「参加」と「ケア」。
これからはこの2つがキーワードになってくると思うのです。
「場のチカラ」を高めるために、個人が思っていることを話す。
そういう環境をつくることはとても大切です。
それは「ケア」であると同時に「参加」になっています。
実は最大のケアは「参加」なのではないか、と思います。
それは決して、「役割がある」ということではない、と思います。
「役を演じる」というか、即興演劇に近いような、そういう感じ。
生きづらさの源泉は「個人」という考え方にあるのではないかと思う今日この頃。
学校は、「集団生活」を学ぶといいながら、「個人戦」を強いる。
「他者と比べること」で、アイデンティティを確立しようとする。
結果、いじめが起こる。
アウトプットを出すのは、場のチカラであって、個人やチームの力ではない。
だから、そこにいるひとりひとりが「参加」すること。「ケア」されること。
「ひとりひとり」と「個人」っていう概念は違うのではないか。そう思っています。
場の構成員としての「ひとりひとり」であり、それは一個の「個人」ではない。決して切り離すことはできない。
それがたぶん「場」という考え方だろうと思います。
「参加」と「ケア」のある場をデザインすること。
多くの大学生がアイデンティティの不安を抱えています。
自分が何者であるか、わからない。
それはコミュニティが希薄化したことが大きな要因であるといえるでしょう。また、学校社会が「夢」や「目標」をアイデンティティの要素として聞いてくることも大きいような気がします。
「夢」がなければ人に非ず。
そんなことないんです。常に場に溶け出していけばいいと思います。
「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)を読むと、「意志」とか「未来」とか「個人」とか、幻想のような気がしてきます。
そんなあいまいな世界を生きる僕たちに、「参加」と「ケア」のある場をデザインしていきたいなあと思います。
その方法論としても、「かえるライブラリー」はあるように思います。