「〜サッカーとの出会い〜」
3歳になり家の前にある幼稚園へ通い始めました。1年が経ち年中になると、自分のクラスには、
当時では珍しい男性の先生がいました。
その先生のは先生と言うよりは、園内のものでアートを作り出す職人先生。
"泥団子職人"
その先生の下駄箱、そこはまるで染地美術館。
中には色とりどりの団子達が扉が開くのを待っていたかの様に輝いていました。
鮮明に覚えています。そんな職人がある日、僕をサッカーに誘います。
これが僕の人生のスタートです。
どうやら、その先生いわく、自分は過去最悪の選手だったみたいでお前がボールを持つと、
いつも遊具の裏へ逃げて出て来なかった、みたいです!!
そんな僕は、街の小さなクラブ「スクデット」に住み始めます。
そのクラブには、誰よりもサッカーに熱く真面目な監督と、中田英寿似の団子職人の先生、
そして10数名の子供達と住んでいました。
そんな家に自分の同じ幼稚園にいたりょーたも住み始めました。
「りょーたは、いつも自分の先を歩いていました」
「年上の練習、試合に参加するのもりょーた」
「誰にでも優しく"愛"のあるりょーた」
「みんながその後ろを歩いていました」
そんな事もあり小学生の頃の自分はサッカーが全然楽しかった覚えはありません。
高学年になり、選考会に何回も一緒に行きました。
選ばれるのはもちろんりょーたです。
今となっては、そんなりょーたは自分の全てを知っています。
とある日、ある人がサッカーうまいよなという話をしているなか、
皆は確かにあいつはうまい。
最後に僕が、「いやーそおかな?」と答えると
りょーたは言いました。
「ゆーとって人のこと上手いって言わないよね」と。笑
鳥肌が立ちました。
自分は自分より誰かを上手いと言うのは悔しさから口にできませんでした。そんな自分の癖を彼は見抜いていました。笑
「サッカーって、つまらない」
ですが、いつからかそこにとてつもない悔しい気持ちが生まれてました。
彼に出会っていなかったら今の自分のこの誰にでも負けない負けず嫌いの精神はないでしょう。
練習では、スタッフも混ざりボール回しが始まると中心にいるのはいつも自分です。
ボールが取れず良く泣いていました。こんな事ばっか覚えています、(笑)
試合では、相手は皆自分より大きい選手でコンタクトが非常に怖かったです。
ドリブル?した記憶ありません。常にワンタッチ。
6年生になるとやっと一つ上の中学生の練習に参加させてもらいました。
そして、中学生の試合にも出させてもらう様になりました。
ワンタッチのプレーしかできない自分を真面目で熱い早田コーチ(監督)は使い続けてくれました。
この辺りからチームで勝つ喜び知り、特になにもしていないのに、
チームの結果はボチボチでて小学生の僕には勝つ喜びを知りました。
ですが、心にいる魔物は、そうは出て行って来れません。勝つ喜びは一瞬でいつも恐怖と悔しさに挟まれていました。
「恐い」
「つまらない」
「悔しい」
僕にとってサッカーはそんな印象でした。
そんな自分達の家族に新しいお兄ちゃんが。
当時大学の合間で来ていた、シミコーです。
詰まらなそうにしている僕を見るといつも、「ゆーと、ボール蹴ろうぜ」と。
今思うとこのお兄ちゃんがいなきゃ、どっかで辞めていたかもしれません。
そんなお兄ちゃんはボールを蹴るだけでなく、小学生の僕を遊びにも連れて行ってくれました。
映画を見たり、アウトレットに行ったり家でゲームをしたり、漫画を読んだり、プリクラを撮ったりと。
中学生になり、練習にいく楽しみはシミコーがいるかどうかでした。
練習より始まる前の30分、2人で一つのボールを追いかけた、
「この時が1番サッカーか楽しかったです!!」
6年生のとき同い年が、
4人しかいない僕らはそのままスクデットの中学生の部へ皆であがります。
自分はジュニアから同じチームのジュニアユースにあがったのに、
そこはまるで他の家族の様でした。
4人以外は他クラブから来た選手でみなとても個性的でした。
場を盛り上げるやつ、ド天然で面白いやつ、常に真面目で自分と同じように負けず嫌いなやつ、そして、そこでもみんなの前を歩くりょーた。
そんな、新しい兄弟達と3年間、時にクラブを辞めさせられそうになったりと、
だらしなく僕らを正しい道へと歩ませてもらったりと早田コーチ(監督)には過去1手を焼かせてしまった世代だと思います。
ですが、見捨てず10年間育ててもらいました。
この家族は、僕にサッカーをする人間としての支柱となる
「悔しさ」の種を巻いてもらいました。
そして、負けないように枯れない様に笑って咲く花、となって行けるように。
荒井 友斗
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