2020/07/04 14:07

昭和27年、私は葛城家の次男(長男、長女、弟)として生まれ身体障害者の兄に代わり長男として育てられました。公務員の父、母が農業という兼業農家でした。母はコメとカヤ(畳表の素材)を作り納屋で畳表を機織り機で編んでいました。兄の遊び相手は私であったり近所の子供たちです。誰一人仲間外れなく普通に遊んでいました。たまに母親に連れられて大分の市街に買い物に行くと周りの人からは奇異な目で見られます。「何をジロジロ見よんのか」と喰ってっかったことも何度もありました。今思うと母はつよかったなあ。子供4人を連れ堂々とあるいていたなあ。兄とつかみ合いの喧嘩もよくしました。そうすると祖母が「兄ちゃんになにしよんの」いつも叱られるのは私でした。障害があろうとなかろうと関係なく家族は普通に暮らしていました。結婚し妻も兄を普通にいえ、それ以上に分け隔てなく面倒見てくれました。やがて長男、次男が生まれ二人とも兄の子守で育ったようなものです。私ら夫婦と長男、次男、兄の5人で買い物、旅行にといつも一緒に行動していました。現在兄は施設で生活をしていますが、妻は毎日のように、息子たちもちょくちょく面会にいっているようです。私たち家族にとっては普通のことです。福祉ではありません。ジョイファーム大分には僕と妻と長男が働いています。私たちは福祉を学習した事はありませんが利用者たちの自立(自分一人ででも生活が出来るように)の一助となるよう一生懸命支援していきます