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一昨日は豊岡劇場にて波田野州平監督『私はおぼえている』を観てきました。
©現地点プロジェクト
監督の言葉
10人の老人たちに、最初の記憶から現在に至るまでの記憶を聞くことにした。
彼らはその長い人生を振り返りながら、わからんだろうと何度も私に言った。
その通り、彼らの人生はあまりに固有で、軽々しくわかると言えることなどひとつもなかった。
そして私は、目の前にいるこの人は、私の知らない膨大な時間を使って今この場所まで
たどり着いたのだ、と実感した。これは、他にない唯一の生を生きる人間たちの記録です。
波田野州平監督と案内役の豊岡映画センター杉本悠さん
カメラを前に「おぼえていること」を語る10人の登場人物。
戦前から現在までの記憶の断片が、身体記憶としてカラダから湧き上がる、
その一部始終を収めた224分の大作。
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撮影されたのはコロナ前だったのですが、
すでに5人の方が鬼籍に入られました。
そのひとり、竹部輝夫さんは、撮影当時92歳。
東伯郡三朝町中津地区にたったひとりで住んでました。
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竹部さんが最後の住民。
居なくなれば廃村、という状態。
中津ダムが1957年に造られ、
その後は「どんどん人が出て行きよった」ようです。
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「時代の流れでなぁどうしようもないわいという気持ちだったと思うな」
「出ていくっちゅうもんを止めるわけにもならんし、止めようもないし」
「できればもうもう一度、復活できたらなぁと思う気持ちはあるけどもうそれは夢だいな」
「もう元には戻らん おそらく」
「なんとか自分で身の回りができる間は、ここがええなと思うですわな」
「やっぱり自分の生まれた土地ちゅうもんはいつまでも忘れられんですわ」
©現地点プロジェクト
ひと言ひと言が、抉られるような気持ちになります。
これが、「静かに閉じる」のリアルな現実です。
『京極湯』もまた、店主福井さんの心の中は、
このような台詞が乱れ飛んでいることだと思います。
波田野監督の『私はおぼえている』は
ひとり語りのFIXした映像がメインです。
しかし、インサートされる、その記憶の断片からは、
カメラ前で語られている登場人物から派生した
多数の者たちの語りが重層的に響いてくるように見えます。
監督は、そのつづれ織りを表出したかったのではなかったか?
現代に生きる我々もまた、
過去と繋がっており、その先の未来へとつながっている。
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過去と現在と未来とが同席しているのが、この世界であり、
そのことに「明晰であろう」とする姿勢が大切なのだ…と。
波田野さんの映像はとてもシグナル的です。
常になにかの伏線を秘めたような、含みのある画が流れます。
「トナール」は「世界」をつくる。
それは、話すというしかたでだけ世界を作る。
そうした言語的な世界認識の上において人間は
この世界のなかにみずからの世界観を打ち立てていき
そこに安住しようとする。
けれども〈世界〉は、
そうした「世界」の〈裂け目〉から
たえずその人間をゆさぶりにかかってくる。
(『気流の鳴る音』真木悠介より)
©現地点プロジェクト
目の前の事象を言葉にし、明文化することで
世界を把握していくのが人間の有り様です。
しかし、その認識は常に「世界」からズレが生じていて、
そのズレが補正されずに、「社会」は混沌を極めていく。
『京極湯』が静かに閉じること、
それもまたリアルな現実です。
しかし、そのシグナルから獲得できるモノは何か?
映画『私はおぼえている』は多くの示唆を与えてくれました。
過去とつながる現代の場所から、これからの未来を紡いでいく。
その働きかけがとても大事なのだと、ボクは思います。