こんばんは!今日の令和哲学カフェにて非常に興味深い話がされていたのでご紹介したいと思います。
よく「哲学は現実に使えないものだ」と言われてしまいますが、それはなぜでしょうか?
私達が何か(模様形があるもの)を認識する時、
物(認識対象)を私(認識主体)が認識していると思いがちです。
しかし、それは大きく間違っています。認識対象とは模様形あるもの全てであり、実は認識主体だと思いやすい人間の身体さえも認識対象なのです。では、認識主体は一体何なんでしょうか?それは心です。模様形のない心が、実は本当の認識主体であり、このことが府に落ちないと哲学を現実で使うことはできないんです。
以下のように、令和哲学では、そこに認識形式も取り入れて3つの要素で整理しています。
①認識主体(解析の主体)
②認識形式(事件の主体)
③認識対象(現実:思い込みの主体)
この三つの関係がわからないと、自分の考えの出発が分かりません。
①認識主体と②認識形式の出会いによって考えが生まれるのだから、 自分の考えの出発が③認識対象(結果物=現実)から出発していては、そもそも現実が何か分からない。
という深くて興味深い話を瓶の鳥の話や、PCの作動原理を例えに話をしていました。
生まれながらにして当たり前の「この現実」をどのように規程すればいいのか、私達は学校で学んだことはありません。
こうした最も根本的な考えの大前提がわかることで、現実を理解することができ、現実を楽しめるようになります。
改めて令和哲学カフェの奥深さを実感しました!明日も楽しみですね♪