みなさん、おはようございます!いつもわたしたちのガイドブックプロジェクトを応援いただき、ありがとうございます。先日大変ありがたいことに、支援総額が160万円を超えました!当初の目標を達成したあとも、ご賛同・ご支援いただき、本当にありがとうございます。
実は中の人は先日、朝鮮大学校の学生たちと一緒に埼玉県日高市にある高麗神社へフィールドワークに行ってきました。今まで知らなかった歴史が学べた有意義な時間となったので、今回の活動報告ではその一部をシェアしようと思います!
今回のフィールドワークのスタート地点は、西武鉄道池袋線の高麗駅。駅名の高麗(こま)は、昔この地域の地名だった「高麗郡」に由来しており、1889年まで使用されていた名前です。「高麗」は、古代朝鮮の三国時代の「高句麗」を指しています。716年に駿河や甲斐など東国(今の関東)の7か国から、1799人の高麗人が移住して郡をつくり、以来高麗郡は1889年まで存在していたそうです。
高麗本郷には「巾着田(きんちゃくだ)」という水田地帯があります。名前の通り、ここを地図で見ると川が大きく湾曲していて、まさに巾着の形をしているのです!本来は直線的な形をした川だったのですが、入植した高麗人が水田をするために川の下流部をせき止めたのだとか。当時の高麗人が、非常に高い農業技術を持っていたことがわかるエピソードでした。
巾着田から少し離れた小高い場所にある、ひときわ大きな屋敷が高麗郷古民家です。「旧新井家住宅」とも呼ばれており、江戸時代には高麗本郷村の名主、明治時代には戸長や村長を務めた新井家の屋敷だそうです。屋敷内を見学することができるのですが、建設当時につくられたガラスや、馬がいた形跡など、当時の面影を感じることができました。
「この場所どこかで見たことあるな……」と思っていたら、驚いたことに現在放送中のドラマ『下剋上球児』のロケ地にもなっているそう!あの地主の立派な屋敷がこの場所で撮影されたと知り、視聴中のファンとしては思わず興奮してしまった場所でした笑。
今回のフィールドワークの目的でもある高麗神社は、高麗郡の初代郡司だった若光が亡くなったあと、若光を祀るために高麗郡の人々が建立した「高麗明神」を始まりとしています。その後若光の子孫である高麗氏によって代々守られてきて、現在に至るそうです。太宰治や幸田露伴などの文学者や、政治家も多く参拝することから「出世明神」としても知られている高麗神社ですが、日本による朝鮮の植民地支配に利用されたという歴史もあります。
朝鮮の植民地支配を強行するために、日本は「内鮮一体」を唱え、皇民化政策を推し進めました。その中で、高麗神社は「内鮮一体」を正当化するための道具として利用されたのです。こうした歴史を象徴するように、高麗神社の鳥居の横にある石柱をよく見ると、右には「朝鮮総督 陸軍大将 南次郎」、左には「昭和十四年十月建之」の字が刻まれています。この字を見て、あらためて植民地支配の暴力性を感じました。
フィールドワークを通して日本と朝鮮の歴史、とくに植民地支配の歴史を知ることができる場所が日本にもあることを改めて知ることができました。気になった方は、ぜひ一度足を運んでみてください!
今回の活動報告は以上となります。最後までご覧いただき、ありがとうございました!引き続きよろしくお願いいたします。