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秋葉硝子にはこんな人がいます
さて、改めまして私たち秋葉硝子のメンバーを紹介をします。
今回は秋葉硝子代表であり、ガラス作家である照井康一について語りたいと思います。
照井は平成26年生まれ、新潟市秋葉区出身。
現在66歳と年齢を重ねていますが、体力仕事のガラス作りを頑健な体で日々こなします。
新津高校を卒業後、東京の多摩美術大学入学。プロダクトデザイン科にて見識と創造力を高めていきます。
予備校時代には新宿ゴールデン街を徘徊し、大学時代には地元の親分に許可をもらい屋台を引いていたという照井。食い逃げされて追いかけたら仲間が出てきてボコボコにされた...なんて危なっかしい話もちらほら出てきますが、大学在学中にさまざまな芸術と触れ、何とか(名前は忘れたそう)という芸術家の作品に感銘を受けたことがきっかけでガラスの世界へ足を踏み入れます。
平成40年、群馬県にある上越クリスタル硝子に入社。この場所でガラス製造の技術を本格的に習得していきます。
上越クリスタル硝子さん。先日スタッフ一同で見学に伺いました。現在、ガラス体験などが楽しめる「月夜野びーどろパーク」という観光施設としてして盛況されています。
施設内にある大きな工場では10名ほどの職人がものづくりにあたっています。2~3人が組になり、火の灯った溶解炉を中心に同じ動きを繰り返します。
平成22年 には「第34回全国育樹祭」で来県された皇太子殿下が上越クリスタル硝子にお立ち寄りになり、工芸ガラス制作のご視察とご体験をされたことも有名です。施設にもその際のお写真や使用された吹き竿が展示されています。
また、華道の假屋崎省吾さんも有名になる前からこの施設で花器を特注されていたそうで、その頃のお話も伺うことができました。
照井はこの地で5年の月日を過ごします。人に揉まれ、ガラスと体いっぱい向き合い技法を身に着け、新潟へ帰郷。
出身地である新津で引き続きガラス製造業に携わります。
当時の新津はガラス製造が大変盛んで、街には工場が立ち並んでいました。
石油とともに大量に産出された天然ガスの存在が新津をガラスの一大産地として育ててきたわけですが、町のいたるところで原油(臭い水)が排出されていたため以前は臭水(くそうず)と地名がつけられたそうです。
※所説あり。現在は草に水と書いて草水(くそうず)という町名です。
平成55年~平成元年まではガラス製造業に携わりながら「職人」として日々腕を磨き続けます。
その間、胸には下請け業ではない「作家」としてのものづくりへの情熱が永い間途絶えることなく存在していました。
時を経てその想いは具体化され、結婚も転機となり当時勤めていた工場を退社。
新発田の旧豊浦町にて「吹き硝子三春(みはる)」を設立し、作家としての新しい道を歩み始めます。
デパートやギャラリーにて個展を行うなど全国に活動拠点を広げ、ガラス工芸の腕をさらに磨いていきました。
東京の有名な器屋さん「花田」様HPに当時の記事がアップされています。
http://www.utsuwa-hanada.jp/hanada/blog/201001shinsaku/
平成23年、作家活動を続ける照井に和光硝子(わこうがらす)からヘルプの声がかかります。
和光硝子は、今の秋葉硝子が設立される前の会社名称です。
この頃には、海外からの安価なガラスの輸入や原料高騰などを背景にガラス産業自体がぐっと落ち込み、かつて軒を連ねた工場も次々にその姿を消していきました。
和光硝子も然り、その流れを打破しようと照井を専務として迎え状況の改善に取り組みますが努力むなしく和光硝子は倒産。
その翌年、照井は「アトリエ三春」での活動をやめ、和光硝子から工場や設備を引き継ぎ「秋葉硝子」を設立します。
そうして秋葉硝子が立ち上がったわけですが、取引先は離れ下請けの量は右肩下がり…業績不振となり休業に追い込まれました。当時の従業員も共に働くことができず、残されたのは照井一人。
自分にできることは何か。苦悩し自問自答を続ける毎日。
導きだした答えは「途絶えつつあるガラス製造の技術を次の世代へ伝える」「ガラスの里であったこの地域のためのものづくりをする」ことでした。
結果、従来の下請けの業務用生産をやめ小売りとして活動を縮小。再スタートに向け環境を整えることから始めました。
ガラス制作は最低でも2人組で作業を行わなければいけないため、一度は会社から離れざるをえなかった渡辺に声をかけます。
大変シャイであり表だったところには出ませんが、どんな仕事でも真摯に取り組む渡辺は現在の秋葉硝子になくてはならない存在です。
その後、自身の高校の同級生である野瀬に声をかけます。
野瀬は、照井の苦手分野であるパソコンや電子機器関係などをがっちりとサポート。さらに、温和な性格を生かし多方面で信頼関係を築き上げ秋葉硝子へと繋げてくれる頼りになる存在です。
「お酒」についで共通の趣味である「音楽」を工場でも楽しめるようにとオーディオを設置してくれたのも野瀬です。
その後共通の知人を介して笹川が活動に参加しメンバーは4人となり、現在に至ります。
一見強面の照井ですが、義理と人情にあつく、時にナイーブな一面も見え隠れします。
その人柄にひかれ公私共にあたたかく見守ってくださる方が多いことを、活動を共にする中感じています。
ガラス制作に関しては、目の前でじっとその動きを観察していても終始安心して身を委ねられるような安定感があります。それと同時に、生き物のように形を変えていくガラスに気分が高揚するのを感じずにはいられません。
安定感は、長年の経験と技があってこそ。そして基本的な技があってこその「遊び」を作品に反映させることができることも照井の強みです。
ガラス制作はスポーツのよう、と何かの書籍の一文で目にしたことがあります。
その場その場でベストを尽くすことで納得のいく素晴らしい作品が生まれる、そんな解釈だったように記憶していますが、ものづくりの現場を目の当たりにするとそれを実感せざるを得ません。
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