2022/12/16 07:04


あなたの好きな作曲家、作品を検索してみましょう・・・ハヤカワ音楽史年表データベースヘ

 作曲家は自身が生まれた地域のキリスト教宗派による洗礼を受け、作曲においてもその宗派の影響を受けることになります。イタリア、オーストリー、フランスはローマ・カトリック圏であり、ドイツはライン川以東とチェコの北の地域がプロテスタント・ルター派それ以外の地域はカトリック圏と2分されます。北欧はプロテスタント・ルター派、またイングランドは英国国教会、アイルランドはカトリック圏、スイス、オランダ、スコットランドはプロテスタント・カルバン派圏となります。カルバン派は宗派の教義により音楽は重要視されませんでしたので教会において宗教音楽は用いられず、それに伴い作曲家も輩出していません。作曲家を輩出したのは、ローマ・カトリック圏、プロテスタント・ルター派圏、英国国教会圏に限られます。

 それぞれの宗派の音楽の特徴を見て行きますと、華美で華やかなカトリック圏と質素で質実剛健なプロテスタント・ルター派のように対比が見られます。カトリック圏では華やかなオペラ文化が隆盛を誇りましたが、プロテスタント・ルター派圏ではオペラ文化はハンブルクとドレスデン、ベルリンに限られルター派の作曲家の多くはオペラを作曲しませんでした。一方、イギリスの英国国教会はプロテスタントの中ではカトリックに近く、カトリックの音楽文化を受け入れています。

 ヘンデルはルター派のハレに生まれますが、オペラが上演されていたハンブルクに移り、やがて音楽修業のためにイタリアへ渡ります。ベネツィアでオペラ「アグリッピーナ」を成功させると、ヘンデルは一夜にして名声を獲得し、各国の要人の間でヘンデルの争奪戦が始まったといわれています。ヘンデルはドイツ・ハノーファー選帝侯の宮廷楽長に就任します。ハノーファー選帝侯ゲオルグ・フリードリヒの母親は英国の血筋で選帝侯は当時のイギリスのアン女王とは又従妹にあたり、アン女王には跡継ぎがなく、ヘンデルは選帝侯の命で情報収集のためにイギリスへ渡ったともされています。アン女王が亡くなるとハノーファー選帝侯はジョージ1世としてイギリス・ハノーファー連合国の国王として即位します。ヘンデルはイギリスでイタリア・オペラを多く作曲し、またオペラの興業が行き詰まると「メサイヤ」をはじめとするオラトリオを作曲しました。ヘンデルは1727年イギリスに帰化しましたが、宗派は生涯ルター派を貫き、英国国教会に改宗することはありませんでした。

 一方のセバスティアン・バッハも生涯ルター派を貫きますが、領主にあたるザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世はルター派からカトリックに改宗しています。アウグスト2世はポーランド王も兼ねていたためカトリックのポーランド支配のために改宗したものと言われています。選帝侯に宮廷作曲家の地位を申請したバッハは1724年にカトリックの典礼に基づいたロ短調ミサ曲のグローリアを作曲し1733年にはキリエとともに選帝侯に捧げました。その後、バッハは1748年にロ短調ミサ曲を完成させていますので、ロ短調ミサ曲はバッハの宗派を超えた作品となり、音楽家としての自身の人生を締めくくる作品としたのでしょう。モーツァルトのミサ曲ハ短調も未完に終わっていますが、おそらくモーツァルトが長生きしていれば完成させたかもしれません。

 バッハの末っ子のクリスティアン・バッハはイタリア音楽を学ぶためにイタリア・ミラノへ渡りますが、ミラノでカトリックに改宗しました。その後、ロンドンへ渡りますが、ミラノのバッハ、ロンドンのバッハなどと呼ばれています。

 クリスティアン・バッハ以降、多くのドイツ生まれの作曲家がカトリック圏で活躍しています。ベルリンに生まれたユダヤ系のマイヤーベーアはフランスのパリへ渡りオペラ作曲家となりました。シューマンはカトリック圏のデュッセルドルフに赴任し、合唱指導を行いますが、ここでバッハのマタイ受難曲を演奏し、合唱団員からは激しい反発を受けます。これが精神に異常を起こした原因のひとつとも考えられます。

 ワーグナーはベートーヴェンの交響曲やマイヤーベーアのオペラから強い影響を受けましたが、ドイツ・ロマンオペラの偉大な作曲家となりました。ワーグナーは娯楽としてのオペラの対極の総合芸術としてドイツ・オペラを楽劇に発展させました。ドレスデンで革命運動に参加しドイツを追われたワーグナーは活躍の場をカトリック圏のミュンヘンに求めますが、ゲルマン民族のワーグナー音楽の演奏の場をプロテスタントとカトリックの境界に位置するバイロイトに定めました。

 ハンブルクに生まれたルター派のブラームスはウィーンに移りますが、オペラなどには関心を示さず、交響曲やドイツ歌曲、ドイツ・レクイエムなどを作曲します。ブラームスはウィーンでバッハのマタイ受難曲を演奏しますが、これがウィーンでのマタイ受難曲の初演であったかもしれません。

 フランスの作曲家ではグノーがローマ賞を受けイタリアに音楽留学しますが、その帰途にプロテスタント圏のライプツィヒのメンデルスゾーンを訪ね、バッハの音楽に接しました。パリに戻りバッハの平均律クラヴィーア曲集を弾いているときに旋律が現れ、この旋律にアヴェマリアの歌詞を付け、こうしてグノーの「アヴェマリア」が誕生しました。


【音楽史年表より】

1733年、7/27、J・S・バッハ(48)、ロ短調ミサ曲BWV232

フリードリヒ・アウグスト2世にキリエとグロリアのパート譜を献呈する。バッハは1733年7/27ポーランドの王になるためにルター派からカトリックに改宗した、ドレスデンのザクセン選帝侯アウグスト強王(1733年2/1逝去)の皇太子であるフリードリヒ・アウグスト2世に、宮廷作曲家の称号を請願します。このときに請願書とともに提出されたのが、このいわゆる「ロ短調ミサ曲」のキリエとグローリアのパート譜でした。(淡野弓子・バッハの秘密より)

1859年、グノー(41)、ピアノ伴奏声楽曲「アヴェ・マリア」

パリ音楽院に在学していたグノーは1839年にカンタータ「フェルディナン」でローマ賞を受賞し、2年間のローマ留学に出発する。留学を終えたグノーはウィーン、ライプツィヒ、ベルリンを経てパリに戻るが、ライプツィヒではメンデルスゾーンに会い、セバスティアン・バッハの音楽を学ぶ。1859年グノーはバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第1番ハ長調BWV846を伴奏とし、ラテン語の聖句「アヴェ・マリア」を歌詞とする声楽曲を作曲する。(ニューグローヴ世界大音楽大事典より)

SEAラボラトリ