【コロナ禍で中止された『東山盆踊り』を5年ぶりに再開します。今年80年目を迎える会津伝統の盆踊りです。どうかご支援をお願いいたします。】
この写真は東山盆踊りの象徴の大ヤグラです。日本一とも称される高さ13.5メートルの巨大な大ヤグラ。しかも温泉街を流れる一級河川、湯川の水面に建てられる、通常では許可されない大ヤグラです。
この大ヤグラを囲んで、8月1日から4日までの4日間、80年続いてきた盆踊りです。盆踊りの唄はもちろん「会津磐梯山」。唄うのは東山芸妓(げいぎ)のお姐さんたちです。軽快なお囃子と三味線のリズムに乗って、会津の夏の風物詩『東山盆踊り』を、再び会津を愛してくださる皆様にお届けしたいと思います。
●会津東山温泉の伝統行事「東山盆踊り」を守りたい
私は、福島県会津若松市の東山温泉で、東山温泉観光協会長をしております平賀茂美と申します。盆踊り実行委員会の委員長を勤めることになりました。
東山温泉は、いまから1300年前の奈良時代に行基によって発見されたという伝説をもつ古い温泉地です。江戸時代には、山形県のかみのやま温泉や湯野浜温泉とともに「奥羽三楽郷」に数えられ、東北の多くの温泉地が湯治中心だった時代に、すでに観光や慰安の色あいが強い温泉地だったといわれています。
会津若松市のシンボル「鶴ヶ城」から車でたった10分の距離にありながら、湯川渓流沿いに旅館が立ち並び、周囲を自然林に囲まれた山あいの温泉地です。とても中心市街地との往来が便利なところから、地元の人の日帰り温泉や宿泊のお客様の街中観光が手軽に楽しめる温泉地です。
●「東山盆踊り」は、昭和19年の終戦間際に、東山の旅館に疎開してきた1,393人の子どもたちのために始まりました。
「東山盆踊り」は、昭和19年、戦争末期に東京下谷区(現在の台東区)から疎開してきた学童1393人を受け入れたときから始まります。東山に疎開してきたのは、当時小学3年から6年生の女子児童たちでした。親元を離れ旅館で勉強していた子どもたちは、食べるものも十分でないなか、友達と一緒とはいえ親元を離れて暮らす生活に心寂しい思いをしていたそうです。
そんな子どもたちを少しでも慰めようと始めたのが、いまの「東山盆踊り」の始まりです。以前は町内の別の場所で盆踊りがされていたそうですが、児童たちが疎開生活をしている旅館の、真ん中を流れる湯川のなかに櫓を立てて盆踊りをしたそうです。戦況の悪化が伝えられるなか、開催に反対する声もあったそうですが、子どもたちの心情を不憫に思った温泉街の大人たちが尽力して開催にこぎつけました。後年、当時疎開していた老婦人が東山温泉を訪ねてきました。おばあさんは当時の記憶をたどりながら、「この旅館だったかしら」と川沿いの旅館を捜し歩くのを、私がご案内したことがあります。懐かしむように小さな声で語る老婦人の思い出話に、私も心が動かされたものです。
昭和19年夏、現在の「東山盆踊り」は始まりました。始まりは厳しく辛い時代でしたが、当時の人たちの子どもを思いやる優しさから始まったのが、いまに伝わる「東山盆踊り」です。今年でちょうど80年目を迎えます。
その後、東山温泉は、平和な時代の訪れとともに高度経済成長時代下での観光ブームの流れに乗り、昭和40年代には大勢の観光客で賑わう福島県を代表する温泉地となりました。
「東山盆踊り」も盛況を呈し、8月お盆の1週間は、盆踊り会場からは「会津磐梯山」の唄声と人々の歓声や笑い声が夜更けても絶えませんでした。盆踊りに行くために市民が大勢押し寄せ、市街地から東山温泉に至る道筋には市民の歩く行列がみられたそうです。
●東山温泉の自慢は「東山盆踊り」と「東山芸妓さん」
かつては日本中の温泉地にいた芸妓さんですが、いまでは「東山芸妓」が唯一、昔のままの形式で残った芸妓かも知れません。昔の形式とは置屋さんや見番がいまでも残されていることです。東山の芸妓さんは「置屋さん」に所属しなければお座敷に出られません。いま16名の芸妓さんが9軒の置屋さんに所属しています。最近は10代の若い芸妓さんも複数人誕生しており、彼女たちも日々踊りや芸事の修行に励んでいます。東山温泉には、国内では稀少な存在となった「芸妓文化」が脈々と受け継がれています。
会津東山芸妓が唄いついできた「会津磐梯山」も普通の民謡とは異なる特別な自慢です。
(以下、芸妓さんから唄や盆踊りについていただいたコメントになります。)
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現在、町の盆踊りで唄われている「会津磐梯山」は「民謡・会津磐梯山」であり、昭和9年に小唄勝太郎によりレコード化されたものがもとになっています。
一方で東山盆踊りの「会津磐梯山」はレコード化される以前の唄い方を受け継いでいる要素が深く、今となってはそれを唄えるのは東山芸妓だけです。その雰囲気は民謡とは全く異なり、一番を上の句、下の句に分けて唄い、節回しやお囃子のタイミング、発声はお座敷で唄われる長唄や端唄の様に。まさに独特です。民謡に慣れている方からすると違和感があり、「民謡の方に習った方がいい」と言われたことも。
しかし、悠久の時の中で庶民や芸妓衆で唄い継がれてきた何とも言えない「味」は、さらに私たちの心を揺さぶります。芸妓たちの艶やかな声と唄い方が、東山温泉の提灯と川のせせらぎと合わせ、ノスタルジックなハーモニーを奏でます。東山盆踊りがなくなってしまえば、芸妓衆の「会津磐梯山」を披露する機会がなくなってしまい、唄い継がれてきたものは、その魂とともに消えてしまいます。
東山盆踊りは、こういった故郷を愛する魂を継承する儀式でもあります。人々は困難に陥った時、最後に原動力となるのは自身の誇りです。その誇りは、故郷を愛する気持ちであり、風景であり、綿々と連なる人々の営みです。これらは体験することでしか得ることができません。今、子供たちが大人たちと体験を共有し、心に刻むことで、強く生きていくことができるのだと思います。コロナを機に、こういった体験が全国各地で消えて行っています。その計り知れない損害を、今を生きる大人が理解し、継承していくべきです。
どうかこの会津東山芸妓だけの文化を次に繋げられるようお力添えください。
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●川の真ん中に、高さ13m50cmの大ヤグラが堂々と建ち、東山芸妓さんたちが唄う『会津磐梯山』の曲にあわせて踊ります。
現在の大ヤグラは、昭和42年に福島民報社から寄贈されたもので、なんと川の水面から13.5mもの高さがあり、芸妓さんが唄う2階の舞台は30畳もある広さです。ここでは芸妓さんの踊りなども披露されます。ヤグラから四方に伸びた提灯やヤグラ周りを飾る提灯など、およそ1000個の提灯に明かりが入るとそれは壮観な眺めです。またヤグラの周辺には、食べ物のブースや昔懐かしい露天が軒を並べます。
会津の他の地域でもこの時期になると会津磐梯山の民謡にあわせて盆踊りが開かれますが、ここ東山温泉の盆踊りだけは、芸妓さんの三味線伴奏とお囃子の笛太鼓で芸妓さんが唄いますので、節まわしなど他の民謡歌手の唄う会津磐梯山とは一味も二味も違います。また踊りの輪に芸妓さんが加わりますので、踊り方が分からない観光客の方にも芸妓さんがやさしく踊りの手ほどきをしてくれます。外国の方も多く見かけるようになり、日本のBON-DANCEを愉しんでいました。
●コロナ禍による開催中止と再開に向けた思い
ところでそんな「東山盆踊り」ですが、コロナ感染症蔓延の影響で、2020年から4年間開催することが出来ませんでした。コロナ禍で疲弊した地域経済の状況から開催資金の調達が難しくなったのと、長い中止期間の間に、祭りを支える地元の人たちが少なくなってしまったことなどが原因です。もともと開催費用を賄うための資金を温泉街の旅館さんや地元企業さんからの寄付金に頼っていましたが、温泉街もダメージからの回復途上で必要な資金を賄うことは出来そうにありません。また4年前まで使用していた1000個以上の大小提灯が、劣化で壊れたり破れたりしたため、提灯も新調しなくてはなりません。そんなこんなで開催にはおよそ1000万円が必要となりました。
幸いにも、会津若松市に進出している企業様や有志の方々のサポートにより、このたびクラウドファンディングによる資金調達の方法をご紹介いただきました。もしこの方法で、終戦間際に疎開児童のために始まり、今年で80年目を迎える「東山盆踊り」が続けられるのなら、こんな嬉しいことはありません。
振り返ればこの「東山盆踊り」は、2011年3月に発災した東日本大震災の時も中止の瀬戸際にありました。おそらくその時中止していれば、もう二度とこの形で開催することはできなかったはずです。なぜなら一級河川のなかにヤグラを建てることが基本的には許可されないことだからです。許可されていたのは、この盆踊りが戦前から綿々と続く伝統行事で、東山温泉だけでなく、会津の夏の風物詩として有名だったことから特別の許可を得ていたためです。
大震災直後の東山温泉では、原発事故の影響で全町避難を余儀なくされた、大熊町の方々が避難生活を送られていました。5月には最大2200人の方々が旅館に二次避難されていましたが、8月頃でも半数近い皆さんが東山温泉街の旅館で生活されていました。
東日本大震災では、県内でもたくさんの方々が家を失うなどの被害を受け、また多くの犠牲になられた方々がいらっしゃいました。こんな時に盆踊りなどをやるべきではないと多くの人が思っていましたし、とくに先行きが見通せない不安だらけのなかでは、お祭りの資金を集めることなど土台無理なことだと思われました。そこで早々と東山盆踊りは中止することになりました。おそらく来年以降も開催は無理で、もういままでの形での踊りは出来ないと覚悟しました。
ところが当時、大震災を機に会津若松市に事務所を構えたアクセンチュア―(株)の中村センター長から「是非応援するから盆踊りを続けてください。」と熱く説得されたのです。その時、中村さんはこう言って私たちを励ましました。「この東山の盆踊りは、戦時中の東京が空襲にあうなか、親元を離れて疎開してきた子供たちを励まし慰めるために始まったと聞きます。であればいまも同じことでしょう。いまこそ避難されてこられた大熊町の方々をはじめ浜通りの方々を励まし、慰め、連帯の気持ちを示すべきではないですか。資金は私たちが何とかするので盆踊りを中止しないでください」と。この言葉に私たちは「東山盆踊り」の原点を思い出させていただきました。中村さんは一昨年お亡くなりになりましたが、いまでもその時の言葉と盆踊り期間中の楽しげな彼の表情が忘れられません。
コロナ禍で4年間の中断を余儀なくされましたが、やはりこのまま終わらせたくはありません。東山温泉観光協会員へのアンケートでも78%の方から続けて欲しいといいました一番多かった理由は「東山温泉で自慢できるものだから」でした。確かに私たちはいま少しの余裕もない先行き不安のなかにおりますが、しかし地域の人たちが自慢できるものがあるうちは、精いっぱい頑張ろうと思います。
●最後に
東山温泉は旅館数16軒の温泉街で、ここに住んでいる住人は70人程度の小規模集落のような街です。でも観光都市会津若松市の奥座敷として、コロナ前では年間50万人の利用客がある温泉地です。また再び活気のある温泉街にするために、まず私たちの自慢の「東山盆踊り」を再開いたします。5年ぶり、かつ80周年という節目になるということもあり、大きく新聞記事にもしていただきました。たくさんの人のサポートを得て、自分たちも懸命に努力して、80周年の節目となる盆踊りを開催しますので、どうか皆さまお力をお貸しいただきますよう、心からお願い申し上げます。
●【6月5日追記:東山で生まれ育ち、生きている芸妓の思い出】
二十代のころから長年にわたって東山盆踊りに参加し続けているベテランの芸妓さんからコメントをいただきました。
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私は子供の頃、パークホテルさんの近くに住んでいました。夕方、盆踊り開催の合図の花火が上がると嬉しくて、盆踊りに行けることが待ち遠しくいたものです。
子供の踊り時間内でも、大人がいっぱいになると、私達はお菓子をもらって帰る位、踊りの輪が三重、四重になっていました。市内から来るバスも混雑していたし、歩いてこられる人達もいました。それはそれは、凄かった様子が懐かしい。そして当時は、出逢いの場でもあったと聞きます。その位、みんなの楽しみの場でもあったんだと思います。
磐梯山の唄を広めた、小唄勝太郎さんが東山に来て唄ったら、上の句下の句の唄い方が出来ずに止めてしまったと、子供の頃に聞いたことがあります。私も唄に混ぜてもらったばかりの頃は、なかなか難しく苦労しました。三味線も同じ事を引き続けるのですが、これもまた難しい。
櫓から、踊ってる方々が楽しんでるのを見ると、唄う方も楽しくなり、合いの手を多めに入れたり、気持ちも乗ってくるものです。毎日、大変だ!と言いながら盆踊りに出ていきますが、終わってしまうと毎年、秋風の涼しさと合間って何となく寂しい気持ちになりました。そうすると会津に秋がきます。
東山に生きる人にとって、先人を思い、楽しみ、季節を感じる大切な行事です。そして、私達『会津東山芸妓』にとって、大切な文化であり伝統芸能です。
これからも、観光の方、会津の方々の楽しみであり、私達の暮らしの営みであり、この地に残していきたい盆踊りです。
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●リターンについて
「東山盆踊り」の復活を支援してくださる皆様に、心からの感謝を込めて多彩なリターン品をご用意いたしました。支援の金額に応じて、以下のリターンをお楽しみいただけます。
・提灯への名入れと飾り付け
・東山温泉の宿泊、飲食等利用券
・大ヤグラの貸切プラン
この他にも東山の魅力を楽しんでいただけるようなリターン品をご用意しています。
ぜひご支援いただき、共に「東山盆踊り」を復活させましょう。
●資金の使い道
・クラウドファンディング手数料 約1,800,000円
・リターン品の手配 約3,000,000円
・大ヤグラの設置、解体費用 約3,000,000円
・提灯、備品の新調、修繕 約2,200,000円
●スケジュール
5月 クラウドファンディング開始
7月 クラウドファンディング終了
8月1〜4日 東山盆踊り
9月〜 リターン発送
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