2019/10/23 07:00

大坪です。
現在、立ち上げから居住者が2人増えて5人暮らしになりました!にぎやか!


(写真はプランク大会をしているところ)

5人は住む前から他の住人全員と知り合いだったわけではなく、ほとんどが住んでから知りあった仲です。そんな5人で住んでいることを周りの人に話すと、しばしば「信じられない!」って顔をされます。「喧嘩しないの?」「5人もいたら価値観や物の使い方の違いで不満が溢れるんじゃないの?」「私は婚約者とでも同棲を始めてから大変なのに!」と言われます。

確かに、5人分の生き方が家に出てくるので、それぞれ周りに迷惑をかけていますね。でも今のところ喧嘩はありません。

衝突がないことが一概に良いとは言えませんが、「我がや」では住民間での不満が溜まりにくい良い関係ができてる感じがします。もやもやをなるべく溜め込まない、「我がや」で心がけているコミュニケーションを何回かに分けて書いていきます。


相手の行動を不快に感じたら、「どうして嫌なのか」と「どうしたら気持ちよく過ごせるか」を落ち着いて言葉にする。(不快感の開示を攻撃にしない。不快感を溜め込まない。自分の正当性をふりかざさない。)

同居者に部屋を散らかしたり夜騒いだりといった不快なことをされると、言葉や行動で反撃したくなりますよね。でも不快にさせちゃった人は、(仲が悪くなる前であれば)きっと嫌がらせのつもりはありません。一緒に住む相手なんですから。その行動が誰かを不快にさせることを考えられてないだけです。

もしAさんが「Bさんに不快なことをされたから反撃する」って動けば、Bさんは「不快にさせたくてやったわけじゃなかったのに、Aさんは悪意を持って攻撃してくる」って感じるわけですから、BさんはAさんの主張を聞き入れたくなくなってしまします。気持ちを溜め込むのも同様に、「自分は我慢してあげているのに!」と不満が膨らんで、相手の意図しないところで溝が生まれていっちゃいますよね。私もそうしがち。

だから「我がや」では、不快を感じたら「どうして嫌なのか」と「どうしたら気持ちよく過ごせるか」を落ち着いて考え、言葉にするようにしています。例えば、「食事をしたあと、皿を下げてくれない」という場面。ついつい「どうして皿を下げてくれないの!常識でしょ!」と見せかけの正当性を武器に攻撃したり、「悪いのは向こうだけど自分は黙ってる。不満を出さない自分えらい。」ってこっそり恨みをため込んだりしちゃいますよね。それだと家に不快感が溜まっていってしまう。でもその不快を感じた時に「皿を下げてくれないの嫌だな。どうして嫌なんだろう。」と考えてみるんです。すると「ああ、料理を作っていることに感謝されていない感じがして嫌なんだ。自分がしていることに感謝がほしいんだ。」というような気付きがあるはず。

(ここではざっくりした説明ですが詳しくは「NVC」というコミュニケーション手法なんだとか。)


私はもともと嫌なことがあると、爆発させたり溜め込んだりやりがちだったのですが、今思えば「こうしてほしい」と希望を出すことに恐れを持っていました。言葉にするのを恐れていたから「攻撃する、溜め込む、正しさを盾にする」。それが今では、「我がや」で互いの「こうしてほしい」を聞き合ううちに、自分の気持ちを落ち着いて出すようになり、共同生活を居心地の良いものにできました。「我がや」の外でもこういう場を増やしていけたら良いな。