― 飯縄山と小菅、修験の道を歩いて ―ここ数年、里山を歩き、その土地の歴史を調べ、それをツアーの中で物語として伝えることを続けています。古い道は、なぜここを通っているのか。この岩は、なぜ祀られたのか。昔の人は、この山をどんな目で見ていたのか。地域の歴史を深掘りするほど、興味は自然と「山」へ向かい、その先に山岳信仰や修験という世界がありました。神と仏。自然と人。里と山。かつて山に入った人たちにとって、それらは今よりずっと近く、ひと続きのものだったのではないか。そんなことを考える中で、どうしても再び訪れたかった場所がありました。小菅です。以前、長野でE-bikeを使ったサイクルトレインの実証に参加した際、何も知らないまま自転車で小菅を訪れました。その時、なぜか、「ここは、もう一度来なきゃな」そう思ったことを今でも覚えています。それから山の歴史や信仰を調べるほど、小菅への興味は強くなり、今回ようやく自分の足で歩くために戻ることができました。旅ではまず飯縄山へ。登山道の傍らには、不動明王をはじめとする石仏が立っています。ここは単なる登山道ではなく、かつて人が祈りながら山へ入っていった道でもある。その痕跡を辿りながら山頂へ向かいました。そして小菅へ。山へ入る前夜は小菅の里に泊まり、翌朝、小菅神社の参道を歩きました。杉の巨木の間を抜け、巨岩を仰ぎ、奥宮へ。そしてさらにその先、小菅山のブナの森へ。大きな岩の前に立ち、何百年もの時を生きてきたであろう木を見上げる。長く自然の中に身を置いていると、「自分が自然を見ている」という感覚が少しずつ薄れていきました。木も、草も、苔も、鳥も、虫も生きている。そして、その中に自分もいる。自分もまた、ここにある無数の生命のひとつなんだ。そんな感覚になっていきました。巨岩や巨木の前を通るたび、「ここを通らせてもらいます」そんな気持ちが自然と湧いてきます。昔、この道を歩いた人たちは何を感じていたのだろう。もちろん、同じ感覚だったとは言えません。それでも、人間よりはるかに大きな岩の前に立ち、自分より長い時間を生きてきた木を見上げた時に生まれる感覚は、今も昔もどこかでつながっているのかもしれません。なぜ人は山に神仏を感じたのか。なぜ巨岩や巨木を前に祈ったのか。なぜ修験者たちは山へ入ったのか。本を読んでいるだけでは分からなかったことを、ほんの少し身体で感じられた気がしました。山頂に立つことだけが、山を歩くことではない。歩き、立ち止まり、木を見上げ、風の音を聞き、ときには黙る。その中で、自分と自然との境界が少しずつ薄くなっていく。普段、私は里山を案内し、その土地に残る歴史や文化を物語として伝えています。でも、すべてを説明するのではなく、実際にその場所へ入り、自分の身体で感じてもらう。そこに立った人自身が、何かに気づく余白を残す。これから自分がつくっていきたい里山の時間も、そんなものなのかもしれません。何も知らずE-bikeで訪れた時、なぜか「もう一度来なきゃ」と思った小菅。今回ようやく、その奥まで自分の足で歩くことができました。知らなかった道を歩くたび、またひとつ、知らなかった世界がひらいていく。そしてその道は、不思議なくらい、自分が暮らす立山の山や里へとつながっていきます。今回感じたものを持ち帰り、また、自分の足元にある山と道を歩いてみようと思います。




