2021/07/04 18:41

生命の樹となって成長していく絵画

 二〇〇八年の九月から十月にかけて葉山の海岸に立つ神奈川県立近代美術館で秋野不矩(ふく)展が組まれた。その展覧会に足を運んだ私は、展示室に入りその最初に展示された絵に釘づけになった。こういう体験はひさしぶりだ。こういう出会いをしたくてさまざまな展覧会に足を運ぶが、たいていは空振りで、なにか徒労の時間を費やしたといった思いになるのだが、しかしその「朝露」と題された日本画は私を釘づけにした。

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その母の像は背中だけ、横顔さえ見せていない

一時期、明治という新しい時代に、岡倉天心たちが起こした芸術運動を小説にしようと、天心のもとに集まってきた画家たち、横山大観や菱田春草や下村観山などの絵をずいぶん熱心に見て回ったことがある。しかし次第に彼らの絵のフラットさ──画面を平面的に造形していく手法に、物足りなさを感じるようになっていった。画面が大きくなればなるほど、空間処理の部分がより広くなり、その主題とする平面的な絵は、いよいよ空疎といわないまでもフラットになる。

油絵は絵の具を重層的に塗りあげていく。遠近法を駆使して、光と影の陰影を深くして立体的に造形していく。そんな油彩画のもつ重量感や存在感に比べるとき、平面的に画面を造形していく日本画はどうもフラットに映るのだ。

その「朝露」もまた対象を平面でとらえる典型的な日本画だった。朝顔の蔦が花をつけて竹格子を這っている。その朝顔を背景にして、下駄を履いた和服姿の若い母親が、幼児を抱いて立っている。縦二メート七十センチ、横一メートル六十センチの画面である。しかしこの絵はフラットではない。画面は気品をたたえ、豊かさにあふれ、濃密な存在感がある。母子像をヨーロッパの画家たちもたくさん描いていくつもの名画があるが、この「朝露」はそれら油彩で描かれた歴史的名画に少しも劣らないばかりの感動を観る者に与える。

母親が抱いている幼児は、母親の肩越しにこちらを向いている。その母親の像は背中だけ。彼女は横顔させ見せていない。画面に描かれているのは、黒に近い濃紺の和服に、ネイブルスイエローというのか枯葉色の帯をきりりと締めた後姿なのだ。しかし見る者にこの女性のやさしさや、強さや、英知や、凛とした意志がみえてくる。

画家は子供を抱いた母親の背中を描くことによって、その女性の内部を描いているのだ。それはまた画家自身の内部を描きだすことだった。この絵が放つ、高さと、深さと、気品と、決然たる強い意志。白い画面に立ち向かう画家の高い志を描いている絵なのだ。カタログを見ると二十五歳の作とある。秋野はその若さですでに完璧と思えるばかりの日本画の技量を確立していたのだ。

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インドが創造力と想像力を爆発させた

その初期の作品のあとに、がらりと変貌した子供や若者たちを描いた絵が並ぶ。同じ画家仲間と結婚して子供が次々生まれ、その子育てに奮闘していた時代の作品である。子どもたちは少年少女になり、やがて青年になっていく。彼らの成長する姿を描いたそれらの絵は、若くして確立したいわゆる風雅な日本画のスタイルを、なにやら完全に放擲してしまっているような絵だ。

彼女の三十代、四十代、五十代、そして六十代の作品がほとんど展示されていないからただ推測するのみだが、だれよりも彼女は日本画のもつ限界に気づき、その限界を突き破ろうと血まみれの格闘をしていたのではないのだろうか。油彩画のもつ存在感と生命力を岩絵の具でいかに造形していくのか。少年たちを描いたそれらの絵にその苦闘の痕跡がとどめられているように見えるのだ。

その部屋を抜けると展示会場は一気にインドを描いた世界に入っていく。彼女は五十五歳のときに、インドの大学に客員教授として招聘されるのだが、その一年間のインドでの生活が彼女の絵画を劇的に変貌させていく。それは変貌と呼ぶべきものではなく、大きな魂と破格の技量をもった彼女はインドと出会うことでとうとう解放された、あるいはインドという大地が彼女を救い出したということかもしれない。彼女の内部でくすぶり続けていた創造と想像のマグマが吹き上げ、圧倒的な黄色の世界を作り上げていったのだ。

縦一メートル四十センチ、横三メートル六十センチの大画面である。黄濁した河面は黄金に染まり、その濁流のなかを家族であろうか、十二、三頭の水牛が大河を渡っている。水牛は角しか水面に出していない。画面を占めるのは圧倒的な大河の流れである。この大画面はフラットではない。存在感と生命力がみなぎっている。この絵はもはや日本画という範疇でとらえる絵ではない。これこそ秋野が目指してきた世界だった。

若くして日本画のスタイルを確立し「朝露」や「姉妹」や「紅裳」のような傑作の森をつくりだした。しかしそのとき同時に誰よりも深刻に日本画の限界に直面したのであり、その限界を打ち破らんと苦闘してきた長い年月があった。「渡河」はその苦闘の果てに出現させた世界だった。

力を秘めた絵画は見る者に対決を迫る。見る者の精神に衝撃をあたえ、魂までも揺さぶる。カタログをみると一九九八年作とある。なんと秋野八十六歳にして取り組んだ作品である。

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膨大な作品が火災で灰になってしまった

秋野不矩の全貌を伝えんとするその回顧展に、画家がもっとも苦闘したであろう三十代、四十代、五十代、そして六十代の作品がほとんどない。いったいこの欠落は何を意味するのか。その疑問はカタログをみて腑に落ちた。二度も火災に会っているのだ。最初の火災に見舞われるのは六十三歳のときである。そのとき彼女の作品が一瞬にして灰になってしまったのだ。家や家財が焼け落ちたのはあきらめがつく。しかし彼女の生命そのものであった作品群がことごとく灰になってしまったことに、彼女はどれほどの衝撃をうけたであろうか。さらに六十六歳のときに二度目の火災にあって、ここでもまた作品が失われた。

創造はつねに破壊することからはじまっていく。それまでの創造を打ち破らなければ新しい創造は生まれない。この火災は彼女にそういう決意をさせたのであろうか。これでさばさばした、ここから新しい出発だと。秋野はその火災こそ、彼女の画業を結実させていく新しいスタート地点に立ったと思わせるばかりだ。事実、葉山の美術館での一大回顧展は火災後の作品がしめることになる。

この回顧展はまた次のことを私たちに気づかせる。彼女は若くして名声を確立していたのに、その絵がほとんど売れていない、彼女は本質的に売れない画家であったという事実に。「朝露」は二十代半ばに描いた傑作である。その時代に会場に展示されている「朝」「姉妹」「砂上」「紅裳」といった傑作の森を作り出している。それらの作品をいま私たちが見ることができるのは、その絵が売れていたからである。売却されて、売却された場所に展示されていたり所蔵されていたりした。だからその絵を私たちは見ることができる。しかし三十代から六十代までの作品はほんどと展示されていない。

おそらく私たちを魅了するいくつもの大作や、珠玉のような小品の群れがあったに違いない。しかしそれらの絵はほとんど売れなかったのだ。売れない絵は自宅に所蔵しておく以外にない。二度の火災がそれら膨大な作品群をすべて灰にしてしまったのだ。なんという損出であろうか。

彼女の絵と彼女の画家としての存在が、ようやく画壇という小さな世界から広く社会に認められていくようになるのは、八十歳を超えたあたりからである。そして九十歳のとき文化勲章を受ける。彼女は一躍時の人となりマスコミの脚光をあびていく。そのときから彼女の絵は飛ぶように売れていったのだろうか。

インドの大地を描いた大作群が破格の値で売られて、それらの絵がさまざまな場所で展示されたり所蔵されたりするようになったのだろうか。いまカタログを見るとき、展示会場に展示された作品群の所蔵先は、そのほとんどが浜松市秋野不矩美術館蔵とある。ということはその大作群もほとんど売れていなかったことを語っていることである。彼女もまた売れない画家の一人だった。

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生命の木となって成長していく絵画

秋野の六十代までの作品は二度の火災でことごとく焼失してしまった。二度あることは三度あるものだが、スプリングラーなどが完備した彼女の美術館が誕生することによってその心配もなくなった。その作品は何重にも警護されて、展示室に展示されたり所蔵庫に保管されたりしている。これで残された彼女の絵はひとまず安全に次の時代に引き継がれていく。彼女の絵が見たくなれば、いつでもその辺境の地に立つ美術館を訪ねればいいのだ。しかしそれでいいのだろうか。彼女の絵はその小さな美術館にひっそりと閉じ込めておいていいのだろうか。

大半の画家たちの作品は、作者があの世に去ると死蔵されるか忘却の底に捨てられる。それは時代をにぎわしたベストセラー作家の作品だってその例に漏れない。しかし秋野の絵はちがう。彼女の絵はぐんぐんと成長していくのではないのだろうか。木立が年輪を刻みこんで、その幹をいよいよ太くさせ、超然と何百年と生き続けるように。生命力をもった絵画は歴史とともに成長していくのだ。

私はその会期中に二度ほど葉山の美術館に足を運んだが、入場者の大半が高齢者たちだった。なるほど九十三歳まで力みなぎる創造を続けた秋野の絵に高齢者たちは魂がふるえるほど感動する。しかしその感動は青年たちこそ体験すべきことではないのか。自分の信じた道をあきらめずに歩いて行けと。どんな苦難にもうろたえることなく自分の道を歩いて行けと。彼女の絵は大望を抱く青年たちを力強く励ますに違いない。

子供たちだって彼女の絵の前に立つべきではないのか。絵を描くとはきれいに美しく描くことではない。絵を描くとは自分を表現することなのだ。白い紙の上に思いのままに自分を表現する。どんなに下手でもいい。そんなことは問題ではない。そこにしっかりと自分が表現されている絵こそ絵というものなのだ。彼女の絵は子供たちに絵を描かせる力を与えるはずだ。

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インドに行きたいという声が聞こえた

すぐれた芸術がなぜ時代とともに生き、歴史とともに成長していくのか。それはその芸術の前に立つ人々の魂の波動や血液がその芸術の中に流れ込んでいくからなのだ。それは音楽を見ればよくわかる。バッハはなぜ現代に脈々と生きているのか。モーツアルトやベートゥヴェンがなぜ日々新しくなって私にたちのなかに流れ込んでくるのか。それは彼らの音楽が、常に新しい時代の新しい世代の演奏者によって新生の血液を流し込まれるからだ。

演奏者たちだけではない。コンサートに足を運び、ラジオやCDでその演奏に聴くおびただしい人々の魂の律動がまたその音楽に流れ込んでいく。バッハやモーツァルトやバートゥエベンは常に新しい。永遠の生命をたたえて人類の歴史を生きていく。それは絵画だって同じことだ。セザンヌやゴッホの絵の前にいつの時代でも無数の人々が立ち、その人々の生命の律動や新生の血液がその絵に流れ込んでいく。

秋野の絵はインドにいきたいと、ささやき、うめいていないだろうか。インドを描いたその大作群をインドの人々に見てもらいたいと。彼女の画家としての魂はインドと出会うことで解放された。インドが彼女を救い出したのである。彼女の絵がインドに渡りたいと迫るのは当然のことだった。そのささやき、そのうめき声をたしかに聞きとった秋野不矩美術館のスタッフは、その声を実現すべく奮闘すべきなのだ。

美術館の運営を担うスタッフの仕事は、所蔵する絵を管理し保管し展示するだけではないのだ。所蔵庫に絵を眠らせることは死蔵することにつながる。それは作品の生命の呼吸を止めてしまうこと。秋野の絵はぐんぐんと成長を続けている、そしてインドに渡りたいと叫んでいるのだ。ならば美術館のスタッフは、インドの主要都市、ニューデリーの、カルカッタの、カラチの美術館を巡回する展覧会に取り組むべきなのだ。

インド各地の都市を巡回した彼女の絵は、インドの人々を虜にするだろう。するとその成功は世界から注目を浴び、競って彼女の絵が世界各地の美術館から招聘されるだろう。パリで、ロンドンで、ベルリンで、上海で、そしてニューヨークで彼女の大規模な回顧展が開かれる。彼女の絵は日本画という領域を打ち破った絵画だった。彼女の絵は国境を越えて成長していく木立である。秋野不矩は世界の人々に愛される《FUKU AKINO》となる日がやがてやってくる。

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「渡河」が百七十億円で売却された

さらにこういう現象もおこっていく。世界各地の美術館から秋野不矩の絵を譲ってくれないだろうかと打診される。その話を具体化させる使者たちもやってくる。それらの動きを察知した画廊主たちも暗躍しはじめ、やがて秋野の絵はニューヨークやロンドンのオークションにかけられ、高額な値がつけられて売られていく。新しいポリシーをもつ秋野不矩美術館長は、とうとう彼女の最高傑作である「渡河」もオークションに出してしまった。

その絵にいったいどのくらいの値がつけられるのだろうか。二〇〇六年にジャクソン・ポラックの「NO5」が百七十億円という値で売却された。「渡河」もまたそのくらいの値がつくだろう。なにしろ世界の《FUKU AKINO》である。そんな値がついてもおかしくない。かくて「渡河」は売却されて海を渡ってしまった。

こういう決断をした館長に、猛烈な批判が巻き起こるにちがいない。秋野不矩美術館は商売を始めた。秋野の最高傑作を売り払ってしまった。秋野芸術を冒瀆する行為である。天上にいる秋野は嘆き悲しんでいると。しかしそうだろうか。むしろ秋野は会心の笑みを浮かべているのではないのだろうか。最後には勝つと生きてきた彼女の作品群が、かくも高額な値で売られ、世界に広がっていくなど想像することさえできなかったが、しかしこれでようやく自分のしたかった次なる事業に取り組めると。館長はこの秋野の声を聞きとっていたのだ。

手にした百七十億円でなにをはじめるのか。芸術家たちを援護するための秋野不矩財団をつくるのである。売れない画家たちに奨学金を出したり、作品を買い上げたり、彼らの作品を世に送り出すシステムをつくったりと、苦闘する彼らを援護する財団である。百五十億円もの資金があれば、千人の若い画家たちを援護できるだろう。

秋野は教育者でもあった。若い画家たちを育ててきた半生でもあった。芸術家は次の時代の芸術家たちを援護していかねばならない。もし自分の絵が高額で売却されたら、その金は若い画家たちを援護する資金にすべきなのだということを覚知していたはずである。館長は彼女のそんな声をたしかに聞きとったから、断固として「渡河」を百七十億円で売却したのだった。