一人暮らし1年目、当時16歳の自分は、水道が止まった家に住んでいた。
水道も電気も止まった家は、朝日がとても気持ち良い空間だった。
仕事して寝るだけの生活をしていた自分は、ある日を境に仕事をしなかった時期がある。きっかけは単純だった。当時の自分は映像制作を主に、いわゆる広告の仕事をしていた。映像制作にも、様々な仕事が細分化されている。カメラを握る人。編集をする人。監督をする人。照明を担当する人。音響を担当する人。美術をする人など。そしてそのような人達や作品を、ディレクションする人、プロデュースする人、依頼する人。
細かく書けば、もっと沢山の人が関わる仕事だ。
そんな仕事をしていたある日、納期前日に大幅な修正が入ることになった。そればかりはたまにあることなのだが、誰が何を、何のために時間を割く必要があるのかすら分からない修正がきたのがきっかけだ。
ディレクターはプロデューサーの顔色を伺い、プロデューサーはクライアントの顔色を伺う。ではクライアントは誰に向き合っているかと言えば、お客さまではなく株主だった。
企業として、節税のためにお金が生まれる仕事は世の中に多々ある。それはそうだ、一年単位で税金が徴収されるなら、浮いたお金をただ納税するのではなく、未来に投資するのは賢い判断であり、この世の殆どの企業がそうだろう。
ただ、自分が気になるのは、その未来が何かってことだ。
お客さまが幸せになってる未来なのか、企業が幸せになる未来なのか、社会が幸せになる未来なのか。わざわざ未来を不幸にするためにお金を使う企業は、いないと信じたい。
そして幸せとは難しい。価値観の数だけ幸せがあるとするならば、会社は関わっている人(従業員/株主/お客さまetc...)が多いため、考えることも多い。
そのような中で、自分がビジネスプロデューサーとしてクライアントと関わると、企業や担当者によって千差万別な意見がある。部署が違えば意見は変わり、役職が違えば決裁権も変わる。一件当たり前に見えることだが、「何のために」その企業が存在していて、それを自ら認知している企業/担当者もいれば、ただ売上を上げることだけがKPIの企業/担当者もいる。
広告の世界は、自分の解釈で表現すると外見を無理矢理変える仕事に近い。
良い意味で言えば、理想の姿にメイクすることでもあるし、悪い意味では傷を隠すために塗装をすることもある。
ただ、当時の自分から今の自分に一貫してある価値観は、『外見は内面の1番外側』ということだ。
綺麗事にも聞こえるだろうが、自分の実体験として感じており、大切にしていることだ。
だからこそ、傷を隠すために塗装をするような仕事は、いじめを隠蔽するようなことにも感じる。
学校という社会の中だけでは生きづらく、中卒で社会人になった自分にとって、学校の中だけだと思っていたことが、仕事でも似た事象があると気づいた時、自分は悲しみを通り越して虚無に浸っていた。
自分の仕事が、法律では縛られていないが、誰かを傷つけることがあるという事実に耐えられなかった。
そこから仕事を選ぶようになった。自分が嫌いなことに加担したくないからだ。
ただ、現実は甘くない。社会人1年目からフリーランスで、人脈も少ない自分にとって、仕事を選ぶことは収入が減ることでもあった。
それでも仕事を選び続けた。時には断るだけで、「お高くとまってる」と揶揄されたこともあったが、断り続けた。そしていつしか、銀行の残高は数百円になった。
電気は止まり、いつしか水道も止まった部屋で、自分は憎しみを感じていた。その矛先は社会だった。
この社会は、幸せの定義が難しいように、悪いことの定義も難しい。だから道徳があるし倫理や哲学がある。それなのに、社会が法で裁くのは、法律を破った人だけだ。法律を破らなければ、悪いことも裁かれはしない。
映像や動画の需要が伸びている昨今、撮影に伴う法律規制も多々ある。例えばドローンが誰でも買える値段になったのは最近だが、そのせいか悪用する人が増えた。その時社会は、悪用を裁くため法律を作った。その結果、目に見える悪用は減ったが、例えば撮影用ドローンを無許可に使用し、作られた映像作品は多々ある。
用途が悪くないだけで、その法律は無視していいのだろうか。
その作品をポートフォリオにのせて、新規の仕事からの収入で食う飯は美味いのか。
自分は疑心暗鬼になっていた。ドローンのような分かりやすい悪から、ブラックボックス化することで見えにくくする悪のような商売が沢山あることを知ったからだ。
そうして自分は、価値の感じない仕事からお金を貰っては、そのお金で散財する時期もあった。そして心は荒んでいき、仕事を選ぶ以前に、仕事ができなくなった時もあった。
人生が変わった日は突然だ。
「今月の家賃が2000円だけ足りない。」
そんな日が突如訪れた。支払いは明日。それなのに2000円足りないのだ。散財した自分が悪い。気づいたら自分は、SNSに「2000円貸してください」と投稿していた。
何も考えたくなく、昼寝を始め、夕方に起きた時だ。3人の友達から、2000円が送金されていたのだ。つまり自分は6000円を手に入れた。
「やった。これで家賃返せる」
と思った瞬間に、残りの4000円だけで月の半分を生活しなければいけない事実を覚悟する。
ただ同時に、本来払えないはずだった家賃が払える状況になり、4000円以内なら家賃を気にせずに使える自由に気づいた。
心底喜んでいる自分にも気づいた。そして同時に違和感にも襲われた。虚無な仕事で得た60万円より、友達が恵んでくれた合計6000円の方が嬉しいとなぜ感じたのか。
その瞬間、過去自分が社会を恨んだ日が頭の中に映し出されては、その投影されている全てを視覚だけではなく聴覚、嗅覚、味覚まで感じ取ろうとした。
コンビニでおにぎりを送金してもらったお金で買い、食べたら止まらなくなり、気づけば泣いていた。
久しぶりに美味しいと感じた。
虚無な仕事の60万で食べる高級焼肉より、友達に送ってもらった6000円で食べる一つの明太子おにぎりの方が、何倍も美味しく感じたのだ。
その日からだった。自分が生きる楽しさに再現性を感じたのは。
ただ脳死に仕事をこなして受け取った報酬で贅沢をするより、何かのために、時には喧嘩して、時にはお金がなくても、生きている実感を感じたのは。
そこから自分は、社会への理解を深める努力をした。自分がなぜあのような状態になってしまったのか、原因を知りたかったのだ。
自分の持ち合わせてる障害から、障害の社会モデルがあると言う話から、今の社会になるまでの歴史から、気付けば今後どうやったら社会がより多くの人が心地よく生きれるかという仮説まで。
今現在の資本主義は、消費を加速させることで成り立っている側面が強い。ただ消費だけを加速させると、より消費されやすいモノを作るゲームになり、その結果が地球温暖化などを進めている実態がある。
だからこそ今度は、地球と社会どちらも幸せな方向を探し、モデル化しなければいけない。
言語化の仕方を変えど、今の自分になる前の自分を形成したのは、あの日だった。
振り返って考えると、お金には色がある気がした。それは簡単で、自分にとってお金の価値が違う事象が起きて、識別できるようになったから。
今、自分の手元にあるモノは、全て誰から貰ったお金で買ったモノか言える。例えば電子レンジはボクの想いが乗ったRe:youthの仕事だし、首から下げているライカのカメラは、沢山喧嘩して、時には沢山笑って、時には迷走しながら進めたあのプロジェクトだ。お金を使った先まで識別できるぐらい、お金の色というのは多種多様に感じる。
現代の資本主義はお金がベースだけど、ボクにとっての大切にしたい資本は意識だ。現代医学でも未だ解明しきれていない、脳から送られる電気信号だ。それが自分を人間として生きている実感を与えてくれる。
それがボクと貴方を与えてくれる。
貴方が今手にしている、そのスマホは何色のお金で買ったモノですか?よかったら今度、聞かせてください。
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