2023/12/18 06:07
この文章は、完成版公演のご報告の追記です。

フランシス・ケレとの出会いのきっかけは、ベルリン在住の女性建築家フロレンティン・サックに誘われてあるエキシビションのオープニングパーティーに行ったことでした。彼女の交遊関係にはやはり建築家が多いのですが、彼女の話に出てくる人物のなかに、どうしても会ってみたい人がいました。その人は、とある映画(Der vermessene Mensch、 英語タイトル The Measures of Men)の撮影のために5ヶ月ナミビアに行っていました。ドイツがナミビアを植民地支配していた時代に行ったジェノサイドのシーンを撮影するために、当時さながらの村を建造して、破壊するという話でした。撮影とはいえ、現地の人々の憎しみが新たに甦って大変な目に遭ったりしないのだろうか?なかなか大変な仕事だろうと想像していました。
2022年9月にベルリンからブルキナファソへ戻る直前に、ふとその人-ゼバスティアン・スクプに会うチャンスが訪れました。フロレンティンと韓国料理屋で夕食を摂っているときに電話があり、これから二人とも自分のアパートに来ないかと誘われたのです。その夜、ナミビアでの仕事はヒンバ族の魅力的な女性たちがこぞって手伝ってくれたという話を聞きながら、ゼバスティアンの日本人の友人ヒロキさんが次々と手際よく出してくれる日本風の酒の肴に舌鼓を打つ、贅沢な時間を過ごしました。
ゼバスティアンがその夜の記念にくれた大判の写真に映るヒンバ族の女性たちの美しさは際立っていて、彼女らは一生水浴をせず、火を炊いて煙で身体を浄めるという話に、これぞ文化の多様性だと心打たれました。
ブルキナファソへ戻った私に、しばらくしてゼバスティアンからメールが届き、その年の暮れに日本へ旅行する際に一級の茶室を見たいんだけれど、どうしたら見られるかと相談がありました(彼は茶道を嗜むのです)。そこで、その時期に特別公開されている茶室の情報を提供しました。
2度目に彼に会ったのは2023年1月の半ば、ベルリンのシュタイナーハウスで私の室内オペラ「A Vermilion Calm」を上演したときでした。私はブルキナファソから三週間の予定で戻ってきていましたが、敗血症で入院してしまい、病院の外出許可を取って観に行きました。ゼバスティアンも日本で骨折してしまい、旅行を早めに切り上げて帰って来たそうで、車椅子生活だったにも関わらず公演を観に来てくれて、感激でした。
5月に再び二週間ほどベルリンを訪れたとき、ある夕方数人のゲストと共にディナーに招いてくれました。その時に私はブルキナファソでのオペラ公演の話をしたのだと思いますが、9月に入って、彼から思いがけないメールを受けとりました。なんと、ヒロキさんと共に私のオペラ公演を観るために、わざわざワガドゥグへ来るというのです!
ブルキナファソはテロが多発しており、渡航は推奨されておらず、ベルリンからの距離も決して近いとはいえません。しかも私のオペラは演出も舞台美術もほとんど私が手掛けている、極めて低予算の、手作りプロダクションですので、ケルン大学で舞台美術を教えているゼバスティアンのような人がわざわざ飛行機代を払ってまで観に来ると聞いて、嬉しい反面、正直にいうと、かなりたじろぎました。
彼らのビザ取得のための招聘状や宿泊場所の確保などを手伝いながら、彼らは単にオペラを見に来るのではなく、公演の最終準備を手伝ってくれようとしているのだと理解しました。
ところが、いよいよ彼らがベルリンを出発する一週間前になって、エアフランスが欠航を決めたという連絡が転送されてきました。これには全く驚きました。エアフランスは8月の前半からワガドゥグへの運行を中止しており(それはニジェールで7月26日に起こったクーデターの影響で、ブルキナファソの現政権がはっきりと、クーデターを起こした側を支持すると表明し、マクロン政権にNo!を突きつけたからです)、再開の前兆は何もなかったのにも関わらず、この区間の航空券を売り続けていたとは!ゼバスティアンたちはきっと旅行を取り止めるだろうと想像しましたが、さにあらず。即座にトルコ航空のフライトを予約して、公演の4日前にワガドゥグに到着しました。
それより一日早く到着していた、私がベルリンから招いたトーンマイスター(音響技師と録音プロデューサーを兼ねた職責です)の二人は、泊まる予定だった家が直前に漏電火事になりかけて修理も怪しかったので、急遽、ゼバスティアンたちの借りた家に同居させてもらうことになりました。同じベルリンから来たとはいえ、面識のなかった二人組同士がワガドゥグで突如一週間のシェアハウス状態になったわけです。

公演2日前から会場での総合リハーサルが始まりました。音響機器の配置、背景のビデオ映像をスクリーンに映し出し照明を合わせていく作業などのすべてが完了してようやくオペラ全体を通して演奏してみることができるわけですが、たった二日間の総合リハーサルですから、できる限り有効に時間を使い、不安材料をひとつでも多く解消していきたいのが私の心情です。初日の総合リハーサルは様々な準備とチェックのため、演奏家たちにとっては待ち時間が多いものです。とはいえ、その間に自分自身の楽器、衣装のチェック、初めての本舞台での動きの感覚のチェック、歌詞や台詞の練習など、いくらでもやることはあるはずなのですが、とりとめのない冗談話をしたり、オペラとは無関係の音楽を遊び半分に演奏したり、延々とそうやって時間を潰すバンドメンバーの姿に私はイライラしました。が、自分にはありとあらゆる仕事が引き続いてあるので、それを注意しに行く余裕すらありませんでした。いざ、通しが始まってみると、必要な小道具が手元に揃っていなかったり、衣装の替えにてこずったり、小道具の置場所を間違えたり、ミスの続出で私は爆発寸前になりました。一方、ホールのスタッフも「明日やれることを今日するな」という悪い冗談のような言い草を地で行く、ブルキナファソ人にありがちな対応で、それを制するにはこちらも強い態度が必要でした。そんなこんなでやり残したことはたくさんあるままに、21時過ぎに初日のリハーサルを終了せざるを得ませんでしたが、バンドのイブラヒムが「明日は何時集合?」とあっけらかんと聞いてきた瞬間に堪忍袋の緒が切れました。と同時に、ゼバスティアンたちはおろか、トーンマイスターたちと顔を合わせる勇気もないくらい、私は打ちのめされていました。4年をかけて取り組んできたプロジェクトの出来がこんなにもお粗末なもので、それをわざわざベルリンから手伝いに来てくれた人々の目に晒したことが、なんとも申し訳なく、恥ずかしく、悔しく、やるせない思いで押し潰されんばかりだったのです。
しかしこの時、マブドゥの関心は全く別のところにありました。彼はゼバスティアンたちが宿に戻るための車が検問になるべくかからない道を指示しようと躍起になっていて、それにも関わらず、すでに出発していた車の行方を見失ってしまっていたのです。私はバンドを臨時召集して、重大な話があるから、とあるレストランで私とマブドゥを待つようにと言い、そのミーティングで何をどう話すべきかだけを考えていました。

この夜の苦しさは忘れることができません。突然降って湧いた苦しみではなく、何ヵ月もの間懸念していたことが、ついに恐ろしい現実となって目の前に現れた感じでした。「このままでは公演を中止、または延期するしかない」と私は彼らに告げました。中止や延期のあらゆるリスクを考えても、無様な公演を敢行するよりはましである、と。マブドゥと私の、数ヵ月にわたる雑用にまみれた日々。それをほとんど手伝うことも、理解することも、知ろうとすることすらなかった他のバンドメンバーに対して、抑えていた怒りが込み上げました。マブドゥがなんでも自分(と私)で背負い込もうとする性格だというためもあったのでしょうが、それにしても、今日の半日だけを見ても、あまりにも受け身で、自覚に欠け、プロフェッショナル意識の欠片もないと、私はモレ語、フランス語、英語のまぜこぜで彼らの態度を非難しました。内容がどれ程正確に伝わったかは定かではありません。ただ、私が限りなく落胆していること、本当に公演を延期しかねないということは全員がはっきりと感じたはずです。明朝9時にホールに集合して、問題箇所を逐一チェックしていくというブレイマの提案で、その夜は解散しましたが、心はとても重く、もし公演を延期したり中止したりしたら、どうなるだろうかという想像がぼんやりと頭をよぎっていました。

翌日9時前にバンドメンバー全員がホールに来ており、緊張感溢れるダメ出しが行われました。夕方からゲネプロに加わった合唱団は、理解不足、練習不足で予想を上回る混乱を引き起こしましたが、バンドはそれをしっかりフォローしてあまりある仕上がりを見せてくれたので、救われました。「雨降って地固まる」と言われるように、前夜のミーティングの結果、気が引き締まって底力を見せてくれたようです。
賛助出演してくれていた私の次男(彼は4月からブルキナファソに滞在し、狙撃手の役でオペラに出ていました) に後から聞いた話では、初日のゲネプロの後も、ヒロキさんはオペラ全体に対してとても好印象を持ってくれていたようで、彼らを落胆させたと思ったのは私の杞憂だったのかもしれません。ヒロキさんはブルキナファソに来る前に、ナミビアからドイツに来ていたオペラのプロダクションをベルリンで観たそうで、それが、ただひたすらにヨーロッパのオペラの形式を踏襲しただけのものだったと、少し不満だったようです。その意味で彼は、私たちのオペラの、西アフリカの伝統的要素をたっぷり含んだ型破りな挑戦を評価してくれたのかもしれません。ゼバスティアンとヒロキさんはゲネプロから本番に至る様子を撮影し、各出演者にインタビューを行いました。彼らの目で見たこれらの状況を、もしかしたら後にドキュメンタリーに仕上げてくれるかもしれません。
本番当日の、子どものための公演と一般公演の間の3時間に、黙々とステージを掃除するゼバスティアンの姿がありました。それは彼が日本の精神として学び、実践した行動なのです。
一般公演終了直後、ゼバスティアンは出演者全員に小綺麗に包んだ小さな贈り物を手渡して、みんなの苦労をねぎらいました。中身はそれぞれに異なっていましたが、全て日本で買ってきた美しい品物で、小さな扇子、お茶、キーホールダーなどでした。
ブルキナファソ/日本のプロジェクトで思いがけなくもドイツ人が見せてくれた「和の心・もてなし」は、3日間のドタバタ劇の葛藤と興奮を、清涼な息吹で鎮めてくれました。
ありがとう、ゼバスティアンとヒロキさん!