▼源頼朝と房総のつながり
伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、治承4年(1180)に挙兵したが、8月「相州石橋山の合戦」で平家との戦いに敗れ、同国土肥郷真名鶴岬(現真鶴岬)から小船で安房国へ逃れた。安房国へ逃れた時に頼朝が上陸した地点については、伝承をもとに数か所の地名があげられてきた。なかでも、安房郡鋸南町竜島(りゅうしま)と館山市洲崎は、その代表的な地点として有力視されてきたが、大森金五郎文学博士の研究により、『吾妻鏡』の「武衛相具実平、棹扁舟令着于安房国平北郡猟島給」(頼朝、土肥実平を相具して、扁舟棹さして、安房国猟ヶ島に着かしめ給う)という記載などから、現在の竜島付近が上陸地点として認定された。
安房国に着いた頼朝は、上総介広常(かずさのすけひろつね)など房総の武将の加勢を得て、安房・上総・下総と順次支配下にした。房総で勢力を蓄え態勢を整えた頼朝は、源氏再興を目指し再び平氏討伐にのりだす。そして頼朝は、やがて平氏を倒し鎌倉に幕府を開設して征夷大将軍となった。
日本史上大きな変わり目となる鎌倉時代が誕生するなかで、房総の果たした役割は非常に大きなものがあったのである。海岸には、源頼朝上陸の碑と説明板が建てられており、この場所から眺める夕日は圧巻である。
(千葉県HPより)
▼このプロジェクトで実現したいこと
源頼朝が当時和船でたどった航路を、現代に蘇らせることが目的です。房総半島沖をヨットで航海することで、歴史を体感し、想いを馳せたいと思います。
▼プロジェクトをやろうと思った理由
中世史最大の謎と言われている頼朝の房総渡海は、『平家物語』には洲崎(館山市)とされていますが、『吾妻鏡』では平北郡猟島(鋸南町竜島)とされており、まだ決着がついていません。
しかし、平安時代の後期頃には熱海湾から館山を経由し、千葉の港、更に常陸川(現在の利根川)まで運航していた旅客船(熱海船)が運航していたことが当時の古文書で確認されており、その運航には千葉氏が関っていました。この航路を実際に検証するため真鶴岬から館山湾を経由して千葉港までヨットで実験をする計画を立てています。経費が50万円ほどかかりますが、成功すれば中世史の謎の一つが解明することになります。協力者を募集しています。興味のある方は丸井までご連絡下さい。実験予定のヨットは千葉市内の方の所有で「海羚(かいれい)」と言います。
▼これまでの活動
打倒平氏を掲げて挙兵した源頼朝が「石橋山の戦い」で敗れ、真鶴(まなづる)岬(現・神奈川県真鶴町)から船で南房総に渡った史実を検証しようと、千葉市民の有志が、「頼朝の房総渡海プロジェクト実行委員会」を設立した。頼朝の上陸地には諸説あり、九月二十三~二十四日、真鶴岬から館山市洲崎を経由し千葉港まで、約百二十キロをヨットで航海し、頼朝の渡海ルートを探る。
頼朝は一一八〇(治承四)年八月、石橋山の戦い(現在の神奈川県小田原市)で、大庭景親(おおばかげちか)ら平氏に敗れた。その後、船で真鶴岬を出て南房総の安房国に逃れて再起を図り、鎌倉幕府の開府につなげた。
実行委は今月八日に発足。メンバーは八人で、安田教育振興会理事長の安田敬一さん(86)=千葉市中央区=が委員長、元千葉市立郷土博物館館長の丸井敬司さん(69)=同=が事務局長に就いた。
頼朝が海を渡ったとされる時期に近い九月二十三日を出発の日とし、丸井さんらが、頼朝が通った可能性がある真鶴岬-館山市洲崎の約六十キロをヨットで航海。翌二十四日は、洲崎から、頼朝が上陸した可能性がある場所に近い鋸南町の保田港に寄りながら、千葉港(千葉市)まで航行する。
今月八日に千葉市中央区で開かれた設立大会で、安田さんは「頼朝は千葉氏と接点があり、房総に逃れてきたことはあまり知られておらず、渡海ルートを調べることは歴史的な意味がある」と話した。
頼朝は房総に上陸後、家臣の三浦氏と合流。千葉氏の千葉常胤(つねたね)らの支援も受けたとされる。丸井さんは「渡海経験のない頼朝が、安房の海岸に正確に到着できたことは大きな謎。検証したい」と話している。
※東京新聞記事より抜粋
▼資金の使い道
500.000円
ヨットの航海費用に使用します
※実際に使用するヨットです
▼リターンについて
今回のプロジェクトでは、源頼朝が辿ったとされる航路を実際に航海いたします。ここに乗船するメンバーからのお礼のメッセージをお届けいたします。
また、千葉県の名産である落花生を使用したピーナッツバターもリターンに追加しています。
▼最後に
9/23.24に史実検証を行います。クラウドファンディングの終了は9月末ですので、プロジェクト実行中に航海の報告ができると思います。ぜひ史実を検証するひとりとして応援していただけますようよろしくお願いいたします。
「頼朝の房総渡海プロジェクト実行委員会」
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