はじめまして
田港健根です。
廃棄寸前のストリートピアノを修理し
キャラクターを描きまた様々な場所に置き、
更に物語を作ります。
『Kawaii street piano 』
新ジャンルの文化です。
それではどうぞ
『Kawaii street piano 再生&制作プロジェクト!!』
音芽子は努力
アリスは天才の天才
更に細かい設定もありますが後に鳴らすとする。
そう
この二人をピアノに描く。
デザインを手掛けるのは
可愛い女の子を描くイラストレーター
ゼロコ様
ペイントをし
そして新たにまたstreet piano として置いていく。。。
キャラクターも広めていく。
物語も進んでいく。
鳴れば鳴らす程
だが、、
元々ストリートピアノ。
数百人は県内数カ所で弾かれてきたであろう状態。
弦が切れてるのは当たり前でカビやらサビやら虫食いやら、
そしてなんと言っても古いタイプ。
昭和、、47年製、、、、(KST-5)
で部品がこの世に存在してるのか分からないという代物。
手掛けるのは
メーカー専属調律師様
因みにこのピアノが
ストリートピアノとして置いていた時代に
弾いており当時からの状況も知っている。
このピアノがきっかけで連絡を知り
今回依頼する事に
調律師泣かせのヤバ物件。
一箇所をコツコツ修理していくというレベルではなく
オーバーホールする方の方がやりやすいという状況。
どうするか?
この物語を綺麗に鳴らす為に、、、、
そしてこのプロジェクトを実行し
ピアノを持っていくのが。
僕です。
自分の細かい詳細は一番最後に書いております。
(長いです。)
(ですがもし読んで頂けた場合は
次の項目は分かりやすくなります。)
さて、
元々
この(kawai カワイ)のストリートピアノは
埼玉県内であらゆる場所で置かれていた有名なストリートピアノ。
もしかしたら弾いたことあるよという方もいらっしゃるはず。
僕自身
このpianoを通し
様々な人と出会う事ができた過去があり非常に思い入れがあるピアノ。
廃棄寸前のタイミングで
僕の手元に。
それは運命を感じる程。
そして僕が本当の意味で救われたこのピアノ。
なら
今度は僕がこのピアノを救う番。
最悪の状態から新しく生まれ変え。
僕がstreet pianoを通して感じたように
色々な人の思い出となり
またストリートで
そして全く新しいジャンル
としてこのピアノを作ろう。
そう
決意したから。。
この活動は
初めは僕が個人的に思い立って動いておりました。
協力いただいた方々は
僕の気持ち一つで協力して頂いておりました、
運び出しから始まり
ピアノを白く塗装してもらったり撮影してもらったり、
そして僕のイメージでキャラのデザインをしてくれた事等もです。
しかし関わる方が増えてきて、
毎回運び出しで手伝って貰ったり、
打ち合わせ等で時間を割いて貰ったり、
僕の活動で皆さんの時間を使うのが申し訳なく思い、
何よりも
完全にピアノを復活したい
様々な場所におきたい
全国に置いて見たいなどやりたい事が沢山膨らんでいく。
そんな中
クラウドファンディングを知りました。
もしも資金が集まればピアノを最悪な状態から
またしっかりと最高な状態に生まれ変わらすことが出来る。
協力してくれる方に仕事としても依頼することができる
そうすればよりプロフェッショナルな事ができるし頼める、
そしてそんな方達にそれぞれの今後の活動に少しでも足しになるようにもなる。
そして画家の方には僕の簡単な人物像からキャラクターのデザインをして頂き、
その方の作品とも言えます。
展示活動があった場合にはこのピアノを持って行きたいとも思いますし、
その為の費用として資金を充てて行くこともできる。
撮影の方も同様で時間をつくる事ができ
集中して打ち合わせができる。
ピアノのメンテナンスも、ピアノのカバーを作って下さる方やその他関わる事等等、、
そんな全ての事を考え、、
今回のクラウドファンディングへ。
ストリートピアノとして、またあらゆる場所において
様々な人に触れてもらうのは勿論の事。
できれば全国に。
そして
描かれる2人
キャラクター人物像
も知ってもらい
更に
物語は膨らんでいき
関わる方も
知ってもらい
いつの日かそんな2人がピアノを出たり
そんな事をきっかけとして
新しいコラボレーションの形
このピアノ物語をきっかけとし
あらゆる
芸術家、音楽家、演奏家、クリエーター、
そうでなくとも何かで
関わっていく方達とのきっかけ
生まれ変わった
ピアノ一台からの
創造
このきっかけからどんどんと可能性を膨らまし
その先には
ストリートピアノ文化
のみならず
日本の新しい芸術活性化となる文化
としての位置付けとなるような活動。
それは世界から見てもとても創造豊かな日本的らしいプロジェクト。
無限大に
『kawaii street piano』
からクリエイトできると
僕自身確信しております。
今回皆様の力と同時にこの
新しい文化を作り上げて頂けると非常に幸いでございます。
『Kawaii street piano』
という言葉を
日本の芸術文化
として広めて行きたいと思っております。
宜しくお願い致します。
Kawaii street piano 再生&制作プロジェクト!!』
企画第一弾! 撮影有
4月9日(日曜日)ピアノにライブペイントイベントを行います🤹🏼♀️🎹
場所は埼玉大宮駅東口の画家の小道という通りで11時~16時予定で行います。
雨天中止
23年
6月 クラウドファンディング終了
7月下旬 ステッカーリターン発送
7月 費用内で修理見積もり
8月 Tシャツリターン 発送
8月 修理
9月 許可を得た場所で置き始める
”大久保塗装”代表 大久保信様により塗装着手。
マスキング作業
からの塗装。
4点。
ピアノのオーバーホール費用
デザイン塗装撮影 編集等の依頼費用
運搬車両費用
CAMPFIRE手数料
内訳
1,修理費用、そして定期の調律費用
600,000円〜の見積もりとなる予定です。しかし今後のこともある為重点的に費用を充てていきたいと思っております。
2,ピアノを塗装して頂いた塗装業者への費用、画家の方への依頼費用、
こちらは今まで協力して頂い方、そしてデザイン、ペイントの依頼費用
ライブペインイベントでの撮影&編集費用
皆さまにこのピアノを知ってもらう為にイベントを行いますがそちらでの製作風景などの撮影費用です。
3,運搬車両費(中古)
なるべく安い車両を探しますが確実にピアノが守られるような車両を探します。
もしも資金が十分に集まる事ができたら運び出しの方にも回していければと思います。
4,CAMPFIRE手数料17%
手数料です。
今のピアノの保管と移動の現状ですが軽のバンに横に寝かしておいてある状態です。
最悪今はまだいいですが、完成後でこれはきついです😅
移動車両の理想ですがイメージは
中古の福祉車両の様な車両でパワゲートのようなものが付いてあるとベストですが
一番はピアノが立っている状態で格納できることと
バンの形で収まる車両を探します。
ピアノは割と小柄なのタイプなのでスロープがついていれば
コロコロ転がして入れるような仕様にしていきます。
リターンについてですが今の所お礼のメッセージと丸ステッカーと『Kawaii street piano』オリジナルTシャツですが、今後リターンについては追加していく可能性ございます。
最後に
ご覧頂きありがとう御座います。
まず なぜ最後に自己紹介を入れるのかという事なのですが、
自分を説明するのに簡単にまとめることができなく冒頭に入れてしまうと、長くなってしまうし、
そんな「僕」のピアノとなる事を恐れたからです。
[kawaii street piano]
自体をメインとしたかったからです。
ですが色々な方が関わるピアノとなります。
自分を隠すことはできません。
正直に誠実に紹介できていれば幸いです。
僕は埼玉県出身で10代 20代とまぁそれなりに楽しく生きそんな風に見えていたと思います。
仕事にも特に困る事もなく、夜は派手に飲み、外車で街に繰り出したり、
音楽活動を行ったりクラブによく出没しては女の子を連れてるようないわゆるパリぴ?(死語?)で、
お金があればなんとなく充実した雰囲気を演出でき、
迷惑をかけることもあったり
大きな声で自慢する様なことではないんですが
まあそんな風に過ごしておりました。
つまりプライドが高く、見栄えだけ気にして威張っていたという事です。
ある時「ワインを作る」といい南米に行く事にしました。
周りの方にも伝え、もしかしたらもう帰ってこないんじゃないかと、
家族や知り合いからもそんな風に送られました。
しかし2ヶ月も経たないうちに帰国したのです。
到着早々現地の病気にかかり入院、
海外旅行にはそれなりに行っていましたが住むとなると生活環境が違いすぎる、
言語の壁(当たり前)、治安、等等
つまり情熱が無かったという事です。
そもそもワイン作りなんか心の底からしたいと思って無かった、カッコつけて言っていた、そして言いたかっただけだろう、
そんな自分に気づかされた訳です。
僕はプライドが高く
帰国してしまった自分を誰かに言う事などできる訳がありません。
コソコソと仕事をはじめお金を貯め、それと貯金を合わせて
オーストラリアにいきました。
ただ、日本にいる事が恥ずかしかったのです。
「海外にいる自分」を作りたかったのです。
そして一年半くらいはそのような形を繰り返しヨーロッパにも行ったりしてました。
そう、逃げるように海外に行っていたのです。
ただこの時は気にして無かったのですが世界のストリートピアノを知るきっかけとはなりました。
そんな中、スペインの語の学校に行ってた時なのですが、
バルセロナという大都会にある学校で毎日のように新しい生徒と挨拶をする日々がありました。
やはり大都会ですし、全世界の人が集まり
もはや小さい地球のような学校でした、
皆スペイン語を勉強しに来ており
毎日自己紹介は必須です。
仕事でバルセロナに住む事になり勉強してるトルコの方、
自国で俳優をし演技に磨きをかける為にエジプトからの方、
世界を回る客船のバーテンの方でコミュニケーションを膨らます為にとスウェーデンの方、
彼女と住む事になったから生活の為にと中国の方、
純粋に興味があるから旅行がてらに勉強にとドイツの方
図書館員のベルギーの方、
サッカーのインストラクターをしている日本の方
アルゼンチンの方、ロシアの方、その他沢山の国の方。
とにかく色々な方とカタコトのスペイン語で自己紹介をするのです。
本当に簡単な単語でジェスチャーを使いながらなので
笑ってしまうような光景ですが伝わるのです。
そしてそんな自己紹介を聞く日々なのですが。
そんな毎日で、
僕は自己紹介ができなかったのです。
日本から来て勉強をしてるくらいの感じでしか表現できず、
まあ僕自身ノリは良かったのでなんとなくで終わらし、次の話題へみたいな感じでした、
でも内心はジェスチャーをする程の何かを伝えることもできなかったし、なかったのです。
そして気づいたのです。
僕は国内にいる事が恥ずかしく逃げるように海外にいっておりましたが、
海外にいても恥ずかしいと。
みんなのように体を使って自分を表現できる事がほしい。
そう思うきっかけとなりました、色々考えさせられました。
そして自分が何者でなにがしたいのかも分からなくなってきました。
SNSも全てやめておりましたし、話を聞いてくれるのは一名の方と
あとは家族だけとなっておりました。
父はスペイン語が話せるので毎日のようにこんな時なんて話せばいいの?
とか聞いておりました。
人生で一番話したと思います。
僕は幼い頃に両親が離婚していたので父親に育ててもらいましたが
もちろん仕事なので話す機会もろくになく
10代半ばからは夜遊びで家に帰る事もなく20代はほとんど疎遠でした。
そして、そんな、人生で一番父親と電話で話すことができたヨーロッパの滞在から帰国したら
父が亡くなりました。
訳がわかりませんでした
僕は長男なので帰国して早々葬式の準備をしなければなりません
同時に、ほぼ無一文で帰国してるので仕事をすぐに始めなければだったので
悲しむ暇なんて一時もありません
もう何かにしがみついていないと立っていられないようなメンタルでした。
集中するものがないと本当の意味で立てなくなってしまう状態でした
そんな中しがみついたのが
ピアノでした。
色々な海外で実はストリートピアノをなんとなく見ており、
幼い頃から憧れがあった自分に気づかされたのです。
楽器屋に行って声をかけてくれた先生の方がいてくれたのも大きなきっかけです。
先程の海外での経験もきっかけです。
大人になってから新しい事を始める事は本当に大変な事です。
ですが、その時の自分の状態を支えてくれる物としては充分な事でした。
そこから時間があれば練習という日々となります。
ですが僕はSNSもやめております。
知ってる人は一名だけで、他の人にまだ自分の事を話せるような状態ではありません。
ましてやワイン作りに行ったのに新しくピアノを始めたなんて当時の僕にはまだ言う事もできません。
下らない概念にまだまだ囚われていたのです。
レッスン場までは自転車で1時間近くかかります。
なぜ自転車なのかというと電車が怖かったからです。
人と話すのが怖かったのです。
移動では誰にも気づかれないように黒サングラス 帽子 そしてマスク
たまたまコロナの影響でしたが、僕にとっては顔を隠す意味のマスクでした。
そんな格好で教室に向かいレッスンや練習に行く日々でした。
同時に音大で勉強する理論も初めたので課題曲と宿題に追われる日々でした。
本当に毎日の様に通っていました。
最初は新しい事を始めているという事でとても勢いがありましたが
3,4ヶ月もすると壁にぶつかります。
ですがそんな時に唯一、話を聞いてくれる一名の方と喧嘩になりました。
何度も言いますが僕はLINEはもちろん他の全てのSNSはやめております。
本当に一人になったのです。
話せる人がいなくなってしまったのです。
もちろん先生方や楽器屋の店員さん等と話をする機会はありましたが。
気軽に話せる人はもういなく。
それから1年程は機械のように練習をし、音楽理論を勉強し、最低限の仕事をする日々を繰り返しました。
それはとても辛く冷たく孤独の毎日でした。
ですがピアノに教わったことは数知れません、
当たり前のことですがやったらできるし、やらなかったらできないという。
そして孤独との戦い。
弾ける小節が少しづつ伸びていき、気付いたら最後まで弾ける様になっていく。
それはやったからできたので、できるからやったのではありません。
先生の言う事を聞きその通りに練習していく。
その時はそれが生きがいといっても大袈裟ではありませんでした。
ですがやはり独りです、「何してるんだろう」
って思う時はしょっちゅうでした
基本的にはギリギリだったのです
夜寝る前には毎日泣いていました。
何か話したいし、声を出したいし、誰かに何か聞いてもらいたい、
でもそんな環境を作ったのは、自分自身ですしプライドや下らない概念に挟まれて何もできずに
苦しさを飲みこみ続ける日々でもう声すら出ず、
体は限界をとうとう超えていました。
身体中から冷や汗が止まらなくなる日々が続く様になり
ある日は本当にとまらなくなりました、
息をしてるのかしてないのかも分からないし、
身体が熱いのか冷たいのかも分からなく
頭の中に自分の理性が入る容量はもうなく
コントロールなど効かず
もう自分の体ではなく、
勝手に体が「そっち」の方向に動いていきました。
本当に、自然とです。
もう朦朧として記憶などありません状態でした
終わりでした。
でもそんな時、大きな声でハッキリと
「ケンネ!」と
父親の怒鳴る声が聞こえました。
門で突き返されたのです。
そこで我に帰りました。
なんとか自分の体に戻ってこれました、
意思と体が連動でき息を吸う事ができました。
そんな、事もありました。
まだまだ内面はギリギリの状態です。
ある時、先生から近くにストリートピアノが置かれたという事を聞きました。
当時僕は電子ピアノで練習していましたので
簡単に、お金を払わずピアノが弾けるし練習できるじゃんと思い行ってみました。
いざ目の前にあると、ピアノに座る事なんてできません。
ショパン エチュード等の難しい曲を弾く小さい子達
流行りのJ -pop等を弾く高校生や
リクエストに答えて弾くyoutuberなどの方々や
そんな後に弾ける訳などありませんでした。
遠くで眺める日が続き
人がいない時を見計らって座るまでには何日もかかかりました。
ようやく戦々恐々としてピアノの前に座ることができたのですが。
発表会とは別の緊張があり、誰かに見られてるんじゃないかとの恐怖すらあり
楽譜広げて練習なんて事はできません。
発表会でやったのを弾きました。
もう最後まで弾ききることしか頭になく
間違えても強行的に弾き続けなんとか最後までいくんだという頭しかありませんでした。
感情も何もなくただ弾いただけです。もちろん簡単な曲です。
弾き終わって立つと手はガクガク震えておりました。
早くその場から立ち去りたいという感情でした。
ですが一人の方が遠くで拍手がぱちっぱちっとしたのが聞こえました。
それはもちろん努力賞の拍手だと思いますが、でも嬉しかったです。
震えながらその場を出ました。
そしてすぐ別の日の事
一人の女性の方がなんか聞き覚えるのある曲を弾いていましたので近くに寄って聴いておりました。
これなんだっけかなーと考えながら。
その方が弾き終わってから
『あっ 弾きます?』
と言われました。
『あ、いや、、大丈夫です、、、』
と、とっさにいってしまいました
『、、、あ、、、今の曲ってなんですか??』
と聞き韓国ドラマの主題歌とのことでした。結局それは勘違いでした。
『ピアノ弾かれるんですか?』
『はい習ってます、クラシックピアノですが』
『あ。クラシックですね、私今ショパンのロマンスって曲練習してます。』
『あ、そうなんですね!ショパンいいですよね、どんな曲だろう、、』
楽譜を出して
『これです、練習中なので弾きませんが、、笑』
僕『あれこれコンチェルト1番の2楽章ですね!なんとなく分かります!3楽章だけ聞いてたので今度ちゃんと聴いてみます!』
もはや僕は一年以上毎日クラシックを聴いている身となっておりましたのでなんとなく分かってしまいました。
そこからも新しく人が加わっていきました。
そうです。
久しぶりに人と会話をしたのです。
その後少し弾きました、弾ききれなかったですが、、、
そこからは毎日の様にストリートピアノに立ち寄り人がいない時を見計らって
少しづつ弾く様になりました。前回の様にそこからの会話をする事があったりなかったり、
ですがストリートピアノをきっかけとして人と少しづつですが喋れるようになっていったのです
今思えばそれは僕のリハビリのようなものでした。
ですがやはり帰ればSNSもはじめてませんので気軽に話せる人もいません。
ある時 さいたま新都心という駅にあるストリートピアノで弾いてた時です。
曲が終わり後ろに人の気配を感じたので、次に弾きたい人が並んでると思い振り向きながら
『あ、すいません』
『あ、どうぞ』
と言いました。
そしたら、そこに立っていたのはみんなで服を掴み合う障害者の方が三名立っておりました。
無言の時間が数秒あり、こっちをまっすぐ見ていました
僕はまだうまく喋る事ができません、正直どうしたらいいのか分かりませんでした、
そしたら一名の方が
『聞いてます』
と言い、そう聞き取れました。
その時僕はここから早く立ち去りたいし、面倒臭いとさえ思ってしまいました。
毎回人がいない時に弾いていたのもあり、ここまでびっしり後ろに立っている状態で弾くのが恥ずかいと思いましたし
本当聞かせられるようなレベルではないし、他に上手い演奏をする方なんて少し待ってれば表れるだろうし
色々な事が頭によぎり怖いという感情さえありました
そんな無言の時間を過ごし三名ともこっちをずっと見たままで、僕は考えたままです。
そして
『分かりました』
と言いました。
弾いたらこの場から解放される!
と思ったからです。
そして発表会で弾いたヘンデルのパッサカリアという曲を弾きました。
4小節のモチーフを2回繰り返し
それを16回の変奏を行うという舞曲です。
簡単にいうと同じフレーズを2回弾いて少しずつ変わっていきそのセットが16回あると言うやつです。
半分くらいまで弾き、途中ピアノ表面の反射で後ろにまだいるのが確認できました、
心の中では
『あ、やっぱりまだいる』
と思いながら
後半は2回の繰り返しをせず一回で最後までやっつけで終わる事ができました。
後ろを振り向いたらやっぱりまだいました。
よし、さっさと立ち去ろう!
そう思った時
その中の方から
「あ、り、が、とうございました」と
ゆっくりと言われました。
そして少し待ってくれというような雰囲気で
少しするとその中の一人の方が僕に缶コーヒーを渡してくれました。
「、、、、、、、」
僕は体中に感じた事がないようなものを感じました。
挨拶をして歩きました。
僕は自然と涙が出ました。
それは嬉しさではなく悔しさです。
なんでしっかり弾かなかったんだろう
なんで面倒くさいなんて思ったんだろう
なんで謝ったんだろう
なんでしっかりお礼を言えなかったんだろう
なんで自分をちゃんと出さなかったんだろう
なんでサラッと弾いて簡単に終わらしてしまったんだろう
あの方達は完璧な演奏なんて求めてなんかいなかったかもしれない
少しでも僕という人間に興味を持ってくれたから近くに寄ってきてくれたのかもしれない
だったら、だったら、僕は間違えようがつまづこうがその時の自分を全て出すべきだった。
それが、少しでも興味を持ってくれた方々に対する礼儀だし、足を止めて聞いてくれ、
しかもわざわざコーヒーまで買いに行って渡してくた。
情けなくなりました。
それはその時の自分の生き方にも同じ事が言えるからです。
その時の僕は、もう何か成し遂げないと人に会う事ができなかったからです。
何かで成功してからでないととか
とにかくプライドや下らない概念に囚われっぱなしでずっと苦しいままでした。
その缶コーヒーを泣きながら飲みました。
飲みきれない程の味わいでした。
その味わいはそれまでに飲んだどんな赤ワインよりも口当たりは重量感があり、
濃厚で、余計な雑味がなく洗練されており、
更に奥行きがあり、次第に複雑な酸味が僕の体の芯、
そして根の隅々までにしっかりと伝わっていきました。
そして考え方がガラッと変わる自分に気づきました。
「話そう」
「伝えなきゃ、自分を」
「話したい」
「会いたい」
「今の自分を伝えたい」
その日に、まずお世話になった方々に連絡を取りはじめました。
会って今の状態の自分を話したいと思いました。
そうです、それから人に会える自分になったのです。
正直に話す事ができたのです。
海外であの時できなかった自己紹介がようやくできる様になったのです。
もはや自由の意味すら分かったような気がしました。
新しく生まれ変わった様な感覚でした。
そしてそのきっかけを与えてくれたのが
「Kawaiのストリートピアノ」
そうです、僕が廃棄寸前で頂いたピアノなのです。
廃棄する事などできません、
僕を救ってくれた、
じゃあ
今度は僕の番です。
しかも
どこにもないような全く新しい形のストリートピアノへと。
長い紹介文失礼いたしました。
全力を尽くして頑張ります。
<募集方式について> 本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。
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