2019/09/08 13:22

以前、「島根と僕、そして映画」という文章を書きましたが、それをテレコ(京都弁。京都の撮影所から伝播?)した文章を懲りずにまた長々と書きます。

18歳の時、松江高専をやめて川崎の新百合ヶ丘にある日本映画学校に入学しました。
初めて東京に来た僕は、夜行バスを降りて東京駅八重洲の高層ビル群を見て驚きました。
松江駅からJR中国バスに乗り、12時間ほどバスに揺られ、気づけば東京駅。
その時だけは東京が別世界に思えました。

僕はどちらかというとアンチ日本映画学校的な学生として3年過ごしました。
あんまり、映画学校が推す作品が好きではなかったからです。
映画学校に行くより、映画を観まくった方が絶対いいという謎の反抗心から、今は無き柿生のビデオショップ・ミロや、今はもうオシャレなカフェみたくなって跡形もなくなってしまった新宿TSUTAYA、渋谷のユーロスペースやシネマヴェーラ、池袋の新文芸坐や、神保町シアター、そして震災後になくなってしまった銀座シネパトスなどに通いました。
映画学校の資料室が意外と充実しており、資料室に行くために学校に行っていました。

高専の寮で観て衝撃を受けたヌーヴェルヴァーグの作品を始め、ハワード・ホークスやジョン・フォード、エルンスト・ルビッチらが活躍した1940年代前後のハリウッド映画、小津や溝口、成瀬らの日本映画全盛期の作品、マキノや加藤泰の東映任侠映画、ホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンの台湾映画など、今ではもう無理なくらい観まくりました。
トリュフォーが「世界一美しい映画」と言った、映画史上の最高傑作なんじゃないかと思うF.W.ムルナウの「サンライズ」(1927年)、あまりに瑞々しくてVHSを何度も巻き戻して観たニコラス・レイの歴史的処女作「夜の人々」(1949年)と出会ったのもその頃です。
「サンライズ」は映画学校の資料室で、「夜の人々」は柿生のミロで借りたのを覚えています。

僕が二十歳くらいの頃は、ちょうどいい時期でした。
自死したソ連の伝説的な映画作家ボリス・バルネットの作品の特集上映があり、ポーランドの放浪する映画作家イエジー・スコリモフスキが「アンナと過ごした4日間」(2008年)で華麗な帰還を果たし、フランス映画祭でジュリエット・ビノシュが来日しレオス・カラックスの「汚れた血」(1986年)の上映後にトークをして、かつて恋人関係だったカラックスとの思い出を話しと、東京ならではの映画経験をしました。

 

特集上映「ジャック・ロジエのバカンス」予告編

 

おそらく、一番の衝撃はジャック・ロジエ作品との出会いです。
映画学校の近くにある川崎アートセンターで、ロジエの当時日本未公開だった?作品「オルエットの方へ」(1971年)の一般試写のようなものがあり、僕と同じくロジエの「アデュー・フィリピーヌ」(1962年)が好きな友達と観に行きました。
もう無茶苦茶な映画でした。
ただ女の子3人が延々と夏の南仏で悪ふざけを楽しむだけの2時間半。ひたすら男たちはからかわれる対象です。
うなぎを部屋中にばら撒いたり、ヨットをわざと転覆させようとしたり、滞在先の家で見つけた木靴で遊んだりして、楽しそうにゲラゲラ笑う。こっちも釣られて何故かゲラゲラ笑ってしまう。
だけど、どこか哀感としうか哀愁のようなものが漂う。
「アデュー・フィリピーヌ」には、楽しいダンスシーンにも兵役や三角関係という裏面があったけど、これはひたすら悪ふざけをしてるだけなのに。
これで、バカンス映画を好きになりました。
その後、ジャック・ロジエ特集が組まれ、「アデュー・フィリピーヌ」や「メーヌオセアン」「ブルージーンズ」などと一緒に上映されます。
僕の二十歳の頃はそういった意味でいい時期でした。

 

 

2016年の特集上映版もありました。

やっぱり、音楽がいいな。

 

卒業後のことは省きます。
ただピンク映画の現場で35mmフィルムと接すことができたのは幸運でした。

バカンス映画を撮りたい、と思った時に思いついたのが何故松江だったのか、それはよくわかりません。
映画に触れるきっかけができた街であること、宍道湖の風景が美しいこともあると思います。
マノエル・ド・オリヴェイラの「コロンブス 永遠の海」(2007年)の最後で、オリヴェイラの奥さんが窓から海を眺めながら「郷愁という言葉 この言葉を紡ぎ出した人よ 初めて呟いたその時 涙を流したことでしょう」と歌う場面が何故か思い出されました。

 

「コロンブス 永遠の海」予告編



また長々と書きました。
お読みいただきありがとうございます。

永岡俊幸