路上=旅
初めて路上に出たのは宮崎で、高校3年の7月のことでした。路上ライブやっている同級生がいて、部活を引退し燃え尽き症候群の僕が遊びにいくようになったのがきっかけです。自由に表現をしている彼らを羨ましく思った僕は安いアコギを買いに走り、必死に練習して4コードだけで弾ける2曲だけを抱えて2週間後、路上デビューをします。
それから文字通り毎日日がな10時間ほどを路上で過ごすようになります。ギターも歌も路上で練習しまくりました。
人もまばらな宮崎駅前の路上が表現家としての僕の原点。
なぜ、路上にハマったのか。
それは、僕が大好きな「旅」と共通するところがあったからです。(まだ高校生の僕が旅好きになった経緯は次の報告で後述します。)人それぞれ理由は違うと思いますが、僕が旅を好きな理由は、自分が動いた先々で日常ではなかなかない面白い素敵な出会いがあるからなんですね。なんと路上は、定点にいるのに、まるで旅しているみたいに面白い出会いの連続だったんです。
路上デビューの半年ほど後に東京に出て、初めて路上に出ようとした2001年春の池袋西口公園で、元々音痴でコード引きしかできない僕は、音楽での表現を勝手に諦めたわけですが。
どうしても刺激的な「路上」を忘れられずに、手段を「字」に変えて、挑戦し始めたのが17年前2002年の2月のことでした。
今、僕は路上にはほとんど出ていません。それは路上でのすれ違うような出会いではなく、飲食店など元々ある大切な場所に訪れる人々との深い交流を求めているからです。この考え方には賛否両論あるでしょうが、元々ある「出会い」への想いは変わることはありません。
僕にとって出会いとは何か、その問いに答えるとすると、
自分 ー 人との出会い =0(ゼロ)
人との出会いだけで、僕の人生の全てはできている。僕は、そう思って生きています。
これを読んでくださっている皆様との出会いにも感謝です。
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旅のきっかけ
僕の初めての旅は、小学校5年生。子供だけでの2人旅。ドキドキしたことを鮮明に覚えています。初めての一人旅(しかもママチャリ)は中学校1年生。宮崎市内から高千穂を抜けて阿蘇山まで。旅の後に疲労で膝の剥離骨折をしたのは成長期ならではの出来事でしょうw
実は、小学校4年生の時に、少しの間アフリカのジンバブエという国に住んでいた僕は、事前の英語教育を一切受けずに通った現地の小学校(全校でアジア人黄色人種が僕と姉だけという面白い状況)で激しめな人種差別とカルチャーショックを受けたんですね。
帰国した僕はひねくれたのか大人びたのか素行が悪くなってしまいまして。小学校5年で初めて両親が学校に呼び出されるという、ある事件を起こしてしまったのです。当時流行っていたカードダス(知っている人いるかなw)の売買という、小学生らしい商売を、小学生らしからぬ金額まで至った結果、バレるという…(当時の関係者、両親、本当にご迷惑をおかけしました。)
父はチャリンコで西日本を横断、母親は国交樹立間もないモンゴルへ旅したワンダーフォーゲル部ということもあり、僕の素行を見かねた両親がくれたのは「旅をしなさい」という素敵な提案でした。
自分で電車の時刻表と向き合い、ユースホステルの会員証を作り、予約をし、切符を買いに行き、僕は旅をさせてもらうようになりました。
それから、青春18切符で九州を回ったり、北海道をチャリンコで回ったりしという小中学生時代。部活と河川敷や海での焚き火に明け暮れた高校時代はお休みでしたが、バイト学部旅学科と化した大学時代を経て、今も旅をしています。
海外はまだ10カ国しか行っていない(今回の欧州で少しは増えるかな)ものの、いろんな旅をしている人たちとたくさん出会い、交流することが多く、そこで聞いてきたことをこれからの人生での旅に大いに活かしていきたいと思っています。
say(旅する字書き)の「旅する」の原点のお話でした。
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