はじめに・ご挨拶
初めまして。「戦地からの絵手紙」伊藤半次の孫 伊藤博文です。
福岡市博多区で老舗の提灯店を営んでいた私の祖父:伊藤半次は、昭和15年(1940)9月に旧日本陸軍に入隊し、その翌年に満州へ出征、戦地に赴きます。兵士として戦地に行ってから、遠く離れた家族に対して、愛情あふれる絵手紙などの書簡を400通も送り続けました。提灯職人として学んだ特技を生かして、絵具や色鉛筆で描いた色鮮やかな絵手紙の数々には、家族の事を思い浮かべながら想像して描かれた絵、 そして駐屯地の四季の移り変わり、異国の人々の暮らしぶり、軍隊生活での出来事や近況などこまめに色んな事を伝えています。
愛する家族と暮らす平穏な日々を夢見ていた半次でしたが、昭和19年(1944)秋に沖縄へ転戦し、昭和20年(1945)6月18日に32歳の若さで戦死しました。
平成29年(2017)に企画展「戦地からの便り 伊藤半次の絵手紙と沖縄戦」を開催した那覇市歴史博物館などの調査で、半次が所属していた野戦重砲兵第23連隊は、迫り来る米軍との首里攻防戦に臨んだ後、部隊は南部の糸満市へ撤退、昭和20年(1945)6月に玉砕したとみられることが分かりました。
野戦重砲兵第23連隊1180人のうち、生き残ったのはわずか148人と伝えられています。
好きな絵をいろいろ書いて送ります
妻の禮子(祖母)に届いた絵葉書に「何か一緒に張ってとっておいてくれ、また先で見ると面白いと思う。」と書かれていたので、祖母は、夫の生きた証だとずっと大切に持っていたのだと思います。絵手紙を送り続けた半次(祖父)は、いつか訪れる平穏な日々を夢見て、戦地の思い出を家族と語り合いたかったことでしょう。
家族の元に帰ることを夢見て 息子に会いたい・・・
「お母チャン この慰問袋へ入ったら お父チャンのところへ行けるの 僕お父チャンの戦争してるの見たいなぁ」。女性(妻、禮子、私の祖母)の膝に抱かれているのは、末っ子の允博(私の父、2013年死去)。 検閲があるので、「帰りたい、会いたい、戻りたい」とは書けななかったのでしょう。息子の言葉にして、その思いを伝えたのです。半次の気持ちを考えると本当に切なくなります。
慰問品届いて大喜び
福岡から届いた荷物(慰問箱)に大喜びする半次と戦友。 とにかく元気な姿を描くことで、家族を心配させないようにしていたのだと思います。手にはサンデー毎日、そして、中洲にあった百貨店「福岡玉屋」の箱も描かれています。
自分で風呂を設計するほどの風呂好きが・・・
満州では「入浴など3日に1回です それもほんとに汚くて困りますよ」。妻の禮子(祖母)が風呂に入る 姿を描き、「自分の思い通りに設計した美しい入浴場がほんとになつかしくてなりません」と書かれています。
成長した我が子の姿を想像
裏庭で実ったビワをつつく3人の我が子。 半次が満州に渡ったのは、末っ子の允博(右端、私の父)が生後6か月の時でした。何年も会えないままですので、子ども達が大きくなった姿を想像して描き、こんな日常に戻りたいと願っていたのだと思います。
願い叶わず、32歳で沖縄に散る
半次が所属していた野戦重砲兵第23連隊は昭和19年(1944)10月、本土防衛のため満州から沖縄へ転戦します。
400通もの便りを送ってきた半次でしたが、沖縄から届いたのはわずか3通。自ら描いた絵手紙ではなく、既製の絵葉書に文字だけを短く記したものでした。 最後に届いた1枚には「オニイチャン オネエチャント ナカヨクスルノデスヨ サヨーナラ」とあります。一方で 「コノツギワ ナンノエヲオクリマショウカネ」とも書いています。次の便りも送るつもりだったのでしょう。
しかし昭和19年(1944)11月25日の日付が書かれたこの葉書を最後に、家族への便りは届くことはありませんでした。
祖父は、私の父(次男允博)が誕生した年に戦争に行きましたので、父には父親(半次)の記憶はほとんどありませんでした。当然その息子である私が祖父のことを知る機会はなく、祖父というより、現在の私の年齢よりふたまわり近く若い27歳で愛する家族を残し戦地へ向かい、過酷な沖縄戦で無念の最期を遂げた1人の青年といったイメージのほうが強く、その無念さを思うと胸が締めつけられます。
祖母(禮子)から半次の書簡を受け継ぎ平成25年(2013)9月に他界した父は、この書簡が平和を伝える貴重なメッセージとして生き続けることを願いつつ私に託しました。
父が他界したその年から、沖縄からの手紙3通と軍歴資料の情報などで、祖父の足跡をたどる旅がはじまりました。
死没者原簿に記された「沖縄本島小渡」は、現在の沖縄の住所には存在しない地名でしたが、その地には祖父が所属した部隊慰霊碑があり、様々な調査、当時を知る人からの証言、生き残り兵が書き残した「野戦重砲兵第23連隊抄史」などから、祖父の足跡にたどりつきました。
FBS福岡放送 目撃者f『防人たちのレクイエム』祖父の足跡をたどったドキュメンタリー
このプロジェクトで実現したいこと
後世に語り継ぐことの難しさと大切さ!
コロナウイルスの拡大によって世の中は一変しましたが、コロナ禍にあっても戦争のない平和な時代に生きていられるのは、国を思い、郷土を守り、日本という国を残して下さった先人達の尊い生命(犠牲)の上にあると感謝し、そして先人が語り継いできた想いを、戦争を知らない世代の今を生きる私たちが、後世へ語り継ぎ、伝え残したい。
死ぬまで戦争は終わらない・・・。
野戦重砲兵第23連隊の中村氏(野重23会 事務局長)が浄土寺(沖縄県糸満市)の先代住職に語った言葉です。
祖父 伊藤半次の足跡をたどったことで、野戦重砲兵第23連隊の終焉地(祖父が戦死した地) に、生き残った戦友や遺族たちが昭和53年(1978)に建立した慰霊碑があり、自分たちが年老いてもなお戦火に散った戦友のことを想い続け、平成6年の50回忌法要まで行い、この回を最後とし浄土寺に野重23会(平成6年に解散、部隊生き残り、遺族などで構成)は、戦死した戦友達の永代供養と慰霊碑の管理含めて寺の住職に全てを託していたということがわかりました。
それから30年近く経過し、慰霊碑を建立した生還者(戦友たち)は亡くなられており、遺族も高齢化、野戦重砲兵第23連隊のように部隊の兵士がほとんど本土の人々で慰霊祭も途絶えてしまっている場合、伝え残していくことが難しい状況です。生還者や遺族が人生をかけて建立した慰霊碑への想い、平和への願いなどを後世にしっかりと伝え残さないといけません。
プロジェクトをやろうと思った理由
2年前、同部隊に所属し戦死した兵士の遺族から、野重23会が書き綴った「野戦重砲兵第23連隊抄史」「野重23会々報」を託されたことにより、満州そして沖縄戦の部隊動向が判明し、さらに戦後に慰霊碑が建てられた経緯など、浄土寺の住職からお聞きすることができました。
今年の終戦記念日(8月15日)、伊藤半次の書簡を全て書き起こし、絵手紙全てをフルカラーで収録、祖父がいた部隊の生き残り兵たちの証言「野戦重砲兵第23連隊抄史」をまとめた「伊藤半次の絵手紙〜戦地から愛のメッセージ〜」を出版(集広舎)しました。
この本で何かできることはないか?
「伊藤半次の絵手紙」の陶板碑や部隊の詳細が分かるような看板などを慰霊碑の地に設置し、慰霊碑を訪れた人が部隊のことを理解できるようにすることで、慰霊碑を建立した戦友会(生き残った戦友)や遺族が込めた想いや願いを後世に伝え残したいと考えました。
この慰霊碑は、建立されてから一度も修繕や改修が行われていないため、老朽化がすすんでいる慰霊碑修繕を菩提寺である浄土寺(糸満市)協力のもとで一緒に行います。
糸満市の野戦重砲兵二十三聯隊の慰霊碑(碑文)
この碑は、太平洋戦争中最も激戦であったと謂われる沖縄戦において本土防衛のため、祖国 日本の勝利と、家族の安泰を念じ、終始果敢に戦って散華した野戦重砲兵二十三聯隊(球三一 〇九)戦 没将兵の霊を祀ったものである。部隊は、旧満州国より転進、沖縄本島各地に展開し、友軍歩兵 部隊の戦闘によく協力、再三に亘り米軍の進出を阻み、軍直轄砲兵としての任務を全うし、この地で玉砕したのである。その遺勲を永遠に称えるとともに、戦友よ、安らかにと願い、ここに関 係者一同相協力して、これを建立した。
昭和五十三年三月十九日 野重二三戦友会・戦没者遺族一同
老朽化した慰霊碑
慰霊碑に向かう手すりが曲がったり、台座の劣化が激しく進んでいます。
語り継ぐ活動
伊藤半次が描き家族に送り続けた「戦地からの絵手紙」を一般に公開し、大刀洗平和記念館、沖縄県平和祈念資料館、福岡市博物館、那覇市歴史博物館などで企画展を開催し、新聞、テレビでもたびたび取り上げていただきました。
【FBS福岡放送「目撃者f」防人たちのレクイエム 令和3年8月放送】
https://www.fbs.co.jp/movie/f/17qkhir5nh7
また、年々戦争を知る人がいなくなる中、「戦地からの絵手紙」「野戦重砲兵23連隊」「戦後を生きた戦友や遺族の願いや想い」などから、「戦争や平和を考えるきっかけを作りたい」 と6年前からはじめた講演会は、福岡県内にとどまらず沖縄、広島、大阪などを含め50回以上を数えます。
講演の噂を聞いた学校、公民館、企業、団体などから「講演を!」との声をいただいても、コロナ禍において中止や無期延期になっている状況です。オンラインなどを取り入れる事で、 全国に広げることもできます。すでに戦争の記憶が風化しつつある中、沖縄戦を戦った一つの部隊を通じた戦後史(伊藤半次の絵手紙)として、「戦火に散った御霊よ安らかなれ」戦争の記憶を忘れず真実を継承、語り継ぐ活動を継続できますよう、皆さまの暖かいご支援ご協力を、何卒お願いいたします。
資金の使い道
・慰霊碑の場所に新たな石碑「伊藤半次の絵手紙の陶板画」を建立し、部隊の詳細が分かるような看板などを設置します。
・昭和53年の建立から一度も行われていない慰霊碑修繕(階段手すり、文字、花立など) をします。
・コロナ禍での講演活動と「伊藤半次の絵手紙」を後世へ保存し残すたための費用にします。
**第1目標**
慰霊碑修繕(階段手すり、文字、花立など)、案内板設置:約30万円
リターンにかかる費用、送料など:約55万円
広報費:約6万円
手数料:約9万円
合計:100万円
**第2目標**
陶板碑設置、慰霊碑修繕(階段手すり、文字、花立など):約55万円
リターンにかかる費用、送料など:約102万円
※リターン残金(もしくはリターン経費オーバー)は、案内板設置などと調整
広報費:約6.8万円
手数料:約16.2万円
合計:180万円
**第3目標**
陶板碑設置、案内板設置、慰霊碑修繕(階段手すり、文字、花立など):約60万円
講演活動費用:約7万円
「伊藤半次の絵手紙」を後世へ保存し残すたための費用:約10万円
※絵手紙の額装、防虫シート対応、保存用金庫
リターンにかかる費用、送料など:約153万円
※リターン残金(もしくはリターン経費オーバー)は、陶板碑、案内板設置などと調整
広報費:約6.6万円
手数料:約23.4万円
合計:260万円
実施スケジュール
・出版:令和3年8月15日(終戦記念日)
・令和3年6月26日〜8月29日 織田廣喜美術館(福岡県嘉麻市)戦地から絵手紙企画展
※コロナの影響により、8月9日から美術館が閉館となり企画展は途中終了
・ オンラインなどを取り入れた「語り継ぐ活動」の再開(令和3年10月から)
・令和3年12月〜令和4年3月 陶板碑企画、浄土寺との実施調整、業者との調整
・陶板碑建立、案内板の設置:令和4年6月※コロナの状況により実施時期変更の可能性あり
最後に
第二次世界大戦における日本の戦死者数は約230万人民間死者数は約80万人(厚生労働省資料など)と言われています。その陰には、それだけ多くの方々の家族や愛する人たちがいたということです。
そして悲しみをこらえ、激動の時代を強く生き抜いてこられました。
今回出版した本は、これまで祖父の足跡をたどる中でわかったこと、祖父が所属した部隊の戦友や遺族が残した資料や証言なども収録することで、当時の様子を鮮明に伝え残しています。
先の大戦では多くの尊い生命が失われ、数えきれないほどの想いがありました。戦争の空しさ・残酷さ、平和の尊さ、家族の絆や周囲への思いやり、感謝の気持ちなど、多くのことを考えるきっかけになり、戦後に生還者や遺族によって建立された慰霊碑への想いを風化させず、後世に伝え残します。
<All-in方式の場合>
本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。
最新の活動報告
もっと見るCF最終日:公民館の人権学習を行いました。
2021/11/20 19:50「小田部公民館(福岡市早良区)」にお招きいただきました‼約40名(30代~70代)の方にご参加いただき、コロナ禍で設定した定員満席です。今年度は3月までに、福岡県内の小学校(平和学習)中学校(修学旅行の事前学習、PTA向け教育学習会)、や市内の公民館など、14箇所で開催予定です。講演会では、戦時中に描かれた「祖父の絵手紙」を実際に見ていただいています。読売新聞西部本社 福岡ふかぼりメディアささっとー 「戦地からの絵手紙」全国どこへでも実際の絵手紙を持参して伺いますので、人権学習や平和学習の外部講師をお探しの場がありましたら、リターン内容を是非ご確認ください。何卒よろしくお願いします。 もっと見る
「もう一つの絵手紙」中国新聞に掲載されました
2021/11/19 23:07残り1日となりました!広島県の谷田さんが80年間保管していた絵手紙を「伊藤半次の絵手紙」に収録し、織田廣喜美術館の企画展でも紹介した絵手紙が中国新聞に取り上げられました。祖父の足跡を訪ね、祖父の絵手紙が繋いだご縁です。祖国に大切な人を残して、戦地で散った一人一人の思い!「伊藤半次の絵手紙」には、そんな想いをつなぐ力があります。後世に陶板碑を残せますよう、皆様のお力をいただきますよう何卒よろしくお願いします。中国新聞 ヒロシマ平和メディアセンター記事「もう一つの絵手紙」 もっと見る
西日本新聞に掲載されました!
2021/11/19 22:54家族愛に満ちた祖父の絵手紙を陶板碑にして、沖縄戦を戦った野戦重砲兵第23連隊の慰霊碑の場所(沖縄県糸満市)へ。※写真:令和3年11月12日 西日本新聞朝刊(第三社会面) もっと見る
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