小野崎写真館は、明治21年(1888年)に創業し、現在までの136年間、4代にわたり続いています。この写真館の歴史は、創業者である小野崎一徳の生涯とともに紡がれています。
小野崎一徳は、文久元年(1861年)に岐阜で生まれました。彼の本名は蔵吉であり、岐阜大垣藩の士族である小野崎五右衛門蔵男の息子でした。蔵男は藩の要職を務め、幕末の動乱期には先進的な藩であり、蘭学や新技術にも積極的でした。この時代に写真技術が日本に導入されると、蔵男はその可能性を見出し、息子の一徳に写真を学ばせることを決意します。
一徳は、東京で写真術を学ぶために上京し、江崎礼二という写真師のもとで修行します。礼二は先進的な技術を持ち、写真界で名を馳せていました。一徳はその後、足尾銅山の写真撮影を担当することになります。足尾銅山は当時、重要な産業であり、その記録は重要視されていました。一徳は銅山の風景や作業の様子を緻密に記録し、その技術は高く評価されました。
明治15年には、英国から乾板写真技術が導入され、江崎礼二はこれを取り入れます。彼はさらに飛行する鳩や海軍の演習など、先進的な写真を撮影し、その名声を高めました。この技術に注目したのが足尾銅山の古河市兵衛であり、腕のよい門下生の派遣を江崎に依頼するが、その時推挙されて足尾を担当したのが一徳です。
一徳は足尾に定住し、「光彩堂」という写真館を開業します。彼は銅山の御用写真師として名を馳せました。その後、一徳は結婚し、家族とともに足尾で暮らしました。彼の写真は、足尾の地域史や銅山の発展に欠かせない資料として後世に残し、その活用が検討されています。
一徳の死後、小野崎写真館は3人の代を経て、現在も営業を続けています。
更に詳しい内容は 小野崎写真館 先代 小野崎一徳 「足尾銅山御用写真師」
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写真は足尾鉱業事務所と社長来山の時の仮装行列(大正7年撮影)