2020年 ミャンマーコロナ禍の暮らしオミクロン株の感染拡大が止まりませんね。新型コロナウイルスが武漢で始まった頃、私はヤンゴンに住んでいました。ミャンマーでは、日本よりもかなり厳しいコロナ規制が敷かれていて、お店に入店する時、そして家に帰ってくる度、エントランスで検温され、熱があると、大人子ども関係なく、本人が一人で、そのまま隔離施設に連れていかれてしまう、という状況がありました。隔離施設は外国人には少し厳しい環境ですし、ミャンマー語が話せない私にとっては、毎日が恐怖でした。大きな犬が最初は怖くて歩けませんでしたただコロナ以前に、ミャンマーでは日常の中で死が身近です。蚊に刺されてデング熱になることもありますし、電線が切れているのを知らずに水たまりを踏んで、感電死することもあります。たくさんの野犬がいるので、狂犬病も怖かったです。ヤンゴンには800万人が住んでいるのに、人工呼吸器が5台しかないと聞いた時は、驚きました。仮に交通事故にあったとしても、ミャンマーでは先進国のような医療が受けられないにも関わらず、コロナ禍では他国に出国できない状況でした。それまでは怪我や病気をしたら、日本に帰るか、タイやシンガポールに出国すれば大丈夫だと思っていたので、コロナで世界が出入国規制されることで、医療が脆弱な国に住むリスクを改めて感じました。その頃、既にミャンマーの公教育はストップしていました。日本では考えられないほど、街に人がいませんでした。クーデターが起きた日でも選挙の日だけは、たくさんの人が外出し、投票に参加していて、正直驚きました。国民の多くが、新しい時代を待ち望んでいるんだ、そして当然それが実現するだろう、という期待感がありました。1月の終わりに、もしかしたらクーデターが起きるかもしれないという噂があり、「外出に気をつけるように」と連絡がありました。でもミャンマー人も日本人も、まさか起きないだろうとあまり気にしていませんでした。その頃は1000人いたコロナ感染者が数人レベルになっていて、2月から学校も経済も再開するだろうと、ものすごい期待感で、4月にはいい新年が迎えられると思っていました。そして数日後の2月1日、クーデターが起きました。たった1日で全てが変わっていく。そういうことが実際に起こるということを私は知りました。既にコロナ禍で一年間引きこもり生活をしていた私にとって、外出ができないこと、卒業式が対面でできないことは感情が昂ることではなくて、もはや受け入れるしか無いことでした。それに対して「悲しい」とか「苦しい」といった感情はありませんでした。コロナ禍では、兄が「これくらいで騒いでたら宇宙飛行士にはなれないよ」と言っていたくらい、隔絶された生活をしていました。(時には様子を見て買い物にも行くし、お散歩したりもしますが、日本では考えられないような自粛生活でした。)そういう状況下でクーデターが起こった時、今まで街には人が全くいなかったのに、みんなデモ抗議のために集まっていて、コロナのために自粛できても、民主主義に対して自粛することはできないんだと思うと、人々のエネルギーを感じました。あのタイミングでクーデターが起きたことで、コロナで亡くなる方が相当増えたと思います。そして、日本に帰国帰国した日のミャンマー国際空港日本への帰国便が決まったのは帰国前日でした。私自身は高校入学を控えているので、3月中の飛行機に乗りたいと思っていました。2月後半から次第に弾圧が激しくなり、兄のインター卒業まで2ヶ月、最終試験の真っ最中であるにもかかわらず、前日に兄弟と母も帰国を決めました。まだ全ての荷物がミャンマーにあります。弟の友達も、別れを惜しむ暇もない状況でそれぞれの国に避難していきました。最初はオンライン授業を受けていましたが、ミャンマーに帰れる見込みもなく、日本の中学に編入しました。帰国が決まっていた私と違い、大切なサッカーボールも、それまでの生活全てを置いたまま、日本で暮らし始めました。喪失感という意味では、弟が一番大きいかもしれません。日本に帰ってきたら、道も綺麗で、マンホールが空いていない。至る所に病院があり、スーパーマーケットには常に物が豊富にあり、別世界みたいでした。コロナ禍でも、飲食店は開いてるし普通に暮らしています。こんなに医療が進んでいるのに、ベット数が足りなかったり、自宅療養中に亡くなる人がいる状況が、当初理解できませんでした。ミャンマーでは、コロナに罹った人のために酸素ボンベを運んでいる人が国軍に殺されたり、医療従事者が暴行されたりしていたからです。終了まであと8日ですクラファン終了まであと8日となりましたが、そのために私は何をしたらいいのか、どうしたらいいのか、正直わからないままに、今日も活動報告を書いています。クーデターが起きてからもうすぐ一年。皆さんの一年間を一緒に振り返りたいと思います。(野中優那)