はじめまして。「南京日本文化交流センター」創立者の馬 舒適(MA Shushi)と申します。1991年中国武漢出身の30歳です(巷を賑わせているあの武漢です...)。現在は自称「世界一、日本のことが好きな外国人」です。
でも、実は10年前の2012年まで、中国の反日環境の影響で、私は日本のことが嫌いでした。2012年、私の人生を大きく変えた親友と出会いました。当時大学三年生の私は、上海の隣の蘇州という町で一人旅をした時に、日本に留学しようとしている夏さんと出会い、彼のおかげで、私はだんだん日本のことに興味を持つようになり、そこから私の人生が大きく変わりました。
2013年に中国の大学を卒業して以来、私はいろいろな経験をしてきました。そして、たくさんの日本人の方と出会い、彼らの人への思いやりや優しさに魅了され、日本のことが大好きになりました。4年前の2018年2月、日本の良さをより多くの中国人に伝えるために、夏さんと一緒に「南京日本文化交流センター」を作ることにしました。
南京と聞くと、「あの南京?日本のこと嫌いなんじゃないの?」と思われる方はきっといらっしゃると思います。ですが、南京の若者も含め、今の中国の若者は、海外旅行やインターネットを通じて、日本のことに興味を持っている人もたくさんいます(もちろん日本に興味がない、または、嫌いという人も多いですが)。ただ、歴史が影響しているかは分かりませんが、南京は経済規模(中国都市別GDPランキングベスト10)の割に日本人がとても少なく、日本のことを知りたい南京の若者は、ほとんどインターネットでしか日本を知る機会がありません。
南京での日中民間交流が少ないのが現実的な社会課題だと私たちは認識しています。そんな中、少しでも日中民間交流に役に立つように、私たちは南京出身ではないにもかかわらず、あえて一番特別な南京に来て、日本文化交流センターを立ち上げました。
この四年間、私たちは数十回も中国の若者と日本人を交流させる日本文化交流イベントを行い、何百人の学生に日本語を教えてきました。ある学生は、この時のイベントをきっかけに日本に留学し、今は慶応義塾大学で研究を続けており、また、ある学生は、中国の日系企業で仕事をしていたりと、多くの学生に影響を与えてきました。現在15万人の海外留学生が日本への入国を待っていると言われていますが、その15万人のなかに交流センターの学生もいます。 数多くの中国の若者と出会って、彼らの成長と変化を見てきて、本当に感無量です。
日本に対する理解や愛情が深まる彼らの姿を見て、よく昔の自分を思い出します。将来、彼らが中国社会の中心となり、その中国社会の中核を担う彼らが日本を好きでいたら、きっと日本の良いパートナーとなると私は信じています。
しかし、2020年からコロナが流行し始め、ご存知かと思いますが、中国の行動制限はとても厳しいです。町の中に一人だけの感染者が出ても、ロックダウンに近い厳しい措置が取られることになり得ます。今年の3月中旬、オミクロン株の影響が中国各地に拡大し、南京にも数十人くらいの感染者が出たため、博物館、美術館などの営業や学校などの対面授業、イベントがほとんど中止せざるを得なくなってしまいました。実際に閉鎖されているエリアも少なくありません。
この2年間こういった繰り返しの行動制限の影響で、交流センターの運営はとても厳しい状態に陥ってしまいました。スタッフの人件費、オフィスの家賃、教材費、運営雑費、広告宣伝費など、資金面の困難(500万円以上の赤字)はすでに私たちの限界を超えています。この小さくてあたたかい交流センターを守るために、もっとたくさんの中国人に日本の良さを伝えるために、クラウドファンディングを始めることにしました。
私たちは心より日本のことが好きで、外国人特有の視点で感じた日本の良さをもっとたくさんの中国人に伝えたいです。日本文化や日本語の魅力を発信しているこの交流センター&日本語学校を守るために、心優しい日本人の皆さまのご支援・ご拡散がとても必要です。
長文となり申し訳ございませんが、最後までお読みいただけると、とても心温まります。
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目次
①南京日本文化交流センターとは?
(現:樹枝日本語・異文化交流センター)
②資金の使い道
③リターンについて
④メインメンバーの紹介
⑤日本人ボランティアの紹介
⑥これまでに行った交流イベント
⑦日本語教育の実践
⑧最後に
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日本を愛する中国の若者が作った「南京日本文化交流センター」
「南京日本文化交流センター」(以下:交流センター)は2018年に、私と夏さんが中国江蘇省南京市に立ち上げた日本文化交流&日本語教育機関です。「南京日本文化交流センター」という名称に「日本」という国名が入っているため、中国の法律制限が理由で、2021年に南京当地の行政側に指示され、「樹枝日本語・異文化交流センター」という名称に変更せざるを得ませんでした。
交流センターの運営仕組みについて紹介したいと思います。「こだわりのある文化交流実践者」として、私たちは多くの日本文化、日本語好きの人々に文化交流、日本語教育、留学指導などのサービスを提供しています。日本語教育と留学指導事業によって収入を得て運営を維持し、収入の一部を使って日本文化交流イベントを開催する、という仕組みです。ほとんどの交流イベントは無料で、誰でも参加できるようにしています。イベントを開催することによって、より多くの中国人に日本文化の魅力と日本語の美しさを発信することができ、より多くの若者が日本のことを好きになってほしい、というのが私たちの考えです。現在、夏さんは中国南京で交流センターを運営し、私は日本東京で古い建物の再生に関する仕事に携わっています。
「ここから、日本へ繋ごう」というコンセプト
私たちにとって、交流センターは日本の文化を体験できる、日本語が学べる場所だけではなく、人と人の心を結びつける架け橋のような存在です。中国の反日環境の影響で、かつての私のような日本のことが主観的に好きではない若者が中国にたくさんいます。日本人との交流や日本文化の体験、日本語の勉強を通じて、日本の良さを知ってほしい、一人でも多くの中国の若者に中国以外の世界を知ってほしい、人生の新たな可能性を感じてほしい、という思いから、「ここから、日本へ繋ごう」というコンセプトを設定しました。
※交流センターホームページ:https://www.jcec-nanjing.com
現在、日本はコロナの感染状況がだいぶ落ち着いてきましたが、中国は「ゼロコロナ政策」で、行動制限はまだとても厳しいです。コロナの長期化による行動制限の影響で、交流センターは存続危機に陥ってしまい、すでに500万円以上の赤字を抱えてしまいました。頂いたご支援はリターンにかかる費用以外に、すべて交流センターの運営を維持するために使う予定です。
目標金額:
2,000,000円
使い道:
ア、交流センター運営費用(約2ヶ月分):約40万円
イ、 交流センター人件費(約2ヶ月分):約55万円
ウ、 2つのキャンパスの賃料(約2ヶ月分):約55万円
(交通の便がいい大行宮教室と、学生・留学生に通いやすい大学町にある仙林教室)
エ、 リターンにかかる費用・国際配送料:約30万円
カ、手数料:約20万円
※ご支援が200万円を越えた場合、交流センターの運営資金に充当させていただく予定です。
ささやかながらリターンの一例としまして、 以下のようなお返しをご準備させていただきました。
・交流センターホームページにお名前を掲載
・お礼のメッセージ
・「世界一日本が好きな外国人」馬よりお礼のビデオ
・交流センターオリジナルキーホルダー
・交流センター オリジナルA4クリアファイル
・南京観光地ポストカードセット(12枚)
・代表の馬がデザインしたオリジナルトートバッグ
・代表の馬がデザインしたオリジナルTシャツ
・代表の馬と夏とZOOMで単独対談(2時間)
・代表の馬と対面食事(東京限定)
・オンライン交流会(交流センター学生、日本人ボランティアの湯ノ口さんと飯塚さん、馬、夏などが参加予定)
・交流センター現地日本語授業見学
・交流センター現地交流イベント
・南京現地案内(二泊三日、現地集合・現地解散/ただし現地宿泊費・中国往復の交通費除)
※詳細はリターン紹介ページをご覧ください。
※ほかにもたくさん優秀な中国人メンバーがいましたが、ここでは割愛します。
有馬さんと中原さんからのメッセージ
ほかにも日本から交換留学中のたくさんの日本人留学生に協力していただき、彼らのおかげで、多彩な交流イベントが開催できました。彼らに心より感謝しています。
2018年2月に交流センターを設立以来、私たちは多彩な文化交流イベントを行ってきました。全部紹介するととても長くなってしまうので、そのなかの一部だけを紹介したいと思います。
2018年6月 南京大学日本語サークルとコラボ交流センターは初めて中国の大学生団体と連携し、大学の中で交流イベントを行いました。日本人留学生ボランティアの湯ノ口さんとりささんに協力してもらい、中国の大学生に日本の食文化を紹介しました。日本人留学生の2人は日本語サークルのメンバーと一緒にゲームをしたり、たこ焼きや巻き寿司を作ったりしました。イベントを通じて初めて日本人と話すことができた大学生も数人いました。
※Wechat掲載URL「南京大学日本語サークルとコラボ」(中国語)
2018年10月 五つの国の人が交流センターで日本文化体験日本、アメリカ、チリ、韓国、中国の五つの国の若者が交流センターに集まり、「浴衣」と「生け花」を体験しました。その後、「だるま落とし」と「たこ焼き」も体験ができました。小さな交流センターに日本語、英語、中国語3つの言葉が飛び交い、国境を越えた友情が生まれました。異国の違う文化に触れることができ、参加者の皆さんはとても満足した顔を見せてくれました。
※Wechat掲載URL「五つの国の人が交流センターで日本文化体験」(中国語)
2018年12月 日本語能力試験応援活動毎年恒例の日本語能力試験は、日本語学習者にとって一大イベントです。私たちは事前に南京市内から応援ボランティアを募集し、12月の試験の日に、南京の各試験場で受験生の皆さんに応援メッセージを送ったり、応援グッズを配ったりしました。
※Wechat掲載URL「日本語能力試験応援活動」(中国語)
2019年3月 初めて南京在住日本人へのインタビュー
交流センターでは、南京にいらっしゃる日本人にインタビューをし、それをWechatで発信する取り組みも行っています。初めての取材対象は、南京郵電大学の日本人教師―小椋学先生でした。小椋先生は日本の大学院を卒業した後、日本で就職しましたが、その後退職し、韓国へ留学に行きました。韓国での留学が終わった後、中国の北京語言大学にも留学に行きました。留学を終え、南京郵電大学で日本語教師として勤めることになりました。南京に来てから、《私が勧める南京の観光地》という本を中国人の学生たちと一緒に作りました。南京に来た経緯や南京の観光地を紹介する本を作った理由などについて詳しくお話を伺うことができました。
※Wechat掲載URL南京郵電大学小椋先生インタビュー(日本語・中国語)
※第二回「忘れられない中国滞在エピソード」応募作品『南京で広がる交流の輪』(日本語・中国語)
※東京新聞『南京で日中交流体験を』(日本語・中国語)
※その他のインタビュー(日本語・中国語)
玉城ちはるさん(シンガーソングライター、ホストマザー)
小橋智大さん(厦門日中交流会館共同創立者、日本語教師)
中原靖智さん・有馬斉佳さん(南京大学交換留学生※当時)
2019年3月 「江蘇・福岡友好桜花園」でお花見会
南京市内にある福岡県と江蘇省の友好のシンボルである「江蘇・福岡友好桜花園」で初めてのお花見会を行いました。さくら公園には、日本の寄付によって植えられた桜の木がたくさんあります。日本人ボランティアの中原さん、有馬さん、松川さんなどたくさんの留学生も参加してくれて、中国人の若者たちと一緒にお花見をしながら、楽しい時間を過ごしました。日本人留学生たちは日本人の桜への思いや桜に関する歌をたくさん紹介してくれました。
※Wechat掲載URL「江蘇・福岡友好桜花園」でお花見会(中国語)
2019年4月 「友有り、遠方より来たる」特別イベント
2018年に大変協力していただいた湯ノ口さんは留学を終え、鹿児島県上海事務所の副所長に就任しました。2019年4月に、湯ノ口さんは上海の日本人の友人を招き、交流センターへ交流会に参加に来てくれました。日本人の方々に中国の文化を体験してもらうために、特別イベントとして、餃子作り会を開催しました。私たちにとって、まさに「友有り、遠方より来たる」だから、とても楽しかったです。
※Wechat掲載URL「友有り、遠方より来たる」(中国語)
2019年4月~6月 「2019年日中青少年交流推進年」日本外務省認定行事「南京市の各大学における日本文化交流会」
2019年4月から6月にかけて、当時南京大学交換留学中の中原さんと有馬さんの協力を得て、「2019年日中青少年交流推進年」行事として日本外務省に認定された「南京市の各大学における日本文化交流会」を7つの学校(南京財経大学、南京師範大学、南京大学、南京農業大学、南京郵電大学、南京工業職業技術学院、南京林業大学)で行いました。慶応義塾大学からの中原さんは毎回三味線を弾いてくれました。明治大学からの有馬さんは日本の学生生活と中国の学生生活の比較などについて紹介してくれました。参加者は日本文化や日本語に興味の持っている大学生であり、皆さんはイベントを通じて日本人との交流ができて、笑顔でいっぱいでした。
※日本外務省サイト掲載:日中青少年交流推進年認定行事「南京市の各大学における日本文化交流会」
※Wechat掲載:日中青少年交流推進年認定行事「南京市の各大学における日本文化交流会」(中国語)
2019年8月 はじめての「日本留学説明会」
当時日本中央情報専門学校日本語本科学科長の神恵介先生が南京にお越しくださり、日本の留学事情を交流センターの学生たちに詳しく説明してくれました。日本へ留学するにあたって、必要な語学力、資金をはじめ、日本でのアルバイト事情、日本語学校のカリキュラムや年間行事、就職活動などを紹介してくれました。日本留学を検討している日本語学習者にとって、貴重なリアルの情報を得ることができ、とても参考になりました。
※Wechat掲載URL「日本留学説明会」(中国語)
※神先生インタビューURL(日本語・中国語)
2019年10月 日本書道体験イベント
書道体験イベントには飯塚さん、白井さん、時沢さん、吹戸さん四人のボランティアが参加してくれました。四人は一人ずつ「私と書道」をテーマとした発表を行い、その後中国人の若者たちと一緒に実際に書道をしました。初めて書道を体験した若者もいました。最後は「理想の人生」や「忘れられない旅行」などをテーマとしたディスカッションを行いました。しゃべりながら書を書き、皆さんのあいだの距離は自然に縮まりました。
※Wechat掲載「日本書道体験イベント」URL(中国語)
2020年に入り、中国国内でコロナが流行し始め、国民の行動が厳しく制限されるようになったため、交流センターの対面イベントはほとんど中止になってしまいました。年末、ようやく対面イベントが少しできるような雰囲気になったので、12月に、2020年の最初であり、最後でもある対面イベントを開催しました。
2020年12月 2020年唯一の対面交流イベント
年末に近づき、交流センターにクリスマスの雰囲気が溢れていました。中国の日本語学習者の中でとても人気のラジオ番組「中村Radio」の創立者―中村先生と南京郵電大学の日本語教師小椋先生を招き、2020年唯一の対面交流会を行いました。とても寒かったですが、6歳のお子さんを含めて参加者の皆さんの心はきっととても温まったでしょう。ちなみに、中村先生は「長沙日中文化交流会館」の館長でもあり、日中の民間交流に力を入れています。
※交流センターホームページ掲載(中国語)
※中村先生インタビューURL(日本語・中国語)
2021年に入り、国民たちの生活が元に戻りつつではありますが、中国の「ゼロコロナ」政策によって行動制限がまだ繰り返されているため、私たちはそういった厳しい制限の隙間で一生懸命対面交流イベントを行ってきました。しかし、日本への入国制限や中国国内のコロナ政策などの影響で、日本語授業の受講者がどんどん減ってしまい、交流センターの運営がとても厳しい状況に陥っていました。
2021年3月 春が来た「お花見」イベント
2021年の「お花見」会は「江蘇・福岡友好桜花園」ではなく、南京市内の「玄武湖」という湖沿いで行いました。交流センターは参加者の皆さんにプレゼントを用意し、皆さんと一緒に穏やかな時間を過ごしました。参加者の一人がバイオリンを弾いてくれました。今回は南京郵電大学の小椋先生と交流センターの新しいメンバー王国さんも参加してくれました。コロナの暗い雰囲気の中、日差しの良い湖の隣でお花見をし、皆さんに少しでも明るくなってほしいというのが私たちの考えでした。
※交流センターホームページ掲載URL「お花見」(中国語)
※Wechat掲載URL「お花見」(中国語)
2021年5月 「団扇に絵を描く」イベント
日本古来からの団扇絵は中国でとても人気を集めています。交流センターは団扇と絵具を用意し、「団扇に絵を描く」イベントを行いました。交流センターのスタッフはまず団扇の歴史や用途、機能などを紹介し、その後、夏の風物詩などについて紹介しました。最後は参加者の皆さんそれぞれ自分の団扇と向き合い、自由に絵を描いてもらいました。まるで芸術作品のような団扇がどんどん出来上がってきました。
※交流センターホームページ掲載URL「団扇に絵を描く」(中国語)
※Wechat掲載URL「団扇に絵を描く」(中国語)
2021年7月 はじめての「茶道体験」
2021年の数の少ないイベントのなかの1つは茶道体験イベントです。日本の抹茶などの文化は中国でもとても人気ですが、実際にお茶を作る機会はなかなかありません。茶道の体験を通じて、参加者の皆さんは茶道の「和敬清寂」という心得に触れることができ、日本文化に対する理解がさらに深まりました。
※交流センターホームページ掲載URL「茶道体験イベント」(中国語)
※Wechat掲載URL「茶道体験イベント」(中国語)
その他:大学の学園祭に参加
以上は私たちが行ってきた交流イベントのほんの一部ですが、このように私たちは中国の若者に日本の文化を体験してもらい、日本人と交流してもらい、さらに日本語を学んでもらい、彼らの心に日本の良さ、日本文化の魅力を焼き付けてきました。
外国人の立場で大変恐縮ですが、交流センターの事務スタッフも含む、ほぼ全員が日本語学習の経験者です(そのなか、実は私の日本語学習歴が一番短いです...)。私たちの経験から日本語の勉強法をさらに練り、学生たちにわかりやすく教えるように実践しています。そして、中国人の教員だけではなく、日本人の非常勤講師も招き、学生たちに日本語を教えてきました。日本語教育の実践のなかで、私たちが最も大切にしていることを紹介したいと思います。
中国で出版されている日本語の教科書はほとんど白黒で、色彩がないのが現状です。私が北海道東川町で初級日本語を学んだ時に使った日本の教科書は、フルカラーで、絵も内容もとても面白かったです。その時に、もし中国の日本語学習者もこんな素晴らしい教科書を使えたらいいなと思いました。交流センターを立ち上げた後、実際に日本からその教科書を購入し、交流センターの学生たちに使ってもらいました。学生たちから高い評判を聞き、とても嬉しかったです。中国で日本の教科書をそのまま使用している日本語教育機関は、おそらく私たちだけではないかと思います。
中国のほとんどの日本語学校には日本人教師がいないのが現実です。しかも、日本語を教えている教師の中で、日本への留学経験のない教師が圧倒的に多いようです。日本へ旅行さえ行ったことのない若い教師も少なくありません。もちろんこの教師方の中にも素晴らしい方がたくさんいらっしゃると思いますが、やはり日本現地で生活したことのある教師のほうが、日本の良さと魅力をよりリアルに学生たちに伝えられるかと思います。ですので、私たちが日本語教師を採用する際に、極力日本留学の経験を持つ教師を採用するようにしています。今まで実際に採用した正社員の教師は全員日本留学の経験者です。
私たちは、学生と教師とのコミュニケーションを確保するために、すべての日本語授業を5〜10人の少人数制クラスかマンツーマンクラスで行っています。学生数が少ない分、教師は一人ひとりの学生の学習の進捗状況や勉強の困りごとなどをより全面的に把握ができ、学生にとっては効率の高い勉強の仕方です。実際に少人数制クラスといった仕組みは、学生や保護者の方々から非常に高い評価をいただいています。
私たちは、学生にとって日本語能力試験に合格するための日本語よりは、実際に日本人とスムーズに会話ができる日本語のほうがもっと大事だと考えています。なぜかというと、だいたいの学生が日本語を学びたい理由は将来日本へ留学に行きたいか、もしくは旅行に行きたいからです。もちろん留学申請にあたって日本語能力試験の成績も大事ですが、実際に日本に来てから、日常生活が困らないように、中国国内で会話能力を鍛えることがとても大事です。ですので、私たちは留学生を含む南京在住の日本人を招き、交流イベントを行います。その場は学習者にとって、生の日本語を使う絶好のチャンスなのです。同時に、日本人との交流によって、日本各地の文化と風土に触れることもできます。
最後に、学生の要望に応じて、柔軟に日本人非常勤講師も起用しています。日本人との交流イベントだけじゃなくて、実際に日本人非常勤講師との会話授業を設け、テーマを設定した会話で学生の日本語会話能力を高めます。特に日本語の発音などにこだわりを持っている学生に、日本人講師の授業を受けることをおすすめしています。
日本語教育はとても深い分野です。私たちの経験や知識はまだとても浅いです。これからはさらに精進し、日本語の美しさを広げるために、日本文化交流イベントとともに、日本語教育の道を極めていきたいと考えています。
長文となりましたが、最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。私たちは日本のことが大好きで、日本の良さを中国の若者たちに知ってほしい、そして、日本のファンが少しでも増えてほしいという一心で今まで取り組んできました。
では、なぜ中国の若者に日本のことを好きになってほしいのか。それは、中国との関係が良くなり、日本の将来がより良いものとなってほしいという思いがあるからです。現在の中国の若者は、10年後、20年後、中国社会の中核を担うこととなります。彼らが中国社会の中心となる頃には、中国のプレゼンスはさらに高まっていることでしょう。その中国社会の中核を担う若者が日本を好きでいたら、ビジネスを含め、日本としても良いパートナーとなるはずです。
そのような思いから設立した交流センターは、設立当初、採算が取れませんでしたが、スタッフの尽力や、センターの雰囲気や授業を好きになってくれた学生が新たな学生を呼んでくれたりして、2年目には黒字となり、これからだ!という矢先にコロナが発生し、今存続の危機を迎えています。中国の若者と日本の若者、そして、文化が交流できる場である「日本文化交流センター&日本語学校」をぜひ残してください!
※交流センターホームページ:https://www.jcec-nanjing.com
最新の活動報告
もっと見る【お知らせ】8月11日(木)夜22時に、 中国語コーチ伊地知太郎さんとTwitterのスペース機能を使って対談
2022/08/10 22:59中国語コーチの伊地知太郎さんとTwitterで偶然に知り合い、私たちの交流センターに興味を持っていただきました。8月11日(木)夜22時に、伊地知さんとTwitterで一時間くらい対談することになりました。ご興味がある方はぜひ聞いてみていただければと思います。私の生の声で、交流センターの紹介や立ち上げた経緯などを伊地知さんとおしゃべりしながら、ご紹介したいと思います。よろしくお願いします。対談のリンクはこちらです。https://twitter.com/i/spaces/1DXGyDdYqwRKM?s=20 対談の機会を設けていただいたこと、あらためて伊地知さんに感謝申し上げます。中国語にご興味がある方、気軽に伊地知さんにお声掛けください。伊地知太郎さんについて北京留学1年で中国語力をビジネスレベルに→三菱重工→語学コーチングスクールで700人以上を指導→中国語&英語コーチング【the courage】代表│ 元パンクロッカー もっと見る
武術太極拳アスリート・世界チャンピオンの大川智矢様にご協力いただきました。
2022/07/31 22:23武術太極拳アスリート/2013・2016世界チャンピオン(日本人初)/日本スポーツ賞、文部科学省スポーツ功労者顕彰受賞の大川智矢様にご協力を頂きました。御礼申し上げます。大川智矢様のご紹介武術太極拳を学び始めたきっかけは、母が健康のために始めた太極拳を、一緒に学びに行こうと思ったら、子供は早く動くカンフー(現在行っている競技)を練習すると言われて、その動きの美しさや俊敏性に魅了されました。人より目立ちたいという気持ちがあったので、誰もやっていない種目に惹かれました。自分の元々の夢は中国と日本の外交官になることでした。全日本代表入りをし、何回も合宿で訪中を重ねていくごとに、実際に生の中国人と触れて、日本で報道されているような寒々しい中国との関係は政治的な問題のみなのだと実感しました。自分が武術を通して生の中国人と接することで、民間レベルの交流が外交を超えてしまうのだと強く感じました。中央大学で勉強した中国言語文化と、実際に訪中を重ねて得た中国の良さを、日本人の皆さんに伝えて日中友好の架け橋になりたいです。 もっと見る
日中文化人交流に大きな影響を与えた「内山書店」からご協力を頂きました
2022/07/03 21:00日中文化人交流に大きな影響を与えた「内山書店」からもご協力をいただいて、私たちの活動のチラシを掲示していただきました。御礼申し上げます。およそ百年前から当時の日中文化人とのつながりを続けてきた内山書店は日中交流推進の大先輩です。皆さまもし神保町に行ったら、ぜひ内山書店にも行ってみてください。本が盛りだくさん! リツイートもしていただいて、本当にうれしいです。→「内山書店」のリツイート内容内山書店について内山書店の創立者である内山完造氏、日本の書店主・文化人。1930年代以降、中華民国と日本の両方で書店経営者として成功し、日中文化人交流に大きな影響を与えた。内山書店は現在も、東京の神田神保町で中国・アジア関連書籍を多く扱っている。取り扱っているのは、日本で出版された中国関係の書籍、DVD、CDなどが約4割。残りの6割は、中国・香港・台湾などから輸入された書籍、雑貨など。ジャンルは問わずあらゆるものを扱い、新刊がメイン。人気があるのは中国語を勉強する人のための教材。ここには中国の子供たちが実際に使っている教科書や参考書なども揃っている。研究者や学生委よりも、ビジネスマンやカルチャーセンターで中国語を習っている人が本を探しに来ることが多い。専門店ならではと思わせるのは、中国の地方都市の地図も揃っていること。魯迅と親交がある内山完造・内山書店略年譜1885年 ( 明治18 )1月11日岡山県後月郡芳井村に、内山完造出生。弟嘉吉は15歳下。1897年 ( 明治30 )12歳秋郷里の高等小学校を退学し大阪の丁稚奉公に出る。以後27歳まで商家の店員として働き、社会の辛酸を体験。1913年( 大正 2)28歳3月下旬、前年に入信した完造は、京都教会牧師牧野虎次の紹介で大学目薬の海外出張員となり上海へ渡航。中国生活の第一歩を開始する。1916年 ( 大正 5)31歳井上美喜 (24歳 ) と結婚。上海呉淞路義豊里に間借りの新居を構えるが、すぐに北四川路魏盛里に移転。1917年 ( 大正 6)32歳魏盛里の自宅玄関先を利用して、妻美喜が小さな本屋を開く ( 上海内山書店の誕生 ) 。1924年 ( 大正13)39歳向かい側の空家も購入し本格的な書店となる。この頃から内山書店は在上海・日中文化人のサロンとなり、やがて「文芸漫談会」が生まれ機関誌『万華鏡』を発行する。中国人メンバーは、田漢、欧陽予倩、鄭伯奇らで、のち郭沫若、郁達夫らも参加。完造は"鄔其山"のペンネームで漫筆を執筆するようになる。1927年 ( 昭和 2)42歳円本ブームにより内山書店は急速に発展。10月広東を脱出して上海に移った魯迅と会う。以後両者の間には深い親交が結ばれる。翌年2月、日本へ亡命する郭沫若を援助。1929年 ( 昭和 4)44歳内山書店は北四川路底に進出。また四馬路に支店 (31年閉鎖)を開いた。翌年に大学目薬の仕事をやめる。1931年 ( 昭和 6)46歳1月左連作家虐殺事件生じ、危険の迫った魯迅を庇護。3月来遊した増田渉を魯迅に紹介。因みに内山完造の紹介で魯迅と面識をえた日本人は、長谷川如是閑、金子光晴、室伏高信、鈴木大拙、横光利一、林芙美子、武者小路実篤、岩波茂雄ら多数にのぼる。8月来遊の弟嘉吉が魯迅の要請で、6日間の版画講習会の講師を勤める。講習会終了後に嘉吉、内山夫妻の養女片山松藻と結婚し帰国。翌年1月第1次上海事変勃発後、魯迅親子・周建人夫妻を庇護するが、日中双方の側から"スパイ"の流言飛ぶ。この頃から、魯迅の著編著などの代理発売元を引き受けるようになった。1935年 ( 昭和10)50歳10月10日嘉吉・松藻夫妻、世田谷の祖師谷大蔵に東京内山書店を開店。11月学芸書院より、魯迅の序文を付した完造の処女出版『生ける支那の姿』刊行。1936年 ( 昭和11 )51歳10月19日魯迅死去( 行年56歳) 。同日葬儀委員会が編成され、宋慶齢、蔡元培、スメドレーらとともに内山完造も委員に選ばれる。同22日万国公墓での埋葬式で、完造は追悼演説を行なった。1937年 ( 昭和12)52歳2月改造社版『大魯迅全集』( 全7巻 ) の第1巻刊行。その編集顧問を勤める。3月東京内山書店、神田一橋に移転。7月7日盧溝橋事件起こり、日中両国は全面戦争にはいる。8月上海での戦火を逃れて、完造夫妻は一時妻の郷里に帰省。9月上京した完造は、郭沫若の日本脱出の件で久松署に4日間検束される。この頃から日本の新聞雑誌に多くの"中国漫談"を執筆するようになる。1938年 ( 昭和13 )53歳4月心臓病の療養で妻美喜は長崎に赴き、同地で長崎内山書店開店 (41年に閉鎖) 。戦争下に内山書店は発展、上海の各所に支店を開く。1941年 ( 昭和16)56歳12月6日太平洋戦争勃発。同15日魯迅未亡人許広平女史が上海日本憲兵隊本部に連行、その救出に尽力。また上海開明書店支配人章雪村、編集長夏丐尊も日本憲兵隊に逮捕され、救出にあたった。1942年 ( 昭和17)57歳対敵資産接収にあった南京路の中米図書公司の管理を委托され、支店として経営。この頃自宅を北四川路横浜路松洞里9号に転居する。1944年 ( 昭和19)59歳1月の横浜事件で閉鎖状態の改造社より、著作の紙型を学芸書院のものと一緒に買いとり、上海で『生ける支那の姿』『上海漫語』などを自家出版し版を重ねる。1945年 (昭和20)60歳1月13日内山美喜死去。友人塚本助太郎の発案で比翼塚を静安寺外人墓地に建立 (のち墓所は虹橋の万国公墓に移る)。8月12日日本の無条件降伏を知り、完造は全書店員30余名を集め資産の分配を提案 (国民党の書店接収により実現せず) した。8月15日日本敗戦。上海日僑自治会が結成され、完造は代表委員に選出される。9月23日上海内山書店閉鎖。10月施高塔路千愛里の別宅に移転。1946年(昭和21)61歳4月呉淞路義豊里に転居。完造は中国永住を決め残留日僑互助会を設立。1947年 ( 昭和22)62歳義豊里の自宅で古本屋を開業。12月6日国民党武装保安隊が日本人居留地区を包囲、内山完造ら33名に強制帰国命令を下して拘束。同8日帰国船ボゴタ丸で上海を出航し、10日佐世保入港。16日東京内山書店に旅装を解き、中国生活35年に終止符をうつ。1948年 ( 昭和23)63歳2月岩波書店小林勇の要請を入れ、長野県高遠で日中友好の"中国漫談"を講演。以後17カ月にわたり、北海道から九州までの"中国漫談全国行脚"を行なう。1949年 ( 昭和24)64歳6月日中貿易促進会結成、代表委員となる。10月1日中華人民共和国成立。翌年1月加藤真野と結婚。10月1日日中友好協会設立され、理事長の任に就く。1951年 ( 昭和26 )66歳9月の対日平和条約調印にともない日台条約が結ばれ、以後日中関係は戦争未終結・国交未回復が、氷続されることとなる。この間、内山完造は日中友好協会理事長として中国との講和を主張、単独講和反対運動を推進し続ける。翌年米軍情報組織・キャノン機関に拉致監禁された、鹿地亘の救出活動にあたる。1953年 ( 昭和28 ) 68歳1月在華邦人引揚げ打合せ代表団の一員として渡中。3月共同コミュニケ調印され、日本人3万の帰国の道が開かれる。北京では、許広平女史、郭沫若、田漢、欧陽予倩と再会。この年日本語版『人民中国』、翌年『中国画報』創刊。1955年(昭和30)70歳12月中国学術視察団 ( 団長郭沫若 ) 来日し、郭沫若の世話役に専念。1956年 ( 昭和31 )71歳6月弟嘉吉、出版交流代表団の一員として訪中。8月第2回原水禁世界大会参加のため許広平女史を団長とする中国代表団来日。完造は許女史に終始同行し世話にあたった。10月19日北京で開催の魯迅逝去二十周年記念祭に参加。その後上海に行き元内山書店番頭の王宝良と再会。ともに魯迅の墓に詣で、先妻美喜の墓参もすます。この年の3月日中文化交流協会発足。1959年 ( 昭和34 )74歳前年からの地方巡回講演の激務がたたり病床に伏す。9月16日中国人民対外文化協会の招きで、病気療養のため真野夫人を同伴して渡中。9月20日脳溢血により北京協和病院で死去。同22日北京で追悼式。10月26日渡中した弟嘉吉夫妻が参席し、上海万国公墓で埋葬式。11月16日東京日比谷公会堂で、日中友好協会主催の日中友好葬行なわれる。翌年9月に自伝『花甲録』が岩波書店より刊行される。1963年 ( 昭和38 )中国から外文出版社代表が来日し日本側の各書店と懇談。内山書店も参加。7月日本語版『北京周報』創刊される。1965年 ( 昭和40 ) 10月東京内山書店創立30周年を迎える。翌年2月に国際書店より郭沫若の書が届く。1966年 ( 昭和41) 日中両共産党の決裂によって、日中友好団体、中国関係書店らに分裂騒ぎがおこるが、内山書店は不動。1968年 ( 昭和43 )8月現在地の神保町すずらん通りに社屋を新築して移転。1971年 ( 昭和46 )国際書店の招待で嘉吉夫妻訪中。上海では魯迅と兄完造夫妻の墓に詣る。1972年 ( 昭和47)9月29日、日中国交回復成る。中国語の学習ブーム生じ、新顧客が増す。1974年 ( 昭和49 )内山書店を株式会社に改編する ( 社長嘉吉 ) 。1975年 ( 昭和50 )竹内好、増田渉、岩波雄二郎ら22名の呼びかけで、10月2日一橋学士会館において「内山書店創立40年・内山完造生誕90年を祝う会」開催。1978年 ( 昭和53)内山書店改編 ( 会長嘉吉、社長に三男籬就任 ) 。この年の8月日中平和友好条約締結。1979年 ( 昭和54)11月1日内山完造頌徳碑の除幕式が、郷里岡山県井原市で挙行。翌年11月1日内山完造の胸像が同地に建つ。1981年 ( 昭和56 )魯迅生誕百周年記念式典に出席のため、嘉吉夫妻ら訪中。1983年 ( 昭和58 )秋『季刊 鄔其山』創刊。1984年 ( 昭和59)8月新ビル建設のため、神保町角の岩波ビル地下1階に仮店舗を構える。11月「内山完造生誕百年記念会」が、郷里井原市で開催。12月30日会長内山嘉吉死去 ( 行年84歳 ) 。1985年 (昭和60)上海で「内山完造生誕百周年記念」行事開催。9月7日完成した新ビルにおいて「内山完造生誕百年・東京内山書店創立50周年」祝賀会挙行。2010年(平成22)内山ビル5階で営業していた「アジア文庫」を経営統合。中国以外のアジア全般に関する書籍の取り扱いを開始。2018年(平成30)組織改編により、店長の内山深が代表取締役社長に、社長の籬が取締役会長に就任。 もっと見る
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