はじめまして 中村商工会議所 溝渕聡と申します。 当サイトをご覧のみなさま、当プロジェクトに興味を持っていただきありがとうございます。 今日は、どうして四万十市で神様の結婚式が行われる様になったのか、その辺の経緯を私の私見も若干加えつつ説明したいと思います。 時は今から約550年前、室町時代までさかのぼります。 当時足利義満による皇位簒奪未遂以後、皇権を回復した「中興の英主」として極めて重要な人物とされている後花園天皇が即位していました。 この後花園天皇を公卿(関白)として補佐していたのが、神様の結婚式を作り、現在の四万十市の礎を築いた一条教房公です。 公卿とは、公家の中でも日本の律令の規定に基づく、太政官の最高幹部として国政を担う職位です。 しかしこの時、後花園天皇の御所がある京都は、当時キナ臭い不穏な空気が流れていました。 これは、足利将軍家ならびに重臣の畠山氏、斯波氏の継嗣問題に端を発し,有力守護大名である細川氏、山名氏の熾烈な勢力抗争が行われていたためです。 この抗争は、日本中を十数年にわたって巻き込み、京都全域に壊滅的な打撃を与えた応仁の乱へと発展していきました。 応仁の乱がはじまると、一条教房公は戦火を避けるため、一条家領のあった土佐の国(高知県)幡多荘(高知県西部、四万十市周辺)に避難し、土佐国人に迎えられて生活の基盤を確保しました。 その後、一条教房公は幡多郡総鎮守として山城国の石清水八幡神社を勧請し、「神様の結婚式」の舞台となる不破八幡宮を建立し、四万十市に京都に模したまちづくりを開始しました。 しかし、当時四万十市は何もないど田舎。 特に京都で雅な生活をしていた貴族にとって、野蛮な未開の地だったでしょう。 特に一條家の人々が許せなかったことは、当時この地域で行われていた住民による略奪婚の風習でした。 そこで、一條家の人々は一計を案じます。 住民にわかりやすく結婚の素晴らしさを伝え、略奪婚をやめさせるため、神様という住民の信仰の対象同士を結婚させて、結婚式の見本を示す事にしたのです。 この目論見は成功し、住民たちによる略奪婚はなくなりました。 また、一條家は住民に京風の文化や教養を教え、資質向上を図りm四万十市のまちづくりの原動力としていきます。 そして、この一條家によるまちづくりによって、四万十市は京都を模した碁盤状に街並みに整備され、以降現代まで高知県西部の中核都市としての機能を果たしていきます。 神様の結婚式による、住民のモラルの向上がなければ、もしかしたら四万十市の発展はなかったのかもしれませんね(笑) この神様の結婚の儀式は、毎年お祭とともに行われており、今では四万十市の風物詩となっているのです。



