2021/06/14 17:45

二十年前に去っていった須賀敦子が投じた宿題だった

 あるとき、須賀敦子さんと対話しているときに、この「谷根千」の活動が話題になった。須賀さんと森まゆみさんとは深い交流があるらしく、森さんが新刊を出すたびにその本が送られてくる、彼女の本がもう山となって積み上げられていると、須賀さんはなにやら揶揄するように皮肉の笑みをつくって言った。そのとき私は、森さんの本の山で須賀邸の床が抜けるんじゃないんですかと悪意のジョークを放つと須賀さんは大きく笑った。そしてそのジョークになぜ悪意を含ませているかを須賀さんに話したのだ。「谷根千」にはもう一人、山崎範子という素晴らしい書き手がいる。ところが彼女の本は一冊も現れてこない。なんだか「谷根千」活動のうまみというか漁夫の利をすべて森さんがせしめているようで、一冊ぐらいは山崎範子に譲ったらどうなんですかねと。すると須賀さんは辛辣な言葉を放った。
「友情にあふれていても、女の戦いはすさまじいものよ、絶対に譲れないものがあるんじゃないの、女の本質ってあんがい意地悪いものよ」
そしてそのあと私たちは、何十冊、何百冊もの本を送り出しているベストセラー作家たちを猛烈に攻撃していったのだ。須賀さんはそのとき「クレシエ──cliehē」という言葉を使った。きまりきった陳腐なる表現という意味である。
「日本語はもうクレシエだらけになっていく。いつも同じ言葉、いつも同じ言い回し、いつも同じ腐ったような比喩、日本語はおそろしいばかりにクレシエだらけになっていく。そして陳腐なるストーリー。そこに使い古された、踏み荒らされた、なんの想像力もない言葉で組みたてられていく。あるベストセラー作家は七十冊の本を書いたという、さらに上をいくベストセラー作家は百二十冊の本を出したと豪語する。だけど日本の大半のベストセラー作家たちの作品は、彼らがお亡くなりになると、その一か月後にはゴミとなって捨てられていくのよ。彼らは大量のゴミを吐き散らして去っていった人種ということになるのよね」
 そして須賀さんはこう言ったのだ。
「私の本もまたゴミみたいなものね」
 須賀さんが「ミラノ霧の風景」という極上の本を投じて読書社会に登場したのは、六十歳になったときだった。それから須賀さんが六十九歳で没するまでに刊行された本はわずか五冊にすぎなかった。それらの本をゴミみたいなものよと須賀さんは言ったのだ。

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 アン・リンドバーグを描いたエッセイ「葦の中からの声」と、このサンテグジュペリを描いたエッセイ「星と地球のあいだ」を読んだ私は、須賀敦子に挑戦の矢の矢を放つのだ。
「アン・リンドバーグが書かれ、サンテックス(サンテグジュペリ)が書かれた。するともう一章、須賀さんは、書かねばなりませんね。これは絶対に書くべきですよ」
 それが挑戦の矢とも思えなかったのか、須賀さんは怪訝な顔をむけ、
「どういうこと、もう一章って」
「アンとサンテックスは熱烈なる恋に落ちたんです。そのことを書かなければ、この二つのエッセイは画竜点睛を欠くというか、なにやら二人の魂の核心といったものが書かれていないということになるんじゃないですかね。二人の背後に戦争という巨大な影が迫っていて、それぞれ苦境に立たされていた。二人が恋に落ちたその年に、ドイツはポーランドに侵攻し、フランスとイギリスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発する。そして四年後に、サンテックスの操縦する飛行機はドイツ軍の戦闘機に撃墜され、海の底に沈んでいったわけですからね」
 私の放った矢はあきらかに須賀さんの内部に突き刺さったのだ。須賀さんの温顔がきりりととんがり挑むような厳しい視線を向けた。それは私にではなく、アンとサンテックスが熱烈なる恋に落ちたという事実に。須賀さんはそのことを知らなかったのだ。
 それはアン・リンドバーグが「聴いて、風よ」という本を出版した。その本をフランスで発行する出版社が、その本を推挙する一ページほどの序文をしたためてくれないだろうかと、だめでもともとサンテックスに依頼するのだ。するとサンテックスは、一ページどころか九ページにわたる序文を書いてきた。彼はそのときアン・リンドバーグという女性飛行家に恋に落ちたのだ。
 そしてその年に、サンテックスはアメリカの出版社から本を書くことに依頼されてニューヨークに滞在する。それを知ったアンは、勇気を奮って彼に電話を入れ自宅に招待するのだ。サンテックスはニューヨークから電車に乗って、デトロイト郊外に立つリンドバーク邸にやってくる。アンは完全に舞い上がってしまった。アンはサンテックスと出会ったそのときの心のどよめきを何ページにもわたって日記に記している。
《‥‥‥私の思考は活性化された。それに、私の知覚、私の感情も。一週間近くのあいだ、世界は私にとって、ほとんど支えきれないような美しさをしめした。どちらを向いても、世界のざわめきが、聞こえる。ねじれた一本の枝が私の心を引き裂き、乾いた葡萄の蔓が悲壮な趣をみせる。夕立の狂おしいばかりの白さがわたしに翼を与え、夕暮れのまどろみのなかに孤立する樹木は、根を張り、空をめざして、神々のように立っている》(山崎庸一郎訳『戦争か平和か』みすず書房)

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 そんなことを話し、その世紀の恋愛を、須賀さんは書くべきだと迫っているとき、私は余計なことを言ってしまった。この二人のことを三本の戯曲で描こうと思っているんですよ、と。すると須賀さんは、
「わあ、それはすごい、その三部作はいつ完成するんですか」
「才能が乏しいですからね、まあ、十年計画です」
「いいわよ、十年なんて、あっという間よ。完成したら、真っ先に私に読まして下さいね」
 須賀さんが雑誌に連載していたそのエッセイは、「遠い朝の本たち」というタイトルで刊行された。しかしそれは須賀さんが生命の鼓動をとじた二か月後だった。彼女はその本を手にしていない。その本のなかにアン・リンドバーグを描いた「芦の中の声」と、サンテックスを描いた「星と地球のあいだに」が編まれている。しかし私が須賀さんに挑戦したアンとサンテックスの世紀の恋愛のことは書かれていなかった。
 なぜ須賀さんは書かなかったのだろうか。あのときたしかに須賀さんの内部にも火がともって、その恋愛の細部を知ろうと熱く問いかけてきたのだ。そのとき須賀さんは、その世紀の恋愛を書くに違いないと思ったものだ。しかしその本には載っていなかった。私はいま思うのだが、それは須賀さんが私に投じた宿題だったのかもしれないと。その世紀の恋はあなたが書くべきであって、その三部作が完成したら、真っ先に私に読ませてちょうだいと。須賀さんが去ってからもう二十年の月日がたってしまった。私の三部作はいまだ完成していない。その宿題を果たしていないわれとわが身のふがいなさを呪うばかりだ。

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 日本のベストセラー作家たちを猛烈に攻撃していたときに、須賀さんは、「私の本もゴミみたいなものね」といった。須賀さんの本を手にした者ならば、誰もが悲鳴を上げるようにその言葉を否定するだろう。しかし私はそのとき肯定し、賛同した。というのは、私はちょうどその頃、『理論社』を興し、二千冊近い本を刊行してきた小宮山量平さんに、やはり同じような挑戦の矢を放っていたのだ。小宮山さんは自著を何冊も刊行している。しかし私には小宮山量平という大きな魂を表現するのは、それらの短文、雑文といった小さな文章で編まれた本ではなく、この地上にそびえたつ大木を打ち立てるべきだと挑戦していたのだ。そのとき小宮山さんは八十歳を間近にしていたが、私の放つ挑戦の矢にその何倍もの矢を打ち返してくる。そんな戦いのなかから「千曲川」四部作という大伽藍が誕生していったのだ。
 小宮山さんに挑んだことと同じことを須賀さんに挑んだのだった。須賀敦子の本質はいまだ半分もこの地上にあらわれていない。あなたの全存在をこの地上に打ち立てるときがきたのではないのですか。しかし、そんなことを私に指摘されるまでのことはなく、すでに須賀さんはそのことに立ち向かっていたのだ。生前に投じた最後の本が「ユルスナールの靴」であるが、この本はフランスの作家、マルグリッド・ユルスナールという作家を追いかけていったエッセイだが、須賀さんはこのユルスナールに出会って、打ちのめされるばかりの衝撃をうけるのだ。そしてこのユルスナールに対峙するような本を書かねばならぬと、彼女の全生命をかけて立ち向かっていたのだ。そんな大作に立ち向かっていたから、それまで投じたエッセイ集をゴミのようなものだといったのだ。それは彼女の決意の言葉だった。やがてユルスナールが投じた「ハドリアヌス帝の回想」や「黒の過程」に比肩するような大作をこの地上に打ち立ててみせると。
 須賀さん没後、須賀敦子ブームが静かに沸き起こっていった。そして未発表の作品を編集した本が何冊も投じられ、やがて七巻にも及ぶ須賀敦子全集まで刊行された。しかし須賀さんがなした仕事はそれだけではなかった。彼女が膨大なエネルギーと時間を費やしたのは、日本の文学を上質のイタリア語に翻訳してイタリアの読書社会に投じ、逆にイタリアの文学を上質の日本語に翻訳して日本の読書社会に投じている。それらの仕事を加えると、須賀敦子全集は二倍にも三倍にもなるだろう。須賀さんはゴミの山を築いて去っていったのではなかった。