7月8日には日本からのツアー訪問者の方達が5名ありました。
この日は土曜で施設の子や補修授業の子どもたちだけでしたが、コロナ始まって以来初めての多人数の日本人訪問者だったので、子どもたちの歌とダンスなどでこちらも歓迎に努めました。
この方達は日本に帰るためナイロビ空港へ向かう直前にも再訪問してくれます。それというのも、私がまえもって購入したケニアの民芸品、サイディア縫製工房の布製品などを、日本の「支える会」事務局へ運んでくれるからです。
今年の日本の秋は各地でのフェスタなどでバザーが開かれると予想され、そこでサイディアフラハ紹介や物品販売をして、プロジェクトの運営資金を作るのです。
12日の午前中にプロジェクトがあるキテンゲラ市の中心近くにある銀行で、お金を6万ksh(63000円)ちょっと下ろし外に出ました。
するとキテンゲラを2分する大きな道路を数台のバイクが走り、それへ周りの人々が視線を送り、騒然としていました。それで私は「今日は全国的に税金アップ反対をするデモの日だ」ということを思い出しました。
ナイロビと比べたら田舎町なので、大したことないだろうとたかを括っていたのですが、、、、。
この道路を横切り帰途に着こうとしたら、街の中心の方角から暴徒の先導らしき若者たちが10名ほどやってきて、大きな石を路傍から道路へまいたり、古タイヤをいくつも燃やして煙を立たせたりし出しました。近くのショッピングモールの閉まった鉄のゲートへ石を投げるので、ガンガンとの音も。そのうちの1人が私を見ると「ムズング(外国人)はなんとか」と叫びながら指差してきました。
この道路の路肩の向こうは急斜で2m落ち込んでいるので私は簡単に遠くへ逃げるわけにもいかず、彼らを見ないようにして芋虫のようにゆっくり路肩を動いて行きました。
道路の周りにいた多くの人々は驚いてこれから何が始まるのか観察していたが、私は迂回しながらあわてて住宅街の中へ逃げ込みました。住宅街の中はまだ何も知らない人たちが道端でのんびりしていて、暴動場所から100mも離れていないのにこうも世界が違うものかと愕然。
その後昼にはプロジェクトへ辿り着きました。テレビでナイロビとキテンゲラの暴動の様子が2限中継されていたので、スタッフ・先生たちは暴動のことを知っていました。
そして警官の?銃の音が遠くでしょっちゅうするようになり、午後3時頃にはキテンゲラだけで2名の暴動による死者が出たことが知らされました。
学校にいる年長の児童たちはこんなに銃の音が聞こえることが初めてだったので(私も初めて)心穏やかではないようでした。
先生たちは下校時の児童たちを気遣い、親が迎えに来るまで待たせることにしました。
写真
訪問者の方たちと歌、ダンスをする子どもたち。
荒川勝巳