昨日に引き継ぎ大堀相馬焼の歴史について解説します。今日のポイントは大堀相馬焼が現在の形式になったポイントについて説明しつつ、明治維新と太平洋戦争という産地の危機をどのように乗り切ったかを説明します。伝統の確立 と海外輸出 1863年 青ひびが作られる。 1883年東京の問屋 宮内松五郎のすすめで、水金の駒絵はじまる。 1899年坂本熊次郎 二重焼き創案 明治期から廃藩置県により藩の援助がなくなったことに加え、交通の発達による他産地との競争激化、差別化を図ろうとした窯元は知恵を絞りました。この努力が現在の大堀相馬焼の「青ひび」「二重焼」という個性を生み出します。 1950年「ダブルカップ」の愛称でアメリカを中心に海外で親しまれる。1978年通産省(現 経産省)の伝統的工芸品の指定を受ける。戦争による大きな打撃により、太平洋戦争の終結時まで大堀相馬焼は冬の時代を迎えました。 しかし戦後、アメリカへの輸出で産地は協力に立ち上がりました。二重の湯呑み「Made in Japan」の刻印をして輸出したことで一大ブームに。アメリカでは「アイディアカップ」、「ダブルカップ」という名称で愛用されました。※写真は当時流行した淵が金の二重湯呑
歴史 の付いた活動報告
日曜日みなさんいかがお過ごしでしょうか。大堀相馬焼のことを少しでもよく知ってもらうためにお時間あるときにご覧いただけますと幸いです。大堀相馬焼の起こり1690年大堀相馬焼創業 「大堀相馬焼左馬茶碗」発売福島県双葉郡浪江町大字大堀一円で生産される焼物の総称です。 旧藩政時代には相馬焼と呼んでいましたが、国の伝統的工芸品指定以後は、産地名である「大堀」の名を入れた大堀相馬焼として広く知られています。 元禄年間に中村藩士の半谷休閑が大堀(浪江町大堀)で陶器を発見し、下男の左馬に命じて日用雑器を焼き始めたのがはじまり。 中村城下の相馬駒焼は藩主相馬氏への献上品として親しまれたのに対して、この大堀相馬焼は民窯として長く親しまれてきました。1697年相馬藩庁 「瀬戸物師、他領江不可出事」を布令相馬藩では、これを藩の特産物にしようと産地に瀬戸役所を設置して、資金の援助や原材料の確保など保護育成に努めました。これにより大堀の窯業は農家の副業として近隣八ヶ村に普及 江戸時代末期には窯元も100戸を越えました。1830年半谷滝三郎が絵付け研究をはじめ、このころから駒絵が描かれるようになる。中村藩は相馬野馬追の伝統を有するため、藩主相馬氏の家紋から繋ぎ駒や走り駒が意匠となっており、縁起物として親しまれてきました。1853年益子焼の起こりとともに、職人数名が技術指導に出かける。販路も北海道から関東一円、更には信州越後地方方面まで広がり、一大産地へと発展。それに伴い、技術も伝達してきました。結果的に益子焼・笠間焼をはじめとするの他県の産地のルーツとなりました。 つづく。。