「万象園の歴史的な説明を聞きたい!」というリクエストをいただきましたので、せっかくの機会、お殿様の体温が感じられるようなエピソードを中心に、少しずつご紹介していきますネ。
(写真は丸亀市所蔵の【京極高豊公】の肖像)
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1688年、中津万象園の築庭を始めた京極高豊候は、丸亀藩京極家2代目の藩主。
父の死後、8歳で家督を継ぎ、非常に絵画に堪能で、その才能は天才的だったといわれている人物です。
京極家と仁清窯との関わりが深いことはよく知られていますが、そのきっかけとなったのも、高豊侯の時代でした。
仁清独特の優雅な題材は、江戸育ちの高豊が頭に描いた京のイメージだったとされていますが、高豊候が仁清へ出したと思われる、「絵画のように、どこが正面に来ても図様が破綻無く活かせるようなものにして欲しい」という注文が、仁清の傑作につながったと言われています。
(仁清の代表的な作品/色絵藤花茶壺(国宝)MOA美術館)
ちなみに、上記の仁清の茶壺は、世界的に有名な作品のひとつですが…。
大正時代の京極家道具の入札会((下見)大正7年11月9日・10日(入札)大正7年11月11日(会場)東京美術倶楽部)に、おそらくその茶壺と思われる作品が売却されています。
その記録を見ると……………。
うわっ。6万8千円!
大正10年(1921)の物価は、銀行員の初任給=50円、教員の初任給=45円、国会議員の年俸=3000円だそうなので、どれほど高い価格で取引されたのかということが分かります。
(香川県立図書館蔵:旧丸亀藩主京極家御蔵品入札会高値表/札元 梅澤安蔵)
高豊候のキーワードは、ずばり「絵心」。
この万象園を造った時にも、一幅の絵のように高豊候の脳裏には浮かんでいたのかもしれません。
※当初ここは、下金倉別館と呼ばれていました。「万象園」と名づけたのは、明治の貴族議会議員・野村素軒とされています。(その扁額は盗難にあって現存していません。)