こんにちは。
わたしたちは「加納の歴史・文化継承プロジェクト委員会」です。
岐阜市の加納地区で、「大切なまちの歴史と文化を守り継なぎたい」
という思いから、加納の総力をあげるために、以下のメンバーが集まりました。
岐阜加納ロータリークラブ
加納東・西のまちづくり協議会
中山道加納宿文化保存会
加納まちづくり会
皆何かしら、加納とつながりのある人たちで、自宅の門塀に歴史案内板をつけても気にならないくらい……このまちが大好きなメンバーばかり。加納の素敵なところを伝えたくて、加納の歴史や未来について語り合っています。
岐阜市はいま、「中山道加納宿まちづくり交流センター」を建築中です。
場所は、岐阜市加納本町1丁目16番1。「旧加納町役場跡」です。
2020年秋に完成します。
旧加納町役場跡(老朽化により取り壊されました)
「中山道加納宿まちづくり交流センター」建物外観イメージ(岐阜市提供)
建物内部のイメージ(岐阜市提供)
わたしたちは岐⾩市や市教育委員会とともに、住民の力でこの場所を新しいまちづくり活動の拠点として魅⼒的な場にしていくために、このプロジェクトを⽴ち上げました。
クラウドファンディング(支援金)のお返し(リターン)では、和傘・ハチミツ・お菓子などで、加納の企業の協賛を得ています。
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冊子「加納のまち」
加納城跡より臨むことができる加納のまち。
昭和20年7⽉の岐⾩空襲で、加納地区は多くの⼤切な⽂化的財産を失いました。
そして、まちの近代化とともに歴史を伝えるものが失われつつあります。
わたしたちは、⽂献や⽯碑を頼りに、加納の歴史と⽂化を伝えることが⾮常に⼤切だと考えています。
今回完成する「中⼭道加納まちづくり交流センター」の中を、それを伝えるきかっけとなる場所にするため、わたしたちはクラウドファンディングに挑戦します。
加納城跡より望むことができる加納のまち
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わたしたちは加納のまちの大事な一片をこのクラウドファンディングで蘇らせたいと考えています。集まった資金はプロジェクト一部に活用し、中山道加納宿まちづくり交流センターの中で
1、加納城の復元ジオラマの製作・展示
2、加納の和傘を見て触って楽しめる和傘の展示
3、加納の歴史と文化を伝える動画の製作・上映
をする計画です。詳しい内容をご説明いたします。
1、加納城と城下町を130分の1スケールで、ジオラマで復活させます!
完成イメージラフ(鶯谷高校の歴史・地理研究クラブ製作)
岐阜市歴史博物館に加納城のジオラマがありますが、他にはありません。
歴史的文献を頼りに岐阜市の協力を得ながら、加納城と城下町のジオラマを製作していきます。
加納城は天守がつくられず、そのかわりに二の丸の北東隅に御三階櫓(おさんがいやぐら)が築かれました。廃城となった岐阜城の天守や石垣を移築したといわれます。現在の岐阜地方気象台がある場所です。
まちに住む子供たちにもより深く歴史を知り、加納城に親しみをもってもらいたいという願いに、鶯谷高校の歴史・地理研究クラブなどが立ち上がり、共同で加納城と城下町のジオラマ復元に動き出しました。臨場感をもって歴史に親しんでもらえるよう、立派なものをつくります。
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2、現代に生きる和傘の展示をします
加納を語る上でもう一つ欠かすことができないのは、「和傘」です。
実は江戸時代から現代まで、日本一の「和傘」の生産地だったと知っていますか?
心を伝え、技を承ぐ 〜岐阜和傘〜
https://www.youtube.com/watch?v=aGwE54q9b6I
『井上家 正面玄関からの写真』
最盛期には年間1,400万本もの和傘がつくられていたとも言われています。
江戸時代、加納城主はその財政を維持するため、和傘作りを奨励したのが始まりで、一大産業となりました。
武士はろくろ、竹骨、柄竹づくりなどを、町民は傘張り、油仕上げ、傘干し、渋かけなどを担当し、分業で技術を磨き、次第に「美濃傘」としての名声を高めていきました。
蛇の⽬傘・番傘などは、歌舞伎や⽇本舞踊などの⽇本を代表する伝統芸能に使⽤するもの、全国各地の祭りに使⽤するものも製作されました。
⼀⽅、今⽇では⽇常使いとしての和傘は遠ざかってしまいました。
しかし、ものの⼤切さが⾒直される現代。
使い捨てではなく、⻑く⼿⼊れをしながら使うことができる和傘は、デザインを現代にあった形にすることで、⼤切な⾬具としてもう⼀度⾝近な存在となれるのではないか、と私たちは考えています。
「いや、和傘なんて扱い⾟そう……」とお思いかもしれませんが、まずは⼿にとって、和傘がどのようなものか気軽に体感してもらいたいと思っています。
そこで、交流センターの中には和傘の説明パネルと合わせて、実際に、体感してもらえる展⽰スペースをつくることにしました。
和傘の展示では、今年新しく発足した⼀般社団法⼈岐⾩和傘協会などのみなさんにご協力をいただいております。
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展示は室内展示・庭園展示・野点傘の展示と3つに分けて行います。
※屋内展示イメージ
室内展示では、天井からの空間全体を使って和傘の展示を行います。
なかなか直接目に触れる機会も少ない和傘を実際に手にとって、色々な方向からじっくりご覧いただけます。傘を形作る竹のしなやかさや、かがり糸の一本一本、洋傘では味わえない魅力を存分に楽しんでください。
※庭園展示イメージ
外の庭園展示では、傘干場の様子を再現して自然と調和した和傘を体感いただけます。
晴れの日の柔らかくにじむ和傘の美しさは勿論ですが、ぜひ雨の日こそ足を運んでいただきたいと思います!
ぱらぱらと紙に弾ける雨音に、より美しく変わっていく和紙の透け感。
その優美さは、言葉で表現し尽くせません。
ゆっくりとその音に耳を傾け楽しんでいただきたいと思っています。
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3、加納の歴史と文化を伝える動画の製作・展示をします
加納地区は、JR岐阜駅のちょうど南側に位置します。
長年「住みやすく、歴史的個性を活かしたまちづくり」を掲げてきた加納は、主要駅やスーパーへのアクセスもよく、学校・医療・公共施設も充実しており、近年では若い人も増えてきています。また1年を通して、玉性院の「つり込み祭り」や「みそぎ祭り」、「水薬師万灯流し」、「加納天神まつり」など様々な祭があり、四季の移ろいを楽しむことができます。
このような江戸時代初期から続く加納の歴史と文化を、「歴史・和傘・祭」の3本にまとめた動画製作を計画しています。
岐阜町から鮎鮨を運んだ、御鮨街道
加納城跡
和傘づくり
祭
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ご支援いただいた方へ、加納らしいリターンをご用意いたしました。
◎5,000円
加納のまち(本・DVD)・亀姫マグネット・銘盤へ氏名を記載
◎10,000円
加納のまち(本・DVD)・亀姫マグネット・ミニ和傘・銘盤へ氏名を記載
◎30,000円
【 あられコース 】
加納のまち(本・DVD)・亀姫マグネット・銘盤へ氏名を記載。その他あられ(松福さん)をお届けします。
◎50,000円
【 蜂蜜とあられコース 】
加納のまち(本・DVD)・亀姫マグネット・銘盤へ氏名を記載。その他あられ(松福さん)・蜂蜜(アピさん)をお届けします。
◎100,000円
【 蛇の目傘コース 】
加納のまち(本・DVD)・亀姫マグネット・銘盤へ氏名を記載。その他、マルト藤沢商店さんの蛇の目傘(18,000円ほどのもの)をお届けします。
【 加納のお土産コース】
加納のまち(本・DVD)・亀姫マグネット・銘盤へ氏名を記載。その他、蜂蜜(アピさん・秋田屋本店さん)・あられ(松福さん)をお届けします。
また「⽀援はするが、返礼は必要ない!」という方に「大盤振舞コース」(心を込めてお礼メールをさせていただきます)もご用意しております。
リターンのお届けは9月頃を予定しております。(大盤振舞コースを除く)
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江戸時代の加納は、「城下町」と「宿場町」を兼ねた場所として栄えたまちです。中山道のなかでは2か所だけです。そして、長良川から鮎を運ぶ「お鮨街道」とも交わり、人の行き来が盛んな活気溢れるまちでした。
ところが昭和20年7月の夏。
軒を連ねた美しいまちの風景は、戦火でそのほとんどが焼失してしまいました。
残念ながら、街中を歩いてもかつての面影はあまり残ってはいません。
しかしこのまちに、紡がれていた、ドラマは確かにあります。
風景はなくなっても、歴史は決してなくなりません。
わたしたちは、少しずつ当時の足跡を辿り、歴史をひもとき、家に伝わっている話などを集めながらその跡地に石碑や標を置いて、焼けてなくなってしまった大切な歴史と文化の記録をまち中に呼び戻していきました。
そうして出来上がったのが、「加納のマップ」です。
今では、このマップを頼りにまちを散策する人が増えてきています。
道案内パンフレットもございますので、興味をもたれた方はぜひダウンロードしてご活用ください。
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このクラウドファンディングをきっかけに、加納をこのまちをより多くの人が知り、興味をもっていただくことを願っています。さらに、加納の歴史と文化を伝える活動に加わっていただけたらこれ以上の幸せはありません。
今回のプロジェクトは、ただ昔を偲ぶだけではありません。
加納がこの先も永く良いまちであってほしいと願い、今を生きる人、これからを生きる人たちが愛せるまちにしていきたいのです。
加納の歴史と文化を、新しい形につないでいく。
中山道加納宿まちづくり交流センターをそんな場所にしていけたらと思います。
どうかお力添えをよろしくお願いいたします。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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5月1日 クラウドファンディングスタート!
〜ジオラマ・動画・和傘の展示など力をいれて進めていきます〜
7月31日 クラウドファンディング終了!
9月 返礼品の発送
10月 中山道加納宿まちづくり交流センター完成!お披露目!
<All-in方式>
本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。
最新の活動報告
もっと見る加納の和傘
2020/05/17 12:33清水川沿い水薬師寺前の薬師橋で和傘の写真を撮りました。(岐阜マルト藤沢商店提供) もっと見る
加納城復元図
2020/05/15 21:40加納天満宮に保管されている加納城の復元図(小島紫光画伯) もっと見る
加納の歴史
2020/05/08 16:39【室町時代】中世、川⼿には美濃守護の⼟岐頼康が根拠とした⾰⼿城があり、⾰⼿城の北 には広⼤な⼟岐⽒の⽒寺、 正法寺がありました。また荒⽥川の北には守護代 斎藤⽒の加納城があり、荒⽥川の南側に当初は⼟岐⽒の12 別邸といわれる⾈ ⽥城もありました。 正法寺は現在の済美⾼校あたり⼀帯、⾰⼿城はその南あたり、加納城は現 在 の加納本丸跡あた、⾈⽥城は 加納中通りと荒⽥川の橋の南⻄あたりにあった といいます。美濃守護⼟岐⽒は、⼀時、美濃をはじめ尾張、伊勢三国の守護を兼ねてお り、⾰⼿は、都より貴族や ⽂ 化 ⼈も 度々 訪れており⽂化の薫りも⾼く、京 都についで鎌倉、周防⼭⼝と並ぶような賑わいを⾒せていたといいます。つ まり⽇本三⼤都市といった感じかもしれません 。【戦国時代】しかし、⾈⽥合戦とよばれる⼟岐⽒の同族争いによって⼟岐⽒の勢⼒も減退していきました。 この時、⾰ ⼿城、加納城、⾈⽥城が焼失しています。⼟岐⽒はその後、⻑良川扇状地の北の旧河道の⼀つの古々川に そった鷺⼭、 さらに上流側の⻑良、そこでも洪⽔に遭って、 ⼤桑 (⾼富 、現在は⼭県 市)に居 館を移しました 。そして最後の美濃守護⼟岐頼芸が 斎藤道三によ って 美 濃から追放され、⼟岐⽒の時代が終焉したのです。その後、斎藤道三の時代に⾦華⼭麓の井ノ⼝に移し、さらに道三の娘の濃姫を受けた織⽥信⻑が、斎藤⿓興を破って⼊り、岐⾩と名前を改めます。そして加納や川⼿は、⼩さな集落となっていったのです。【江⼾時代】関ヶ原合戦の結果、天下⼈となった徳川家康は、それまで岐⾩城を本拠地に していた織⽥秀信(信⻑の孫息⼦)を追放し、慶⻑6年(1601年)に岐⾩城 は破却されました。その岐⾩城の代わりとして翌1602年7⽉1⽇から加納城が 築城され、徳川家康の⻑⼥である⻲姫の婿義理の息⼦である奥平⽒が⼊城しました。縄張は徳川家康⾃⾝が⾏ったとされ、普請奉⾏は本多忠勝とし近隣の⼤名を動員した築城されました。建材は主に岐⾩城のものが⽤いられ、解体した岐⾩城天守の部材を⼆ノ丸御三階櫓に転⽤したと伝えられています。加納城は加納藩の藩主の居城とな り、慶⻑7年(1603年)に奥平信昌が⼊った後、奥平⽒の居城となりまし た。寛永9年(1632年)に奥平忠隆が死去、嫡⼦がいないために改易されると従 兄弟の⼤久保忠職が⼊城、⼀時的に城主となりましたが、寛永16年(1639 年)に⼾⽥光重が⼊城、3代にわたり城主を務めました。特に、⼾⽥光重は、明⽯藩から移封されて加納城主になったわけですが、明⽯から傘職⼈を連れてきたのが加納で和傘作りが始まったといわれています。材料となる良質な⽵が⽊曽三川流域に豊富にあり、美濃和紙、柿渋、えごま油が⾝近にあり⼊⼿しやすかったことが、地場産業までに成⻑した要因だったようです。その後、⼾⽥家は移封され、宝永8年(1711年)に安藤信友の居城となりま した。 さらに時代が下って宝暦5年(1755年)に永井直陳が加納藩主となり、明治 維新に⾄るまで永井⽒の居城となりました。 【明治時代】明治4年(1871年)、廃藩置県によって加納県の県庁が置かれましたが、同 年11⽉に岐⾩県へ合併されました。翌、明治5年(1872年)、廃城令により 城は廃城処分となり建物は破却。城⾨などは売却されました。明治33年 (1900年)、岐⾩県師範学校が跡地に置かれ、本丸跡を運動場としました。 明治39年(1906年)三の丸跡に加納尋常⼩学校(現在の岐⾩市⽴加納⼩学 校)が移転されました。【昭和時代】昭和14年(1939年)、本丸跡が陸軍第51航空師団司令部となり、戦後は昭 和29年(1954年)から昭和50年(1975年)まで⾃衛隊の駐屯地が置かれる などした。後の昭和58年(1983年)10⽉28⽇に加納城跡として国の史跡に 指定されました。【岐⾩空襲】昭和20年7⽉9⽇の岐⾩空襲で岐⾩市は壊滅的打撃を受けました。加納の歴史的建築物も壊滅的打撃を受けました。【近年】近年の発掘調査で枡形や前期加納城の⼟塁・礎⽯の跡、埋没した⽯垣や井⼾跡、多くの⼟器などが出⼟しました。遺構は調査後に埋め戻され、現在では加納公園(本丸跡)と周辺に⽯垣、堀跡などがわずかに⾒られるのみとなっています。 もっと見る
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