだけれど、その直後バスが来たので、二人で乗った。 そして、一駅で降りた。 バス停から、木立の間を少し歩くと、また田んぼが広がる。 「ここはどうですか?」 「うーん……。」 お気に召さないようだ。 もう日が暮れる。 「ごめんなさい……お役に立てなくて。」 「明日また、探してもらえませんか?」 「え?」 どれだけ落ち着こうとしても、ドキドキが止まらない。 「あ、はい……。」  日没と同時に、私達はバスに乗り、家路に就いた。 気づけば、二人掛けの席に、隣り合って座っていた。 片方がヴァイオリンケースを抱え、片方はイーゼルとスケッチブックを抱えている。随分と窮屈だ。 もうコミュ障の私は意識が頭上一万メートルの彼方に飛んでいきそうな勢いだった。本当に気圧が低い気がする。耳がキーンとする。そのくらい世間話は苦手だ。ましてや男子と。 彼も気まずい沈黙を察知してか、 「すいません、見ず知らずの人に、ここまで付き合わせちゃって……。」 「いえ、全然……。」 そしてまた、沈黙。会話会話、会話にしなきゃ。  「お名前、訊いていいですか?」 雉子波祐介。変わった苗字。私と同学年だ。 「絵は、昔からお好きなんですか?」 「いや、……描くようになったのは中二の時からです。」 「きっかけとか、あったんですか?」 彼は少し言い淀んだが、 「……この世界を、描きとめておきたくて。」 「……?」 「僕、避難してきたんです。この市に。」 ああ……。 「僕の住んでいたところは、今も帰還困難区域です。……今まで当たり前のように見ていた風景が、こんな一瞬で、見えなくなってしまうものなんですね。……だから、今生きている、この場所を、少しでも多く残しておこうと。」 「……。」 「写真でも良かったんですが、絵の方がなんか、こう、自分の想いが込められるというか。」 「それ、良く解る。」  そこから、話を一歩外すかのように、彼が勉強したという、影響を受けた画家の名前がどんどんと出てきた。でも私が知ってたのはゴッホだけ。 私もお返しに、ヴァイオリンケースの趣味や好きな作曲家について、思いつくままに喋ってみた。  途中、いつものようにウチの生徒達が乗り込んできた。 どうしよう、知り合いがいたら見つかるな、そう思ったが、 「ディーリアス、僕も好きです!」 彼が興奮気味にそう言ったものだから、会話をやめる訳にはいかなくなった。 ディーリアスを知っている同世代の子は初めてで、ビックリした。 同乗する生徒に知り合いはいなかったみたいだが、大丈夫かな。そこからはずっとキョロキョロしつつ会話するしかなかった。  「あのバス停で、明日の四時に待ってます。」 彼は駅前で、そう言った。 「雨だったら、どうします?」 「その時は、明後日で。」 改札を二人で潜って、そこで別れた。 それぞれ逆のホームだ。 線路を間に、向かい合ってホームに立った。 ちょっと、恥ずかしい。 知らんぷりするのも失礼かな、と思って、愛想笑いをした。 向こうも、目線をしばし外しつつ、ぎこちない笑顔を浮かべてこっちを見ている。 たぶん、お互い同じような表情をしていたのだろう。 向こうの電車が先に来た。大勢乗っていたので、そこで彼の姿は消えた。  翌日、部活をどうやってサボろうかと延々悩んだ挙句、 「昔の友達と、外せない約束ができたので。」 と、キワキワの嘘をついたら早速、ひぃちゃんが嚙みついた。 「彼氏でしょ?彼氏??できたの??」 「いや、違うから。」 「でも男でしょ?」 「いや、女。女子。」 「じゃあ証拠の写メ送ってよ。」 「いや、それは……。」 「ひぃちゃん、自分が上手くいってないからって、八つ当たりしないの。」 リナが呆れ顔で諭す。 どうやらひぃちゃんは、「幼馴染み」に振られたらしい。だから最近の彼女のルサンチマンの、凄いこと。校内のカップルを見ては憎まれ口を叩いている。 「嘘ついたらずっと呪ってやる!死ね死ね死ね死ねしんじまえ ~!って。」 「やめなさいって。」  みんな、今日だけはごめん。  松本先輩には、帰って自主練すべき箇所をいくつか指摘され、宿題にされた。  下校。晴れた。 鰯雲がより一層空の高さを感じさせる。 でもホッとしたかというと、正直、期待というより、不安だった。 昨日のようなテンションで、今日も持つのかな? 彼との仲が、どう発展するのか、しないのか。 経験したことのない、未知の人間関係に、怯えていたのかも知れない。そりゃするって。  彼氏とか、そんなんじゃないし。 そんなことを期待して、これから目的地へ向かう訳じゃないし。 そもそも、彼氏と「付き合う」ということの意味が、何をすれば「付き合う」ことになるのか、解らない。 いや、本音は、解らないフリをしていたいだけかも。 まだ十五歳の少女に、恋愛の何が解るというのだ。 とか。  異性との恋愛は私にとって、強烈に他人を意識することなのだと思う。 自分と他人とに、明らかな線引きをすること。 家族では、その線引きはできない。あまりに近くにいすぎるから。 家族以外の人間で、自分と他人とは違うのだ、という厳然とした事実に驚愕しつつ、しかしそれでも敢えて、その線引きを越え、一体感を見出したい。ひとつになりたい。それも家族以上に。 そんな、物理的にはあり得ない、絶望的で不毛な欲求だと思っている。なんとなく。 私に果たして、そんなことができるのだろうか?想像はしたことあるが、それでも想像つかない。  バス停に着いた。 また同じ、石橋の傍に、彼はいた。 待っていたというより、昨日と同じくイーゼルにスケッチブックを掛け、一心不乱に絵と向き合っているようだ。 今日はいつにも増して、西日が強烈だ。目に染みる。  「あのう……。」 恐る恐る近づいて、話しかけた。 「あ、今日もありがとう。」 彼は、どこか吹っ切れたような笑顔で、私を見た。 「ここで、描くことにしました。」 「え?」 「やっぱり、ここが一番、光線の色合いがいいんです。決めました。ここの絵を描きます。」 「そうですか。」 「だから、わざわざ呼んでおいて、無駄骨を折らせてすいません。」 「あ、いえ、いいんです。」  彼はそこから、ひたすら、夕日と格闘していた。 彼の絵の描き方は、下書きがほとんどない。水彩絵の具を直で 置き、一気に色を付け仕上げるスタイルのようだ。 油彩のように絵の具を重ねるタイプではないので、一か八か、色を作ったら、一筆書きのように大胆に紙に乗せていく。修正はほとんどできない。 その迷いのなさは職人技のようだ。筆が縦横無尽に走る。 「今日は、描けそうな気がする。」 筆を止めずに、彼はそう言った。 「あなたのお陰です。」 「いえ、そんな……。」 確かに、今日は特に、オレンジの光線が、気持ちいい。 「でも、ここを気に入ってくれて、嬉しい。」 「うん。」 「私の、大好きな風景だったから。」 「解ります。」 「あ、緑の空。」 「え?」 「ほら、あそこ、解りますか?」 「ええ。」 「私、あれを見ていると、幸せな気持ちになれるんです。」 「そういう映画がありますよ。」 「え?」 「『緑の光線』っていう映画。」 「知らない。」 「太陽の緑の光線は幸運の印らしいですよ。」 「そうなんだ。」 「DVD、家にあった気がします。貸しますよ。」 「ありがとう。」  はっと我に返るような冷たい風が二人の間を吹き抜けた。それに呼応して芒がざわつく。 なんか私達、今日は目的もなく、普通に世間話してる。 その自然さが、心地良い反面、怖い。  私は彼から離れ、橋の欄干にもたれかかった。 彼の邪魔をしているのかも知れない。今からどうしよう?私。  夕日の温かさと、風の寒さが、私の心をくすぐる。 ここで今まで味わったことのなかった感覚。  帰ろ、っかな? このまま見守るのも悪くないけれど。  「何か、弾いてくれませんか?」 「はい?」 「ヴァイオリン。」 「ここで、ですか?」 「駄目ですか?」 「いや、……そんなことは、」 「お願いします。」 彼はスケッチブックから目を離すことなく、集中力のある声色で 頼んでくる。 「音楽があれば、一気に描けそうな気がするんです。」 そこまで言われたら、断りようがなくなった。 ちょうど手持ち無沙汰だったし、それにこの風景の中で、ヴァイオリンを弾く、それは実に魅力的なことだ。今まで思いつかなかったのが不思議なくらいだ。 夕映えの中で絵を描く少年とヴァイオリンを弾く少女。 素敵。それだけで絵になる。  私はケースからヴァイオリンを取り出し、弓を張り、軽く松脂を 塗った。それから弦のチューニングをやりつつ、 「何、弾きますか?」 「曲ですか?」 「はい。」 「お任せします。この景色に相応しいものを。」 「ディーリアス?」 「でなくてもいいです。」  何にしよう……。 あまりカッコつけたものを弾いても、雰囲気が壊れそうな気がする。 この景色に相応しいもの……。 いつも気になるE線を、念入りにアジャスターで合わせる。  再び欄干の端にもたれかかり、inCでいいかな、弦に弓を乗せた。 我ながら、雑味のないいい音が出た。 弾き始めたのは『朧月夜』。 菜の花畠に、入り日薄れ、見渡す山の端、霞ふかし。 季節的にはちょっと違うけど、これが浮かんだので、気分で。 ああ、気持ちいい。 自分の音がこれ程世界に溶け込んでいくのは、初めての体験かも知れない。 ホールの残響とはまた違う、世界が共鳴している響き。 風の音、草のざわめきの音と優しく混じり合う、ヴァイオリンの調べ。 世界が私と一緒に歌っている。 素敵。 春風そよふく、空を見れば、夕月かかりて、におい淡し。  一番を弾いて、一息入れた。 「『朧月夜』ですね。」 彼が振りむき、微笑んだ。 「いい歌です。」 そう言うと、絵筆を水入れに突っ込んだ。  そこから日没まで、何曲か弾いた。ディーリアスも弾いた。 こんなに気持ち良く弾けたのは、生まれて初めてじゃないだろうか。快感。 絵の方は、惜しいところまで行ったようだが、間に合わなかったらしい。 ヴァイオリンの独奏の次は蟋蟀の合唱が始まった。 「帰りますか。」 もう暗くてほとんど見えなくなった自分の絵を入念に確認しつつ、彼は言った。  「もう何枚か描こうと思います。この辺で。」 帰りのバスの中で、彼は満足そうに言った。 「そう。」 「次は、昨日紹介してもらった、あそこにしようかな。」 「いいんじゃない?」 タメ口をちょいちょい差し入れ始めた自分がいる。 「小山さんは、部活、忙しくなるんですよね?」 「え?……まぁ、学祭近いし。」 「じゃあ、もう付き合ってもらうのは、無理かな。」 「付き合う」という単語が彼から飛び出して、思わず息を飲んだ。 「そうですね、……これから日が沈むのも早くなるし、夕日を一緒に見るのは無理かも。」 「そっか……。」 ちょっと間が空く。あれ、なんか急に空気が重くなった。 私のせいかな。そんな酷いこと言った気はしないのだが。 彼の表情が見る見る内に強張る。どうしたんだろう?と覗き込むと、 「……あのっ、」 彼は頭のてっぺんから出たような声を上げた。 「あなたのヴァイオリン、また聴きたいです。」 「……!」 すっごい、睨まれてる。 「もう一度、聴けますか?」 「え、そりゃ、必要なら……、」 「だから、あのっ、」 「はいっ、」 「LINE、交換してくれませんか?」  こないだ買ったスタンプだったかな、カモノハシが有頂天で飛び上がってる絵、あれが脳裏に浮かんだ。 LINEでお互いスタンプだけで会話になってない会話をしている瞬間、好き。  また駅のホームで向かい合った。 次に会う日時は決めなかった。 でも、今はそれでいい。 彼のはにかみ笑顔を見送った。  家に着くまでの住宅街の坂道、私はスキップをして帰っていた。 朧月夜。 <後半に続く> https://camp-fire.jp/updates/view/25051


   次の日曜日、今日の晩御飯は私が作る!と宣言したら、家族一同、この世の終わりみたいな顔で私を見た。 「お前、熱でもあるのか?」とお父さんは本気で心配そうにしていたが、お母さんにはなんとなく伝わったみたいだ。 これでも料理はできるのだ。家庭科で習ったハンバーグだけだけど。 でも、今回は焦げた。 それでも家族はうまいうまいと食べてくれた。  最後に別れた日の夜、彼からLINEが来て、タイミングが合えば、バスで一緒に帰りましょう、と書いてあった。 それから、一日おきくらいで彼と待ち合わせ、バスの中で三十分くらい、今日はいい色が作れたとか、今日は失敗して全部パーになったとか、私の方も、何小節かのボウイングが上手くいかなくていつもガリッとさせてしまうとか、松本先輩にまた怒られたとか、噛み合ってるようなないような、そんな会話。 家に帰って、寝床に入る頃を狙ったようにLINEが来る。毎日じゃないけれど、今日もありがとう、とか、次はどこそこで待ち合わせましょうか、とか、そんな形式的な、短いやり取り。  ……付き合ってるのかな?これ。 デートはまだやったことがない。誘いもない。 私が部活忙しいから、遠慮しているのかも知れない。 でも、告白はされてない。 どちらも「好き」とは言ってない。 彼はどういうつもりなのかな? それ以前に、私は好きなのか?彼のことが。  「女の好き嫌いなんて、随分いい加減なものだと思う。」 そういう文章をどこかで読んだことがある。作者誰だっけ?  私が彼のことを好きかどうかというと、上手く説明できない。 小学生の時、お母さんに見送られて学校に行ったはいいが、そこからお母さんのことがずっと気になって、私がこうやって学校にいる間、お母さんは元気でいるのだろうか?ひょっとして急病で倒れてはいないだろうか?どこかで自動車事故に巻き込まれてはいないだろうか?そう気になって気になって、授業も上の空の気分に襲われたことが何度かある。 ああいうのが、ああこれって、好きなんだ、私はお母さんのことが好きなんだ、と思える瞬間だったのだと思う。  あるいは、中学一年の時、初めて家族でベートーヴェンの「第九」を聴きに行った時のこと。もう興奮して、カルチャーショックで、目の前で起きている、ステージに溢れんばかりの大勢のオーケストラやコーラスが人類の賛歌を奏でているということが、たまらなくキラキラ尊いように思えて、家に帰って就寝しても全然眠れず、身体は火照ったままで、あの響きが何度も何度も頭の中をリフレインして離れなかったような、あんな、憑りつかれたような感覚。  好きっていうのは、脳内に潜り込んだイメージが大暴れして意識を食らい尽くし、やがてもぞもぞと心臓や手足まで侵食していき、しまいに全身を乗っ取ってしまう、そんな寄生虫みたいな、いや寄生虫とか言うとちょっと気持ち悪いけれど、でもそういう、恐ろしく狂おしいものだと、ずっと思ってきた。  でも彼は、寄生虫のように身体を支配したりはしない。 もちろん彼のことを考えることはあっても、彼の不在に気が気じゃなくなったり、何度も脳内でリフレインしたりすることもない。 ただ、心の深奥の部分が、ちょっとあったかくなる。 自然と笑顔になる。 彼が語った話のひとつひとつが、専門的すぎて良く解らない内容でも、理想的な長さの残響で、体内にこだまする。 そう考えると、やっぱり私は彼のことが好きではないのかも知れない。いい、お友達。 幼稚園の時にふざけ合った男子達。秘密基地とか言って工事現場に入り、遊んだ仲間達。そういった中のひとりなのだろうか。  男性は女性のことを一目惚れするが、女性は男性を好きになるのに時間がかかる、そうTVで言ってた気もする。 そうかも知れないし、そうでないのかも知れない。  結局、ひぃちゃんとリナにはバレた。 「嘘じゃないって、付き合ってはいないから。」 「サッチンは私達を裏切ったんだぁ!」 「彼氏のようで、彼氏でない、か……なんとなく解るなぁ。」 「リナ、サッチンを庇うの!?」 「そうじゃなくって、オンナゴコロってそういうもんじゃない?」 「全っ然わかんない。」 「届きそうで、届かない。どこかで諦めなきゃいけない。……私達まだまだ幼いんだら、それくらいでいいのかもよ?」 「それ、アンタの相手が二次元だからでしょ?」 「失礼な!三次元だって解るよ!」 「でも、マジそんな感じかも。」 「サッチンはピュアだから。応援してるよ。」 「リナありがとうー。」 と、リナと抱き合う。 「私出会い系とかやろうかなぁ。」 「それはやめときなさいって。」 「来る日も来る日も、楽器や楽譜と格闘。こんなのでいいのか?私の青春。」 「あ、先輩来た。じゃあやりますか。」 と、みんなそれぞれ楽器を手にした。  学祭二週間前になると、いよいよ合奏の時間も長く、遅くなっていった。 彼は遅くなっても待ってくれると言ってくれたが、さすがに八時や九時まで待たせるのは心苦しいので、何度も断ったし、それに、彼の展覧会用の夕景画シリーズが一応の完成を迎えようとしてたことも、知っていた。 それでも私のために、無理して二駅の電車とバスを乗り継いで、会いに来てくれようとしている。 とても嬉しいことだったが、申し訳なさが優った。 でも彼は、徐々に底冷えがするバス停で、待っていてくれた。  「みかん、どうですか?」 と、彼は暗闇を走るバスの中で、いきなり所々青びれたみかんをひとつ差し出してきた。 「みかん?」 「今日の弁当で余ったんです。」 「余った?」 「昼休み、これを食べる暇がなかったんで。」 と、彼はそそくさとみかんの皮を剥き始めた。 「あ、ちょっとスケッチブック、持っててくれませんか?」 私は彼のスケッチブックを手に取った。 彼はみかんの皮だけでなく、筋も丁寧に取る気だ。なるほど、時間がかかりそうだ。 「学祭、もうすぐですね。」 「うん。」 「僕、行きますから。」 「ありがとう。頑張る。」 せっかくなので、スケッチブックを開いてみた。 抽象的だが色彩が鮮明で、水彩なのに陰影が濃く、色が華やかに主張する、そんな風景画。 私が傍らでヴァイオリンを演奏した時のもあった。見事に完成されていた。 私は絵心が皆無と言っていい程ないのだけれど、ヴァイオリンのお陰で豊かで素直な感性を持ち合わせているつもりだから、こういうのは何のフィルタもなく、心に響く。 素敵な絵。 と言うより、私が見ている風景と同じ。それが嬉しい。 同じ世界が見えてるんだ。 結構な頁数なので、興味本位でかなり最初の方をめくってみた。 すると女性の、いや、少女の絵が描かれてあった。 鉛筆画?いや違う、なんて言うのかな、炭みたいので、結構細部まで丁寧に描かれた、デッサン。 「あっ。」 みかんの筋を取っていた彼が素早くスケッチブックを手に取り、危うくみかんが落ちそうになった。 「それは駄目。」 「駄目?」 スケッチブックを引き寄せたその狼狽ぶりに、なんとなく察しがついた。 「その絵、」 「なんでもないですよ。」 「彼女さん?」 「違います。」 聞きたくないことのように思えるのに、口が止まらない。 「好きな人?」 「そんなんじゃないです。」 「そう……。」 今度は急に、言葉が出なくなった。 脳内で不意に『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲が流れ始めた。どうして? 計ってみたらほんの数十秒だったのだろうけれど、こんなに長く、息を止めてたかのような沈黙は、生まれてから今までなかったように思えた。その沈黙を破ったのは、彼のくぐもった声だった。 「……あの、」 「……はい。」 「誤解しないでください。」 「誤解しないですよ。」 「正直に言います。」 「はい。」 「初恋の人です。」  心臓に何か刺さった。 チクッとして、ズキッとした。  「中学の時の同級生です。でも今は全然会ってなくて、」 「でも、このスケッチブック、そんな昔から使っているんですか?」 あれっ。これって、なんか責めてる。どうして? 「昔のことを思い出して、想像で描いただけです。」 「今もその人のこと、好きなんですか?」 「……。」  彼は、完全に沈黙した。 駄目だ。何やってんの?私。 取り返しのつかないことをしてしまった。 私も後悔の念で、彼の顔を見ることもできず、黙り込んでしまった。 指先の血の気がどんどん引いていくのが解った。  遂に駅に着くまで、彼とはひとことも交わすことなく、バスを降りた。 「じゃあ、」 消え入るような声で彼がそう言ったような気がするが、ほとんど目を合わせることなく、駅の改札を潜って、別れた。 駅のホームで彼を探してみたが、電車がすぐにやってきたので、見つからなかった。  家に帰ったら、家族はもちろん既に食事を済ませていて、ひとりで肉じゃがとアジの開きを食べた。 彼がさっきまで筋を取っていたみかんが思い出された。  お風呂に入って、ジャバジャバとお湯を頭にかけて、ちょっとでも気が晴れるかなと思ったら、逆にぼんやりしてしまった。 なんか、洗っても洗っても汚れが落ちない。 変な匂いがする、私。  パジャマを着て、自分の部屋に入った。 明かりはつけなかった。窓外の家々の明かりや、街灯があるから、なんとなく室内は見える。 なんか急にむしゃくしゃして、パジャマを脱いだ。 ついでに下着も脱いで、床に放り投げた。 全裸のまま、ベッドに倒れ込んだ。 今の追い詰められた自分を解放するには、この方法しかなかった。思いつきだけど。 ベッドにうずくまって、ちょっと泣いた。 私、何やってんだろ。 このままじゃ寒いから、リモコンで暖房をつけて、ブランケットを手繰り寄せて、そのまま眠ろうとした。 ブランケットの毛がチクチク痒くてしょうがない。 解ってはいたけれど、眠気はまったく起こらなかった。  彼を問い詰めて、険しい表情を浮かばせてしまった良心の呵責というより、いやそれはそれであるんだけれど、むしろ、それで自分を苦しめているよね、今、私苦しいよね? なんであんなこと訊いちゃったんだろう。訊かなかったら、この生温かく優しい関係が永遠に続いたかも知れないのに。 「パンドラの箱」を開けてしまった。パンドラって確か、女性だったよね。 苦しい。 押し黙って目を逸らし、俯き気味に歯を食いしばる彼の横顔が、頭から離れない。 初恋の人、今も会っているのかも。会ってないとしても、やっぱり未練があるのかも。 そう思う度に自分の心が凍りつく。寒い。考えたくない。忘れたい。 私じゃなかったんだ、そう思う自分が、嫌でしょうがない。 付き合ってるんじゃなかったんでしょう?恋愛じゃなかったんでしょう? なのに、他に女性がいると気づくと、これ、嫉妬だよね? 嫉妬で自分がアンコントローラブルになっている、その事実を認めたくない。 自分のアイデンティティが音を立てて崩れていってる気がする。それが、息ができない程、苦しい。  今、普段なら彼がLINEを送ってくる時間帯だ。 来ないのかな? 何でもいいから、彼と話がしたい。 私の方から「ごめん」と打つべきなのだろうか?でも、その勇気はまったく出ない。もし不機嫌な返事が彼から来たら、もう、死ぬ。十分死ねる。 彼のために、死ぬ?どうしちゃったんだろう、私。  自分と他人とは違うのだ。そんなこと、ずっと解ってたのに。 ひとつになれないのが、辛い。  彼と繋がってないのが、寂しい。  彼の住んでいた場所へ、行ってみたい。 どんな田舎でも、殺風景でも、周りに何の店もなくても、好きになれそうな気がする。  翌朝まで裸のまま眠って、ちょっと寒かった気もするが目覚めることを拒否した身体がそのまま無理くり睡眠を続け、そして鼻腔の奥に痰を絡ませ、その不快感で、これは風邪引いたかも、と観念しながら、ブランケットを払い除けて起きた。 下着とパジャマを着て階段を降り、洗面所で必死に痰を吐き出したら、熱もないし、大丈夫っぽかった。 あれから結局、彼からのLINEは来なかった。  学祭まであと数日、私はベートーヴェンの十四番とひたすら格闘した。   色惚けの分も取り戻さないといけない、そういう自責の念もあって、みんなの足を引っ張るまいと、懸命だった。 合奏は日一日と良くなっていくのが解った。ごめん、みんな。私のせいで。頑張る。 彼のことが脳裏をよぎってなかったかと言えば嘘だ。それを振り払うために、頑張ったのだ。 彼からのLINEは途切れたままだった。 私らしくなかったんだ、この一ヶ月。 ちょっとした麻疹に罹っていたと思うしかない。 自分を取り戻したい。 ヴァイオリンが私の気持ちを代弁してくれる。我ながら、いい音だ。指も回ってきた。 これが私の、アイデンティティだ。たぶん。  学祭、彼は来ると約束していた。 来るのだろうか。  学祭前日、部全体でゲネプロをやった。 部長の音はやっぱりいい。音大に進む予定だから、本格的だ。難曲であるバルトークの無伴奏ソナタをさらっと弾きこなした。 私達も通したが、何箇所かずれて、止まりかけた。 「ヤバいね。もっかい合わせよう。」 松本先輩の声が震えていた。 ひぃちゃんもリナも、吐息の音すら出せない程押し黙ってしまった。 私がなんとかしなきゃ。自分のパートだけでも、完璧にしたい。 リハーサル後、もう一度通しで合わせた。 全部で四十分くらいある大曲だ。一回通しただけでヘトヘトになる。でも、 「もっかいお願いします。」 今度は私の方から提案した。今、凄く集中している。これを切らせたくない。 再度通したら、十時を回っていた。これ以上は、バスがない。 「明日も七時に集まって、やろう。」 松本先輩の声で、解散した。  帰りの電車の中で、LINEを通してひぃちゃん、リナと反省会をした。いつもは話があちらこちらに飛ぶのだが、今日はさすがにみんな、真剣だった。あそこのアーティキュレーションが違うんじゃないかとか、あそこの和音の音量バランスがどうだとか。 でも段々と、やるしかない、ていうかなるようにしかならない、と開き直りみたいな空気になってきて、最後の方はいつものスタンプの応酬になってしまった。 そこに別のトークが飛び込んできて、凍りついた。 彼だ。 「明日、十時開演ですよね?」 ちょうど反省会がいい感じで盛り上がり、締めに近づいてたところだったので、安定しかけた気持ちが一瞬にしてぐちゃぐちゃになった。 今まで閉じていた心の柔らかい部分から急に言葉がどんどん溢れ出してきた。それをそのまま、支離滅裂でもいいから凄い長文を書いて送りたい衝動に駆られたのだが、それをぐっと抑えて、 「はい」 とだけ返した。 「行きます」 彼の返事は、いつものように短いものだった。  その夜、演奏会への緊張なのか何なのか、結局一睡もできなかった。  校門には、なかなかに立派なアーチが掲げられていた。 学祭当日。 こんな田舎の高校の学祭に一般客が集まるものだろうか、と思っていたが、意外と来るものだ。 吹奏楽部が支部大会の常連校なので、そちらの評判もあって、他県からも学生達が集まるのだと、ウチの部長は言っていた。 一方私達音楽部は、それなりに実力はあると自負するのだが、残念ながら無名だ。 吹奏楽部が専用ホールで華々しく二回回しの演奏会を開いている頃、私達は小さな音楽室で、室内楽コンサートを行っていた。 でも、不満はない。私達の想いが伝われば、それでいい。 心より出でて、心に至らんことを。これはベートーヴェンの言葉。 私達は今、そのベートーヴェンの遺産を、奏でる。 使命感に燃える。 僅か三十席ばかりしか椅子は置いていないが、十分だ。 私達の奏でた音が、ひとりでも多くの人の心に伝わればいい。 私達の腕を見せびらかしたいのではない。 音楽は素晴らしい。それを味わって欲しい。 幼少の頃は、ただ綺麗な衣装を着て、大舞台の主役に酔いしれていただけだったのが、今は変わってきた。 私は、やっぱり音楽が好きだ。  「みんな一生懸命やった。今日は楽しくやろうよ!」 本番前、松本先輩がいつもは考えられないくらいの笑顔で、発破をかけてくれた。 それに鼓舞されつつも、どうしても心にかさぶたのように痛々しく離れない箇所がある。  彼は本当に来るのだろうか?  それは朝から、何度も思い出されることだ。 でも本番の邪魔なので、都度忘れるよう心がけた。 今は音楽に集中したい。 一緒に半年近く練習してきた、仲間のためにも。 松本先輩、ひぃちゃん、リナのためにも。 そして、ベートーヴェン先生のためにも。 音楽のためにも。  と、思ってはいつつも、ひぃちゃんが引っ切りなしに舞台袖となる音楽準備室のドアを少し開け、客席を見て、私を煽る。 「サッチンの彼氏、どれ?どれ?」 「彼氏じゃないって。」 「もぉ~ひぃちゃん、集中しなよ。」 「してるわよ!今日はサッチンにカッコ悪いとこ見せないためにも、頑張らないとね!」 「お、珍しく殊勝なコメント。」 「私だって悪魔じゃないわよ。サッチンのためにも、頑張る!」  ひぃちゃん、ありがとう。  でも、確かに思えば、私が音楽と向き合い直す、大きなきっかけとなったのは、彼の存在だったのかも知れない。 彼の描く絵、私の記憶と共鳴するような色使い、いや、それよりもあの時の、石橋でのヴァイオリン演奏とのコラボ。 あれは本当に気持ち良かった。自分の音が、どこまでもどこまでも、遠くに響いた。彼にも響いた、と思う。 それからバスの中で交わした会話、芸術論。美術と音楽、ジャンルは違えど、彼の熱弁は私の表現欲を揺さぶった。 私の音楽の中に、彼はいつしか溶け込んでいた。 これは色惚けなんかじゃないのかも。例えるなら、私は彼と、素敵なアンサンブルをし続けていたのだ。  なんてね。いつかいい思い出になればいいのに。  本番だ。ステージに上がった。 とは言え、雛壇もなく平場の音楽室の床だが。 それでも、緊張した。ホールと違って、客席が近く、送られてくる視線が生々しい。 礼をする前の隙を見て、客席を左から右へと見渡した。 一瞥に近いものだったが、彼の姿は意外と簡単に見つかった。 一番後ろだ。 『朧月夜』を弾いた時の、あの涼やかな風を思い出した。  演奏が始まった。始まったからには、もう後戻りできない。 ひぃちゃんは有言実行、本当に気合の乗った音色だった。気合が乗りすぎて音量が飛び出がちだったけど。 リナは至って冷静。他の音を良く聴いて合わせた。 ガリガリしがちだった松本先輩の音も、別人のようにスマート。本番で変わる人だとは聞いていたが、こんなだったとは。 そして私。私の出来は、自分では解らない。 とにかく、一生懸命やった。 やってもやってもほとんど上手くいかない難所がふたつくらいあったのだが、やっぱりミスった。それでも大きな事故にはならず、それ以外の不測の事態もなかった。走りそうになると松本先輩が目配せをくれたので、それに気づいて、我慢した。 四十分、長いようで、短かった。 一気に弾き切った。  終わって、起立して、三十人足らずの拍手を浴びた。 深く一礼した。緊張か疲れか、ちょっとよろめいた。  準備室に戻った。かなりの汗をかいていた。 「はぁ~キンチョーしたぁ。」 ひぃちゃんが情けない声を出した。 「良かった良かった。うん、良かった。」 松本先輩が別人の笑顔を見せる。 リナがチェロを置くや、いきなり抱きついてきた。 「サッチンーありがとうー。」 「私もありがとう。」 「あっずるい!私もー。」 ひぃちゃんも飛びついてきた。 ちょっと汗臭いけど、いい匂い。 青春の匂いだ。  ヴァイオリンをケースに入れ、鞄からスマホを取り出した。 その途端、スマホがビリビリ鳴った。 LINEだ。彼だ。 「お疲れ様。良かったです」 相変わらず短く、素気ない文章。続いてもう一通来た。 「手が空くなら、時間くれませんか?話したいことがあります」 心が少しもやっとなって、慌ててスマホを鞄に仕舞った。 「彼、なんて?」 ひぃちゃんがすかさず訊いてくる。 「どうせこの後会わない?とかでしょ?」 リナも本番後の変なテンションなのか、乗ってきた。 「そんなんじゃ……。」 「サッチンさぁ、ツンデレはデレの部分があるから好かれるんだよ?」 「そうそう。」 「ツンツンばかりだと釣った魚まで逃がしちゃうよ?」 「そうそう。」 やっぱりふたりとも、変なテンションだ。 「でも夜は打ち上げでカラオケだから、サッチンにもいて欲しいしなぁ。」 「しょうがないでしょ。行きなよ、サッチン。」 リナが急に、大人の笑みを作って言った。 「このままじゃ、後悔するって。」 「そうだよね、当たって砕けろ!ってことだよ。」 私と彼との関係性を良く理解していないひぃちゃんが、適当なことを言う。 「サッチン、素直になっていいと思う。」 一方でリナが、ズバズバと私の心に斬り込んでくる。 「それも優しさだよ。彼だけに決めさせちゃ駄目。」  また夕暮れ時になった。 思えば、彼と昼間に会ったことがない。 待ち合わせ場所をどこにしたらいいか、二転三転して、学校の屋上になった。 彼はいつものバス停で会おうと言ってきたのだが、それでも良かったのだが、私の大好きなあの場所が、もし、悲しい記憶で二度と来られない場所になったらどうしよう、という恐怖が湧き起こって、拒んだ。 学校の屋上に入れるのは漫画の世界だけかと思っていたら、今日は学祭なので入れるそうだ。 ひょっとすると今頃カップルでいっぱいかも……と思いきや、誰もいなかった。 もうすぐ恒例のキャンプファイヤーが校庭であるらしい。  彼はもう来ていた。 屋上の真ん中でひとりきり、これもまるで、少女漫画みたいだ。 でも、悪くない。 日没は近かった。薄暮の時。 天上には星がいくつか見えていた。 彼はすぐに私に気づき、声に出した。 「あのっ……。」 私は彼に近寄り、親しき仲とは言えない微妙な距離で止まった。 彼に何を言われるのか、そして私は何を言うべきか、正直、良く解らない。用意してない。だからこれ以上、近寄れなかった。 「……寒いですか?」 そんなところから彼は切り出してきた。 「いえ、平気。」 「そうですか。」 少しの沈黙。怖いから、今度はこちらから切り出す。 「……今日は、来てくれてありがとう。」 「いいえ、とても良かったです。」 彼は努めて笑顔を見せようとしていた。 「やっぱり、あなたのヴァイオリンの音は、素敵だ。」 「ありがとう。」 「癒されるっていうか、心に染み渡るっていうか、その……。」 彼の目がキョドっていた。 「……。」 「……。」 沈黙が怖い。日はどんどん光を失っていく。 今日ばかりは、闇が刻一刻と襲ってくるのが、堪らなく心細かった。 寒くないと言ったのは嘘。手足の末端は震えている。いや、これは緊張だ。 下の校庭で歓声が上がった。キャンプファイヤーが始まったようだ。 何か、言わなきゃ。 「あの、」 「あのっ!」 私の声を掻き消すように、彼が叫んだ。 「……この前の、初恋の人の絵、」 彼は俯いたまま、続けた。 「……確かにあれは、最近描いたものです。嘘じゃないです。」 「……。」 「同じ中学の美術部でした。仲も良かった。一緒に避難して、仮設の校舎で一緒に過ごして、ずっと一緒に絵を描いた。……でも僕は結局、彼女に告白できないまま、高校で離れ離れになりました。」 「……。」 「僕は悔やみました。どうして何も、言えなかったんだろうと。」 「……。」 「だから、あなたと出会った時、僕は変わろうと、そう思った。」 「……あの、」 「はい?」 「正直に、言ってください。」 「はい。」 「初恋の人のこと、今も好きですか?」 「……。」 彼だけに決めさせちゃ駄目。リナの言葉が耳に残っていた。 「……僕を信じてくれないかも知れない。」 「……。」 「僕はずっと怯えていた。このままではいけないと知りながら、」 「……。」 「でももう、悔やむのは嫌です。」 彼は一歩、二歩と、歩み寄った。 「バスであなたを見かけてから、そしてあの石橋で、声をかけてから、」 「……。」 「あなたのことが、ずっと好きでした。」  また下で、歓声が上がった。男子のはしゃぐ声が続く。 その声に搔き消されそうになって、彼は二の句が継げなかった。 私も言葉が出なかった。 少し喧噪が和らいで、彼は意を決して、くの字に頭を下げた。 「僕と、付き合ってください!」 彼から出たことのない、出そうにない、腹の底からの大きな叫び だった。 それにちょっと気圧されながら、彼の深々と下げたままの頭と、 背中を見ていた。 そして、空を見た。 月と、そこに寄り添うような宵の明星が見えた。 それを見て、私はうっすら笑った。  私は一歩、彼に歩み寄って、彼の下げた頭の真上に自分の頭が来 るまで接近した。 「雉子波くん。」 彼を名前で呼んだのは初めてだったんじゃないだろうか。 それに反応して、彼の下げたままの頭がピクッ、と震えたような気がした。 何を言うべきか、私のゼロに近い恋愛経験では全然言葉が浮かんでこなさそうなものだったが、今の私なら、言える。 「浮気したら、許さないから。」 「え……?」 意外な返答だったのか、彼が素っ頓狂に顔を上げた。 その表情がまた、面白くて、笑いそうになるのを堪えつつ、 「私も、あなたが好き。」 自然に、口を衝いて出た。自分でも驚く程、穏やかな気持ちだ。 「よろしくお願いします。」 今度は私が、深く頭を下げた。 彼の顔は見えないが、彼の興奮が肌から肌へ伝わってくるようだった。 そして私も、興奮している。この想いも伝わっているだろう。  そうか、これが、恋なんだ。  「ありがとう。」 彼が予想外に冷静な声色でリアクションをしたので、私は思わずその拍子に顔を上げてしまった。 その目の真ん前、全面に、彼の顔と、唇を感じた。 キスされた。 わ、これが、キスか。 体験したことのない感覚に戸惑いつつ、でもずっとこうしていたい。 ……なんて、雰囲気に飲み込まれる程安くないよ、私。 彼を突き飛ばし、唇を離した。  「バカ。」 私は怒ったフリを見せた。 「まだ早いって。」 でも、嫌な気はしなかった。 「ごめん。」 彼は即座に謝った。  校舎の下の階では、ひぃちゃん達が打ち上げのために私を待ってくれている。ていうか、今見られてなかったよね? もう戻らなきゃ。でもあと十分、いや二十分。 彼とひとつになっていたかった。                        【了】