2020/05/01 19:41

高校サッカーとは、

全国高校サッカー選手権大会だと思っていた中学3年。


当時中学生3年の時の自分にはあの国立で輝きを放つ柴崎岳選手に憧れて都内の私立高校へスポーツ推薦で進学を決めます。


そして、入学と時を同じく両親が離婚します。私立に行った自分を育てる為母親は朝から晩までカンナみたいに命を削って家に灯りを灯してくれてました。


入学して間もなく、なんとAチームとの紅白戦。

1年からスタメンを取る気でいた自分には、最高なシュツエーションでした。


結果は0-0でした。

ですが、自分の良さをボランチとして発揮でき、このレベルならやっていけると思っていました。


紅白戦後の練習中、横でやっていたAチームの方に呼ばれます。いきなりチャンスです。


「アピールできる」そんな気持ちでした。


監督からAチームの前で2対1のゴール前の攻略のお手本をやれと言われ、相手の逆を取ったりするのが好きな自分にはもってこいの練習。

いつも通り守備の守り方を見て、

自分で行くのかもう一枚を使うのか決め、いつも通りこなしました。

その日は、そこだけの参加で練習が終わりました。

翌日

グラウンドへの

足取りは軽かったです。



でしたが、

この日から陽の当たらない生活の始まりでした。



「思い返すだけで地獄です」



Aチームの選手からのイジメ。

挨拶の様に殴られ、蹴られの毎日。

思春期の彼らはよっぽど自分の前で新一年がお手本をやるのが気に食わなかったのでしょう。

流石に1週間も続けば、

学校に行くのさえ嫌になります。

毎朝母親に嫌々起こされ家を出されます。

部活に行きたくない。

そこで、怪我をした振りをして毎日病院に行くと監督に言い部活には出ず帰っていました。


イジメられてる。

なんて親には言えません。

ただただ辞めたいの一点張り。


相談に乗ってくれる同級生もいました。

夏まで我慢しよう。

夏の選手権予選が終われば

3年生はいなくなる。

確かにそうだ。

そうこう我慢してると、

早々に負けてくれました。

15歳の僕は本当に救われた。

明日から3年生が来なくなる日を待っていた。


ですが、まだ陽は当たりません。


まだ敵はいました。

Aチームにいた2年生です。

ここから後半戦です。

3年生が僕にやるのをみていた2年生はそれを引き継いでいました。

そしてまた、怪我をした振りをして部活に出ず帰宅していました。


年末、合宿がありました。

その前日、ある2人の生徒が顧問の先生に呼び出されます。

彼らはある問題を起こしました。


そして、下された一年全員坊主命令。


自分は、絶対しない。

なにも悪いことをして無いのに

自分が罰せられる意味が納得いかず30人ほどいた同級生は皆坊主にしているなか僕は絶対にしませんでした。

また、これが気に食わない先輩と

毎朝喧嘩をします。

練習が終わる度に、自分の所に来ておまえもやれと殴られ、蹴られ。

もう耐えきれませんでした。

朝学校に行く振りをして、

最寄りのマックで時間を潰し。

親が仕事に行ったのを見計らい帰宅しそんな繰り返しです。


最後は、

従姉妹のお父さんお母さんと4人で話し合い泣きながらもう耐えられない辞めたいと伝えました。

この時泣いていた母を今でも覚えています。



そして、3月転校します。

親にはもうバイトして学費を稼げると言われて大好きだったサッカーからも遠ざかります。




高校2年の年は、

転向した高校にサッカーもなく、バイトと学校の繰り返しです。セブンイレブンで週6回程勤務していました。

でもやっぱサッカーは好きなんですよ。

中学時代お世話になっていたチームで練習だけやらせてもらいます。

中学生の中に高校2年の自分が混ざってやります。

ガキだった自分には

高1出会った出来事などを気づかず引きずっていたのかもしれません。

そんなある日の練習中、

守備をしていた自分の足が引っかかり選手が怪我をしてしまいます。

その時も、言えませんでしたが、決してわざとではありません。自分の過去などがありそう判断される、それはもう僕にはどうにもできなかった。わざとじゃ無いというのも伝えられませんでした。

その出来事を母は怪我をした子の親から電話で知らされます。

夏のあの日、ベランダで泣きながら電話をする母。

また、泣かせてしまった。

けど、16歳の僕にはどうにもできません。

でも、この時の事を、一度も忘れてはいません。練習、試合、私生活でも忘れてません。

いまもあの時のいろいろなシーンを思い出します。





高3になり、

母、そしてチームの監督がとある

ユースの街クラブを紹介してくれます。


FCトリプレッタです。


そのクラブは、

当時僕が高1の頃いた高校にリーグ戦で快勝したクラブでした。


めちゃくちゃ上手い、

ただただ上手いそんな印象でした。


ここで試合に出れるわけが無いと

思いながらも入団をします。


このチームは、一言で言うとfamilyです。


選手の私生活での出来事までを

気にかけてくれるお父さんの様な監督。

その監督の作った屋根の下で

笑いの絶えずサッカーを楽しむ選手達。


本当に僕は

彼らには僕は救われました。


ここでの時間が

自分には、とても色鮮やかで

深く心に残る思い出となりました。



学校では、

新しいクラス編成で春を迎えました。


担任はなんと2年の時、

めっちゃ嫌いだった女の先生でした。


その先生はなんせ、厳しいのです。


とにかく、厳しい。


2年の時は、

英語の授業でしか会わなかったけど、

これからほぼ毎日顔を合わせるのは

ちょっと、嫌だなと思っていました。

放課後、先生に呼び出されて

お説教もさせられたことも多々ありました。


クラスメイトは、

みんな凄く大人しくて真面目で優しい人達ばかりです。


そんな、みんなと迎えた受験期は

自分の心に今も深く描かれたままです。


誰かの進む道を応援したり

誰かの進む道が決まり

自分の事の様に喜んだりと、

今までにない経験をさせてもらいました。



自分にとって天敵であった

担任の先生も、

自分が受験の時小論文や面接練習をひたすらやってもらえて、そのお陰で志望校に推薦で入学する事もできました。


凄く感謝しています。


転校生で3年の時、

担任になっただけなのに

あんなにも自分に向き合って貰えたのは凄く嬉しかったです。


卒業してからも、

この時のクラスメイトと先生とでは、

ディズニーランドに卒業遠足に行ったり

みんなで会う予定を立てたりと、

今でも繋がっていられる事が

凄く嬉しいです。


担任の先生は、

今でも自分の現在(イマ)を気にして

時々、LINEをくれます。


最近も、

自分の背中を押してくれたりと

高校の時にあんなに見捨てないで

導いてくれた話をきいて

本当に恵まれてたと思いました。

そして、

凄く優しくて情に

熱い人だったんだと改めて実感しました。


サッカーを辞め

荒れていた思春期に

「ずっと手を差し伸ばし続けてくれた担任の先生には感謝しきれません」


「何も言わず、

その優しさで受け入れてくれたクラスメイトにも感謝しきれません」



白黒だった高校生活にが

いつのまにか、「きれいな彩り」で

最高の高校生活でした!!


荒井 友斗

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