2016/10/31 20:19
はじめまして。
シャクジ能実行委員会でクリエイティブディレクターをしております、池原和です。
メインビジュアルやフライヤーのグラフィックデザイン、全体のプロモーションや印刷物のディレクションなど行っています。
また私が中心となり、常葉大学でクリエイターを目指す学生に話をして、プロの現場の中で舞台空間をつくる合宿計画を進めております。
 
辻と私で、11月23日(日)に開催された倭文神社の新嘗祭(にいなめさい)に参加させていただきました。
新嘗祭は収穫祭にあたるもので、日本では、古くから五穀の収穫を祝う風習があり、その年の収穫物は国家の一年を養う大切な蓄えとなることから、大切な行事として飛鳥時代の皇極天皇の御代に始められたと伝えられています。
倭文神社は延喜式神明帳にある式内社で、又富士郡三座の一つでもあり、日本最古唯一の織物、製紙の神である健羽雷神を奉祭する神社です。
倭文神社の他に淺間神社、富知神社が富士郡三座とされています。
また、富士山を祀る山宮浅間神社と同じく、本殿のない神社となります。
拝殿裏には、小石が敷き詰められた石垣の中に榊の木が植えられ祀られています。
榊の語源は、神と人との境であることから「境木(さかき)」の意であるとされています。
古来から植物には神が宿り、特に先端がとがった枝先は神が降りるヨリシロとされ、オガタマノキなど様々な常緑植物が用いられたが、近年はもっとも身近な植物で枝先が尖っており、書くさらに木偏に神と書く榊は神のヨリシロにふさわしいと定着しました。
星山の神が降りるヨリシロの木として、古来より大切に祀られています。

何度か下見に来た倭文神社ですが、雰囲気がいつもと違います。
多くの人が倭文神社にあつまり、星山は注連縄と紙垂(しで)で囲まれ、拝殿は手前と奥の扉が開き、参道から拝殿裏に祀られる榊の木までの道が現れていました。
天候にも恵まれ、あたたかい日差しが星山からこぼれ、榊の木を照らしていました。
いつもの趣ある雰囲気とは異なり、多くの人に囲まれどこか喜んでいるような、明るい雰囲気を感じました。

まず鳥居の前に子供達が集まり、子供神輿のお祓いを行います。
伊藤宮司が大麻(おおぬさ)を振り祈祷を行い、榊の木に紙垂と麻の紐がついた玉串を捧げました。
終わると神輿を担ぎ、大きな声で星山をくだり練り歩き(渡御)に行きました。

この玉串。かつてアマテラスが天の岩戸に篭った際につくられたのがはじまりでした。
その玉串に飾る布を織ったのが、倭文神社に祀られる建葉槌命(タケハヅチノミコト)です。
天の岩戸で使用した布は楮(コウゾ)や麻から作った「倭文(シズ)の綾織」というもの。
そのために異名に「倭文神(シズ神・シドリ神)」とも言われています。
 
「このたびは 幣(ぬさ)も取りあへず 手向(たむけ)山 紅葉(もみぢ)の錦 神のまにまに 」
 
今度の旅は、御幣をささげることもできない。とりあえず、手向けに山の紅葉を錦に見立てて御幣の代わりにするので、神の御心のままにお受け取りください。
 
百人一首にもある菅家(かんけ)菅原道真(すがわらのみちざね)の詞です。
幣(ぬさ)とは、布や紙で作った神への捧げ物。
紅葉の錦とは紅葉の美しさを錦に見立てた表現となります。
紙垂や木綿を付けない紅葉を玉串として捧げた様子が詠われているそうです。
11月20日には、華道家の辻雄貴が紅葉を用いて献花差立を行い、幣や玉串と同じくヨリシロとして倭文の神に捧げます。 
神輿のお祓いが終わり、私たちは拝殿の中へ集まりました。
宮司による祝詞奏上の後、倭文神社の関係者の方々と一緒に、榊の木へ玉串奉奠(たまぐしほうてん)をさせていただきました。
催しの前に倭文の神へご挨拶することができたこと、大変嬉しく思います。
 その後町内会の皆様と一緒に捧げた御神酒や食べ物を頂きながら、地元の方々から倭文神社への思いを聞くことができました。
富士郡三座として祀られているが、地元の人も含めあまり知られていないこと。もっと倭文神社、星山の価値を伝えていきたいこと。
お祭りや駿河シャクジ能などの催しが、多くの人に伝わるきっかけになってほしいこと。
私たちは地元の方々の想いに応えられるような催しを行うことを誓い、倭文神社を後にしました。
 
そしてみなさまのご支援を賜り、達成率100パーセントを超えました。
今回新嘗祭に来ていた方々、倭文神社に縁のある方々、そして倭文の神も喜んでいることと思います。
私共シャクジ能実行委員会も感謝の気持ちでいっぱいです。
本当にありがとうございました。
終了日まで残り10日、引き続きご支援の程宜しくお願い致します。