2022/07/31 11:21

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 かつてローマ帝国は、ライン川とドナウ河を北の国境としていました。ローマ帝国はラテン語を国語としていましたので、ローマ帝国はラテン民族の帝国ということができます。ローマ帝国がライン川とドナウ河を越えられなかったのは、北のゲルマン民族と東の遊牧民族の武力に対抗できなかったからと考えられます。やがて民族大移動が起こり、ゲルマン民族はローマ帝国に侵攻し移住を始めましたが、ローマ帝国はこれを受け入れました。その理由はゲルマン人がキリスト教を受け入れたからです。ローマ人たちは戦闘力に秀でたゲルマン人たちを傭兵として使い、遊牧民のフン族やイスラム勢力に対抗します。

 しかし、イスラム勢力の拡大はすさまじく、東ローマ帝国は完全にイスラム勢力下におかれ、西ローマ帝国ではイベリア半島がイスラム化します。このような外的勢力の侵攻に対して、カトリックのローマ教皇を中心としてヨーロッパを守り抜きますが、やがてローマ・カトリック教会内部の腐敗や十字軍派遣のための免罪符に対して、マルティン・ルターはキリスト教の教義に反するとの厳しい指摘を行い、宗教改革が起こります。旧ゲルマン民族支配地域はプロテスタント・ルター派の宗派に分離することとなりました。ルターはルター派のための多くのコラールを残し、後のバッハなどのプロテスタント音楽の礎を作りました。

 1618年、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド2世は、帝国内の宗教的統一を図ることを目的としてプロテスタントのプファルツ選帝侯を王位につけたボヘミアに攻め込み、凄惨な30年戦争がはじまりました。プロテスタントのザクセン、プロイセンのほかデンマークやスウェーデンが参戦し、カトリック側はオーストリー・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク両家が応戦します。しまいには、カトリックのフランスまでがプロテスタント側に付き、宗教戦争はいつか覇権戦争へと変わりました。最終的には神聖ローマ帝国ハプスブルク側が敗北し、ドイツにおける主権を失い、ドイツは約300もの主権国家が乱立する状況となりました。かろうじてオーストリーのハプスブルク家には皇帝の地位が認められましたが、これは南東部のオスマン・トルコの脅威からヨーロッパを防衛する防波堤としての意味があったと思われます。

 この間の音楽史ですが、イタリアでバロック音楽が始まります。中世・ルネッサンスの純正な和音のポリフォニー音楽は、破天荒な不協和音を取り入れた音楽に代わります。ヨーロッパ北部における不穏な世相を反映したものかもしれません。モンテヴェルディによって近代オペラが始まり、イタリアではオペラが全盛期を迎えます。一方のドイツでは800万人もの人命が失われた30年戦争が終わり、荒廃した中でヘンデル、セバスティアン・バッハという偉大な音楽家が生まれました。ヘンデルはイタリアへ渡り音楽の修業を積み、さらにイギリスへと渡ります。バッハは北ドイツでオルガン音楽やフランス音楽、またイタリア音楽を学んでいます。

 ライン川とドナウ河は政治的にも文化的にもヨーロッパの境界であったわけですが、この境界線近くからハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンやロマン派のシューマン、ワーグナーなど偉大な作曲家が排出され、カトリック文化、プロテスタント文化の狭間で多くの名曲が生み出されて行きました。

SEAラボラトリ 早川明