中野チャンプルーフェスタ副実行委員/東京中野真南風エイサー初代会長
上原 慶さんから応援メッセージが届きましたのでご紹介します。
(写真:上原 慶)
上原さんが沖縄でどんな日々を過ごして来たか・・・
まずはじめに「ももやまエイサー祭り」実行委員の豊田と上原さんは幼馴染であります。南桃原青年会の前身となる南桃原自治会で共に道ジュネーをした友人です(当時15歳~18歳)。
※道ジュネーとは「沖縄のお盆で、独特の風習があり旧暦の7月13日~7月15日の3日間で行われます。青年会がエイサーを演舞して練り歩き、先祖供養としてお見送りをする行事のことです」
そんな道ジュネーですが、5~6時間、地域を練り歩きエイサーをするものですから、踊るのがきつかったけど、地域の人に支えられ、みんなと一緒にいるのが楽しかったのを今でも覚えています。
上原さんとは中学校で同じ陸上部とバスケット部で一緒に汗をかいた仲です。上原さんはキャプテンも努めておりました。当時から団体行動やチームワークを大切にしリーダーシップに長けていたのを覚えています。
そんな上原さんはエイサーはもちろん、陸上やバスケットの傍ら子供の頃から「絵・漫画」を書くことがとても好きな一面もありました。友達みんなからは「うまいね!」とよく褒められていましたね。将来は「イラストデザイン・漫画家」になりたいと漠然と思うようになり18歳の高校を卒業後、東京へ上京したのです☆
その後については・・
美術の見識を深めるため、国立の東京藝術大学を目指しており 、受験した当時は倍率40倍のデザイン科。2浪~3浪が当たり前の世界。現役では合格できず東京に出て浪人生活を送ることになったとか...。予備校で出会ったのは全国から集まった絵の表現を突き詰めようとしている人ばかり。好きというレベルでなく、絵で自分をどう表現するかという姿勢と覚悟に驚かされたとも語っておりました。
とりあえず生活するためには仕事して生活費を稼がないといけないので、アパレルにも興味があったことから、株式会社ファーストリテイリング(ユニクロ)に契約社員として働きはじめ、日頃の業務は販売や在庫管理が中心。仕事と生活は出来ていましたが、休みに自分を磨くための「デザイン制作することもなく」、環境に甘えて惰性で生きていたとか言っていましたね。
そんか中でも日々の楽しみはあったとか。東京は駅ごとに街の雰囲気が変わり、皇居や寺社仏閣など、特に近代史のロマン薫る史跡が今も多く残っていることを知り、歴史にも興味あった上原さんはただ巡るだけでも心が踊ったとか... 。
街歩きのおかげで、現在の都立九段高校がある場所は関東大震災前、最後の琉球国王・尚泰王が住んでいたなども知ることができ「沖縄」と「東京」「戦前・戦後近代史」に興味を持つことができたお陰で今の活動につながっていくのです。
今に繋がる転機となった出来事とは・・・
上京して数年が過ぎ去ったころ、休みの日に降りた中野駅。目の前には街のシンボルでもある複合施設の中野サンプラザがあります。その前に差し掛かった時、懐かしい太鼓と三線の音色が聞こえてきたとか....
それはエイサーだった。
(写真:東京中野チャンプルーフェスタ)
足を止めて観ていると、当時15歳の南桃原自治会で習っていた地元のエイサーとスタイルが全く違うではないか!念仏踊りを入れて独自に進化させたというか、それが日本らしさも混ざっていて、すごくカッコ良かった。
(写真:東京中野チャンプルーフェスタ)
聞けば「東京エイサーシンカ」という団体で、当時その代表を務めていたのが、金城吉春さんという方で、東京中野で「あしびなー」という沖縄料理店を経営する傍ら、沖縄民謡やエイサーの普及活動にも力を入れている方なんですよ~って僕(豊田)が東京へ遊びに行った時に「あしびなー」でお酒を交わしながら上原さんと熱く語ったのも今でも覚えています。その節は上原さんならびに金城さんには大変お世話になりました^_^
上原さんは、金城さんと飲みながら語るうちに、1970年代に沖縄から集団就職で上京した若者達の居場所となる「中野区・沖縄郷土の家」(1970年開設~1984年閉鎖)が開設されたことで、多くの県出身者が中野に集まるようになり、沖縄料理店やエイサー団体などが増えたことなど“中野のオキナワ”を教わることができたとおっしゃていました。
その後にも岐路が・・・
上原さんが生まれ育った地元ではエイサーは「地域貢献」という考えがありましたが、当時在籍した団体では「沖縄コミュニティのみ」で楽しんでいるように感じていたとか...
歴史を知れば先輩方が「沖縄コミュニティ」を創り守り続けてきたおかげで自分たちの世代につながる事は分かるのですが、当時はまだまだ知識不足だった上原さんは金城さんに「中野地域の人と挨拶さえできていない、もっと地域のイベントに顔を出して、絆を深めるべきでは?」と意見したそうです。
金城さんはとても寛大な方で上原さんの意見に共感してくれたそうです。それがきっかけで上原さんの意思が固まり周囲の人達からは反対もあったそうですが、2005年に上原さんが代表で仲間とともに「東京中野真南風エイサー」という新団体を立ち上げたのです。
(写真:東京中野真南風エイサー)
(写真:後世を担う子供たち)
それからは中野のお祭りや商店街のイベントに積極的に参加させてもらい、エイサーを披露して地域の皆さんに喜んでもらえたことが嬉しかったそうです。
徐々に上原さん達の存在が知られるようになり、その年に始まった「中野チャンプルーフェスタ」への参加をきっかけに、エイサーが中野区認定の観光資源にもなりました。
(写真:2024年中野チャンプルーフェスタ)
その後、上原さんは実行委員を経て副会長になり、中野区の商店街チャレンジ事業やシティプロモーション助成事業等、行政からも助けをいただきながらフェスだけでなく、「中野のオキナワ」の歴史を掘り起こす活動にも力を入れています。
調べていくうちに「郷土の家」は沖縄県以外の道府県もあったそうで、中野区は特に沖縄と新潟出身者が多く活動も活発だったそうです。
当時の事を知っている人も東京を離れたり他界されたりと少なくなっているので取材も非常に苦労が多いですが、辿りついた話はとても貴重なものばかりとおしゃっていました。
(写真:上原 慶)
今後の目標は?
エイサーの美しさ、楽しさ、多様性を踊りだけでなく色んな形で後世に伝えていくことです。
次世代のエイサーの担い手が少ないのは事実ですし、今の主流は「大太鼓・締太鼓」「パーランクー」のエイサーですが、エイサーを存続させるためであれば原点である「多様な表現方法があってもいい」と思っています。
そもそもエイサーは各地域でまったく違います。例えば、地域の伝統文化、曲目・衣装、踊りやフォーメーションなど「太鼓エイサー」が唯一の答えでもありません。地謡(三線奏者)を踊り手よりも全面に出したり、太鼓はなく女の子の手踊りだけでやったりしてもいい。
それも「エイサー」だよと創意工夫をする一方で、 “形なし” では困りますから、きちんと沖縄の青年会からエイサーの魂や軸を沖縄の方から正しく学び続けて思いを曲げることなく伝えていきたい。
踊り以外の伝え方としてはワークショップを開催していきます。「ダンボールでエイサー締め太鼓を作ろう」という回は非常に好評で、ウチナーンチュではなく東京出身で三線奏者として活躍している伊藤淳さんのアイディアから生まれたとかで、このアイディアはのちに沖縄の方が持ち帰り商品化されるほどになりました。
残念ながら上原さんがお世話になった金城吉春さんは21年9月に亡くなられてしまいましたが、生前、金城さんは活動を通して「うちなーんちゅの居場所を作りたい」と仰っていました。
1970年に自宅を開放し「沖縄郷土の家」としてくれた故・金城唯温さん・静子さんご夫妻もそうだったと思いますが、その為には根気強く、長い視点での取り組みが必要です。
(写真:上原 慶)
最後に上原 慶さんからメッセージ!!
「念願は人格を決定す。継続は力なり」
私自身、祭り中心の生活にするべく仕事を選んでしまいましたが、現在は学生時代から勉強してきたデザイン関係の仕事で生計を立てられています。
「沖縄と祭りとデザイン」という妙な組合せは自分らしく選択してきたのだなと感じています。
上京して東京で生活を送る中で多くの才能ある人達が途中で夢を諦め辞めていくところを何度も目にしました。今、改めて思うのはそれぞれの歩み方で、継続することが大切だということです。
私は東京に出たことで選択肢を広げることができ、ウチナーチュらしさを認識でき、人とは違うアプローチで人生を切り開くことができました。
東京は色んな人がいるのが当たり前であり、多様性、寛容さがある場所。
是非、色々な人と出会い、物事を体験することで、視野や価値観を広げてもらいたいです。
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