皆さん、こんばんは
MYK GROW UP、山崎マイキのマネージャーです。
今回は、プロジェクト最初の時に記載していた山崎マイキの過去について皆さんに再度知ってもらおうということで長いですが、お時間ある時に是非、ご一読いただけますと幸いです。
ぼくは、差別がとても嫌いです。
ぼくもかつては、いじめや差別に悩み、周りに馴染めない孤独を感じていました。
両親が日本、ブラジル、イタリア、ポルトガルの日系ブラジル人の間に生まれ、国籍はブラジルの日系ブラジル人として日本の小さな団地で育ちました。
幼少期は、親に連れて行ってもらった戦隊モノのヒーローショーを観に行って、ツーショットを撮ってもらって少し公園で遊ぶ。そういうことが楽しくて仕方がなかった時期でした(笑)
学校には、友達が少なく、独りの時間が多かったから唯一好きな洋楽を毎週のようにYoutubeでBillboardランキングをチェックして、洋楽を聴いて楽しんでいたのを覚えてます。洋楽が大好きになったキッカケは当時小学生だった僕が初めて聴いたNe-yoの『Sexy love』に衝撃を受けたのがキッカケでした。
外見の違い、生活の違いで仲間外れにされる事が多かったです。うまくみんなと一緒に馴染めなくて女の子たちから集団で罵倒され、男の子たちはぼくと遊んでくれないどころか見えてない存在の様な扱いをうけた事が多々ありました。いわゆる、「いじめ」です。「どうしてぼくだけこんな風なの?」、「みんなと何がちがうの?」と心の中で思ってても親には相談できませんでした。そんな生活を生きてきました。周りの様子は伺うし、目立つことが嫌いだったし、勇気をもって発言をすることができませんでした。
差別を受けてきた小中学。高校生になってからいじめ→仲良くしようとする。に変わり、「人ってこんなコロッと手のひら返しをするんだ。」とその時に初めて人の感情が変わる瞬間を見ました。高校に上がってからは日本語とポルトガル語の通訳士を目指して勉強を頑張りました。
お金がなかったので、奨学金で大学進学の道もありましたが借金を抱えて大学進学は嫌だったので諦めました。リスクを負うのであれば、逆にこの見た目を武器にモデルの仕事をしようと思った。高校卒業したばかりの僕にはこの決断はとても勇気が必要でした。
親からもらったこの外見を使ってできることしようと思いました。本気で頑張る為に、当時付き合っていた彼女に別れを告げ、高校卒業した年の秋頃、モデル事務所に所属して芸能界で頑張る決心をしました。
あの日の決心がなければ今こうやってこの話を皆さんにお伝えすることはできてません。
そして、まさか数年後に自分が衝撃を受けたアーティストの様にアーティストを志す様になるとはこの時は思いもよりませんでした。
To be continued。。。