はじめまして!こんにちは!先月からASEAN HOUSEにの住人の仲間入りをさせてもらったBBT大学3年 高橋明日香です。ちゃくちゃく とドキドキ としながら、クラファンの準備をしてきた我々メンバーにとって開始直後からの、たくさんの応援は金額以上に、我々の心を温たたかく、そして力強く背中を押してくださっています!本当にありがとうございます。今回は、住人の私が日本で働く外国人の方々と日本人を繋ぐASEAN HOUSEに「めっちゃ住みたい!」と思った背景、「住んでて最高!」となっている秘密について私のたった21年の人生と絡めてシェアさせていただこうかなと思っております...!【THE・一人っ子の自己中ちゃんに育った小中学生】週5でスーパー銭湯行ってた気がする幼少期私はひとりっ子で、祖父母に愛され、甘やかされて育ったためまぁ、自己中なわがまま娘に育ちました。そのおかげで小学生でいじめられた経験もありました。その経験から「独りになるのが怖い。」という感情が根強いのか、中学では、同じ部活の子の悪口言いまくってたこともありました(今では大反省しております...。)【私の視野をを大きく大きくしてくれたオーストラリア留学】ドイツ人のシェアメイトとこの大人っぽさで12歳のホストシスター海外旅行好きの祖父母の影響で、私は担任や家族の進学校へ提案を跳ね除け、1年海外留学ができる高校に進学しました。高校2年生、オーストラリア・アデレードで約1年間生活をしました。その現地の学校で目に入ってくるのは..._____・髪の毛がピンク、グリーン、ブルーの女子高生3人組・学校の至るところで堂々とキスしているカップルたち (男女でもレズビアンでもゲイでも)・頭にターバン巻いてカレーの匂いを周囲に放つバスの運転手_____友達と参加したカラーランもう、私の五感に触れてくる全ての出来事が、自分の価値観の範囲を超えてすぎて、もうワニワニパニックですね。うん、ワニワニ。そんな、日々の新しい発見や体験もありつつ、辛かったことや悔しかったこともたくさんあります。ESL(English Second language)という授業の最終課題で周りの友達はみんなAとかBをとる中、私は何をとったか忘れましたが、ダントツで成績が悪かった。きちんとやったつもりだったのに何がそんなに悪かったのか、ESLの次の授業が家庭科だったのですが、家庭科室で大泣きしはじめた私。そこでずっと慰めてくれたのは、韓国や中国、現地の友達。全く授業とは関係ないことなのに時間を割いてくれた、ステラおばさんみたいな家庭科の先生。(ネタではなく、本当にそっくりなんです笑)さらに、授業で唐辛子を使った手で涙を拭いた私は、目が痛くなりさらに大号泣。そんなバカな私と、彼女らは「泣き笑い」してくれました。【ぜんぜん帰りたいと思わなかったミャンマーで過ごした10ヶ月】この子達可愛すぎる大学2年になった私は、今のうちに海外に長期で行かないと、3、4年になったら就活でいけなくなっちゃう!と思い、準備期間1ヶ月で急に渡ったミャンマー。こんなに最高な期間になるとは思ってもいなかったです。ミャンマー語が話せもしない、読めもしないようなハタチの小娘がこんなに楽しく異国の地で生活をできたのはたっくさんの日本人(上司、シェアハウスメイト、大学生、関係者各位)はもちろん、たくさんのミャンマー人のおかげでした。(日本人の関わってくださった方々にも心から大大大感謝しておりますが、次の機会に発信させていただきます...。今回はミャンマー人!)躍動感満載のブランコ_____・ミャンマー数字が読めないため、どのバスに乗ればいいかわからないと 一緒にバス停まで来て乗せてくれるし、乗り継ぎは全力で友達に聞きまくってくれる。・タクシーの兄ちゃんが何言ってるか分からなくて、 近くにいる知らない人に急に電話渡しても対応してくれる。(無茶ぶりがすぎますね笑)・インフルエンザかかってもどの薬飲めばいいか分からなくて聞くと ちゃんと薬の種類と売ってる私の近所のお店まで教えてくれる。・近所のレストランで財布忘れてきも「次来た時でいいよ!」って!(なんの保証もないのに。)・重い荷物運んでると助けてくれる率200%!!!_____あげ出したらキリがないからここら辺で終わりにしますが、めっちゃ毎日渋滞するし、渡緬して3ヶ月は毎日お腹壊してたし、大丈夫じゃなくても「ヤバデー(ミャンマー語で大丈夫。)」っていつも言うけど、そんなミャンマーが大好きでした。【結局なんで私は、こんなに異国の地が好きなんだ?】ウガンダのかわいい女子たち私が旅行で訪れた他の国々、オーストラリア・ミャンマーでこんなに幸せに充実して、好きになれた理由はそこにとっても頼れて心から安心できる「人」と「場所」があったからです。ASEAN HOUSEは日本という異国の地で働いたり生活している外国人(特に東南アジア人)にそんな心の拠り所になりたいと思い昨年の2019年12月に動き出しました。想像以上に、異国の地での生活って難題ばかり。そんでもって異国の地での仕事とか勉強がうまくいかなったら、早く母国に帰りたくなっちゃいますよね...。日本嫌になっちゃいますよね...。そんな孤独はコロナより世界中の病気や事象より1番怖いものかも知れません。ですが、その1番怖いものはASEAN HOUSEが解決できるんです!ASEAN HOUSEメンバーの最高の一枚この孤独に立ち向かう私たちの背中をそっと押してくださる方は、支援ボタンをそっと押してくだされば幸いです。孤独という魔王に立ち向かうまだまだ小さな勇者のASEAN HOUSEは、これからレベルアップしていきます!何卒、よろしくお願いいたします!
こんにちは!今年の4月からインターンとしてASEAN HOUSEに住んでいる早稲田大学5年生の堀田さくらといいます。6月1日からこのクラウドファンディングが始まってから、すでにたくさんの方から多くのご支援を頂いており、皆様の温かいお気持ちがとても嬉しく感激しております。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。今回は、住人の私が日本で働く外国人の方々と日本人を繋ぐASEAN HOUSE をインターンとして支えたいと思ったわけをお話しさせてください。好奇心のままに育った幼少期まず、自分の生まれた環境から話させていただきます。赤ちゃんの時も歩くことよりも喋り始めるのが早かったくらいにおしゃべりな子だったようです。溢れ出る調子乗り感一方で、よく「落ち着きがない」と言われることも多く習っていたダンス先生からは「さくらちゃんはすぐに周りの友達に話しかけてレッスンの邪魔をする」と怒られ、ダンスの発表会に出させてもらえなかったこともありました。自分の知らないことを知ったり、人と話すことが楽しくなってしまって、すぐにいろんなことをやりたくなる質なのでした。でも、そんな私に対して両親は「本当に好きな事をできるように」と様々な挑戦をさせてくれました。忍者になりたいと夢みていた時期は奈良県にある忍者村で修業させてもらったし、習いたいと思ったエレクトーンは12年間習わせてもらえた。中学も高校も大学も自分の志望する進路を選ぶことを応援してくれました。私は「本気でやりたい」と思ったことをやらせてもらえる環境にいて、いつも挑戦する機会を与えてもらいながら育ったのでした。バングラデシュで感じた「好奇心」と「無力感」私の過去を振り返ったときに、私の今の価値観形成の中でこれ抜きでは語れないのがバングラデシュでの10日間です。知らないことへの好奇心が強いということもあって、中学の頃からぼんやりと海外に興味がありました。社会の授業で先生が他の国について話したり、テレビの画面に映る海外の様子になんだか胸が躍る自分がいたのでした。そんな憧れや好奇心に近い興味から、高校のプログラムを通して世界最貧国の1つともいわれるバングラデシュに高校2年生の時に初めて足を踏み入れました。その時の私にとってバングラデシュで見た光景は奇妙で、非日常なものでした。30分おきに列車が通る線路の両端に並ぶ掘っ立て小屋で暮らす家族。人でごった返した青空マーケットで飛び交う自分が知らない言語。道に生活ゴミが捨てられ、鼻をつんざくような凄まじい匂いがする場所で遊ぶ子どもたち。1日に5回のお祈りの時間にモスクの方から流れるアザーンの音。世界には自分の当たり前と違う価値観で生活をしている人がいる。自分の非日常は、その国の人々の日常だったのでした。その感覚が私の好奇心を掴んで離さず、もっとこの広い世界を知りたいと思ったきっかけになりました。ただ、同時に何よりもその時に感じたことは「無力感」でもありました。物乞いをする6歳くらいの男の子を目の前にしたときに覚えたあの感情は忘れることが出来ません。「なぜこんなことが起きているのか」「なぜ世界はこんなに理不尽なのか」「なぜ自分は何もできないのか」いろんな感情が渦巻いて怒りの涙が出てきて、でもその涙の正体が偽善のような気もして、自分の説得力のなさが悔しくて。でも、やりたいことをやらせてもらって、何不自由なく育ってきた私はその時に初めて、自分がどれだけ「機会」に恵まれていたのかを知り、それを当たり前のように享受していた自分が恥ずかしくなりました。「自分は何でもできる」そう勝手に信じ込んでいたことは、たまたま「機会」に恵まれた環境にいたからだったと感じた瞬間でした。その時、湧いてきたのが世界に存在するこの不平等な「機会」バランスをどうにかして変えたいという想いでした。このたった10日間の経験が、エンジンのように私の心に炎を燃やし続けることになります。フィリピンで挑戦したいという想い京都の高校を卒業してからは早稲田大学、国際教養学部に進学。1年間の交換留学制度を利用して、デンマークのコペンハーゲン大学に留学しました。日本とデンマークの大学では、自由に授業を選べたため地域研究や国際協力についての授業を取っていました。そうやって授業を取ったり、高校、大学と日本の学生団体として国際支援の活動をしながらも、なにか物足りなさを感じている自分がいました。「現場にどっぷり浸かって、国際協力に携わりたい」そう考えた私はデンマーク留学中に教育系NPO e-Educationの海外インターンの選考を受け、1年間フィリピンに行くことを決意しました。フィリピンと言っても、皆さんがご存知のマニラやセブではなく、私が1年間滞在したのはカミギン島という北ミンダナオに浮かぶ人口8万人の小さな島。人の手が入っておらず、本当に自然が美しい。大切な人を連れていきたい。島周は64kmでバイクで2時間もあれば一周できてしまう場所。信号も電車もありません。現地でNPOインターンとして働く中で、私はカミギン島で唯一の日本人でした。現地語もほとんど話せない、いきなり島に入ってきた日本人。「1人で現地のために何かできるのだろうか?」意気揚々と日本の友達に見送られ、普段はポジティブが売りな私もこの時は不安でしかなかった。そんな心理状況で現地での教育支援のプロジェクトを前に進めなきゃと焦りを感じていました。フィリピンを好きにさせてくれたのは、フィリピンの人々だった。 そうやって焦る私を、温かく本物の家族のように受け入れてくれたのは島の人々でした。フィリピンのお祭りであるFIESTAで家に招待してくれたり、一緒にご飯を食べたり、ゲームをしたり、ヤシの実からココナッツを取ってきてくれてココナッツジュースを飲んだり、滝に飛び込んだり、飲み会をしたり。巨大なウニを取ってきてそのまま海辺で割って食べたそうやって一緒に時間を過ごしていくうちに、フィリピンと自分の距離が近くなっていくことを感じました。いつの間にか「自分が1人でやらないと」という変に肩の力が入った感覚はなくなっていきました。そんな中で、教育支援のプロジェクトも現地の人々と一緒に立ち上げることに成功し、より現地の人と一緒になって、本気で解決したいと思っている課題に対してアプローチすることが出来たのでした。学校に行くことが出来ない地域の人々向けに立ち上げた無料英語塾現地の看護師さんとともに立ち上げた早期妊娠抑止の性教育プロジェクトカミギン島の人たちが主体という形で、現地の機会の不平等をなくすための一歩踏み出すことが出来た経験は自分の中でも大きな自信となりました。そうやってカミギン島で出会った仲間たちは、フィリピンの全人口で言えばほんの一部であることは間違いありません。でも、ほんの一部のフィリピンの人たちとの出会いと一緒に過ごした時間が、フィリピンという国全体に対してポジティブなイメージを与えてくれたのです。異国であるはずのフィリピンでホっとする自分の居場所を作ってくれたのは、そこに住んでいる人々の包まれるような温かさでした。今度は、私が居場所を作りたい。私はフィリピンでこのような経験をした後、今年の3月に日本に帰ってきました。すぐに人が集まるASEAN HOUSE日本に目を向けたときに感じたことは「日本に働きに来ている外国人の方々が感じる不安と孤独も自分が感じていたものと似ているのかもしれない。」ということでした。その頃、同じ NPO e-Educationで過去にインターンをしていて、ASEAN HOUSEを運営していた佐々くんから話を聞いて、彼が実現したいビジョンに深く共感をし、Joinする事を決めました。日本に働きに来ている東南アジアの方々は、慣れない異国で言葉もあまりわからない中、祖国の家族のために必死に努力をして夢を持って日本にきているのです。一回きりの人生の一部を過ごす国として日本を選んで来てくれた人たちに、日本という国を、日本人を好きになってかえっていってほしい。異国でホっとできる居場所が、彼らが掴んだ機会が実を結ぶための背中を押すことができると信じ、ASEAN HOUSEを広げていきたい。皆さんと一緒にそんな日本を作ることができたらと思っています。残りのクラウドファンディングの期間、最後まで私たちの想いをより多くの人々に届け、一緒に温かい居場所を作っていけるよう全力で頑張ります。どうか応援の程、よろしくお願い致します。
クラウドファンディング開始から10日間で47万円、27%を達成させて頂いております。心温まるご支援、本当にありがとうございます。本日はASEAN HOUSE代表の私佐々より、設立にかけた思いから今後のビジョンまでASEAN HOUSEに関わる全てを動画にてお伝えさせて頂きたいと思います。「大好きな東南アジア人と日本人が仲良くなるチャンスを多く創り出し、失踪とか自殺とかが横行してる東南アジアから来てくれた労働者に日本をもっと好きになってもらいたい。日本人にはもっと東南アジア人のことを知って欲しい!そうすればもっと外国人労働者が働きやすい日本社会になるはずだ!」是非ご覧いただければと思います!どうせなら『我々の母国、日本』を世界中の人に好きになってもらえる、きっかけ創りがしたい。国籍に囚われず誰もが共生できる社会を創っていきたい。コロナ禍で世界が分断されたかのように感じるこの頃ですが、いつかまた世界が繋がる日が必ず来ると信じて、全力で頑張らさせて頂きます!もし共感頂けたら、どうかご支援のほどよろしくお願いいたします。▼▼▼応援はこちらから▼▼▼https://camp-fire.jp/projects/view/254719--お願い-------------------------------------★ご支援頂いた際には一言頂けたらと思います!★拡散頂ける際にはコメントを添えてシェア頂けると嬉しいです。★入居者も大絶賛募集中です!日本人でも東南アジア人でも周りに興味がありそうな方がいらしたらシェアのご協力もよろしくお願い致します!----------------------------------------------
こんにちは。ASEAN HOUSE共同創業者の利部真太朗です。まず初めに、これほど短期間で多大なご支援をいただいていること、感謝しております。皆様、本当に、本当にありがとうございます。今日はASEAN HOUSEの経営に携わることになった経緯について話したいと思います。「やりたい!」と思えたことを心から応援してくれ、自分が自信を持つきっかけをくれた両親の存在背景は高校生の自分に遡ります。父親が海外経験をしていたことに影響され、なんとなく暖かそうだったからと言う理由で「高校を卒業したらオーストラリアに行きたい!」と申し出たら、笑顔で送り出してくれた両親。今思えば本当に感謝がつきません。旅立ちの日に母親とオーストラリアに行ってからはビジネスに興味を持ち、シェアハウスの経営を始めました。その後3店舗まで増やし、事業売却。小さな成功体験になりました。高校を卒業して海外に飛び出し、オーストラリアでの挑戦で自信を持つことができた自分に自信を持つことができ、海外でもっとビジネスをしてみたいと考えるようになりました。オーストラリアの後は世界一周に行ったり、東南アジアに惚れ込んだ末ミャンマーで起業して会社を作ったりと色々なチャレンジをする事ができました。これまで色々な挑戦をしてきた中で、気付いた事があります。それは、今までの自分の環境がどれだけ恵まれていたのかということです。色々な人に出会い、生まれた時点でスタートラインは平等ではない事を肌で感じたミャンマー生活ミャンマーに住んでいた時に毎日見た物乞い。今日生きることだけを考えて、貧困に苦しんでいました。従業員を雇ってみて腹を割って話してみると、「日本人は金持ちだからいいよね。俺も日本に生まれていれば幸せだった。」と悲しそうな顔をして未来を諦めているのです。他にも、何人もの優秀な青年に出会いました。英語も堪能で僕よりも圧倒的にポテンシャルが高いのに、お金や家庭環境が理由でそれを生かし切れず、可能性が狭まっていたのです。生まれた地点でスタートラインは平等では無く、優秀な才能があってもほとんどがその可能性を生かし切れない。実際にミャンマーに住んでみて、思い知らされました。もし両親が自分の「やりたい!」と思えた事を金銭的な理由で応援してくれていなかったら、今頃の自分は自信も持てない、挑戦する気すら起きない不貞腐れた人間になっていたかもしれません。しかしミャンマーで出会った優秀な青年たちは、両親にどんなにお願いをしてもオーストラリアに行くことはできない。と言うのです。誰もが生まれた場所に関係なく、好きなことができる社会の創出ではどうすればいいのでしょうか?解決策としては、彼らにもっと選択肢があったら世界は変わってくるのではないか?と考えました。日本に行く事を夢見て日本語の勉強をしているミャンマー人発展途上国に住んでいる全員が金銭的幸せを得るのは難しいかもしれませんが、例えば日本に行きたい!と本気で思った人が、具体的にどのようなステップを踏めば実際に日本に行くことができるのか。その具体的な選択肢を明確化してあげれば、彼らの行動は物乞いでは無く変わってくるはずです。つまりは、自分が多くの人に選択肢を創り出すことで誰もが生まれた場所に関係なく、好きなことをできる社会を創りたいと思ったわけです。まずは小さいことですが、ミャンマーで立てた会社の雇用から見直しました。学歴社会のミャンマーですが、学歴や性別、年齢に関係なく本当に優秀だと思った人だけを採用。中には外国人と初めて働いたという従業員も多く、彼らのポテンシャルはみるみる上がり、高卒などは関係なく給料を上げていきました。給料が上がったことによって新しいスキルを学びに専門学校へ行き始めた人も増え、まずは身近なところから新しい選択肢を生み出すことができました。ミャンマーで設立した会社のみんなと一緒に日本にくることを夢見て来た外国人にASEAN HOUSEが選択肢を創り出し、幸せにしたいそんな中、ミャンマー時代の数少ない同世代で起業家の友人であった佐々からASEAN HOUSEの話を聞き「超面白い!」と感じて即ジョインを決めました。少子高齢化で労働人口が減り、このままだと貧しくなってしまう日本。労働力は外国人に頼らざるをえません。その救世主は、未熟だった自分に生きがいや人生のビジョンを教えてくれた海外から来る東南アジア人。先ほども言ったように日本に働きに来る東南アジア人は、平等ではないスタートラインから努力をしてきて、ようやく日本で働く切符を手にした、今後母国を背負って立つであろう優秀な人たちばかりのはずです。しかし違法な賃金で働かされたり、言語が話せないことを理由に叱られたり、失踪者が年間7000人もいて、「もう日本なんて行くもんじゃない」と行って母国へ帰ってしまう人がいる現実。希望を持って、たくさんの努力をしてきて、やっと日本に来てくれた彼らが悪印象を持って国に帰ってしまうなんて、こんなに悲しいことはありません。日本人と外国人がうまく融合することで、この問題は解決できるはずです。今はまだほんの少しの小さな幸せしか創り出せないかもしれませんが、後々たくさんの人が人生を変えるであろう大きな幸せを掴む、その選択肢を創っていきたい。それが、ASEAN HOUSEです。残り49日。最後まで、全力で僕たちの声を届けていきますので、もうしばらくお付き合いいただけたら嬉しいです。引き続きの応援、どうぞよろしくお願いします!