皆さん、上方浮世絵をご存知でしょうか?
浮世絵というと北斎や歌麿を連想しますが、上方歌舞伎が盛況だった時代に役者絵を描いた絵師が上方(大坂)でも活躍しました。その名手が浅山芦国です。心斎橋にも近い安堂寺町五丁目に住んで享和から文化年間に活躍し、読本の挿絵や芝居の看板絵も得意としたとされ、門下も多く、大坂で役者絵の一派を形成しました。
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*浅山芦国画「弁けい 嵐吉三郎」(道頓堀中の芝居『御所桜堀川夜討』)1816
その石碑が、昨年、大阪市天王寺区下寺町の円成院の無縁仏から見つかりました。石碑に彫られた絵は芦国が描いたと思われ、画風がしのばれます。けれども保存状態は良好ではなく、このままでは剥落して石碑自体がなくなってしまいます。
芦国の碑を朽ちさせていいのか? なんとしても残したい! 大切な石碑の保存方法を探りました。そんな折り、公益財団法人美術院国宝修理所の八坂寿史工房長が手弁当での修復を申し出て、一ヵ月をかけて表面の修復が完了しました。
修復作業の過程はこちら
▼浅山芦国(あさやま あしくに)とは
浅山芦国とは、享和元年(1801)から作画をはじめ、文化年間(1804~1818)を中心に大坂で活躍した浮世絵師で、上方浮世絵において「芦国派」とも称される一大流派を築いた人物です。
芦国が活躍した文化年間といいますと、江戸の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849)が読本(よみほん)の挿絵を精力的に手掛けていた時期と重なります。芦国も同様に、読本や絵入根本(挿絵入りの歌舞伎の脚本)の挿絵を描き、役者の錦絵や劇場絵看板等の肉筆画を次々に発表しました。芦国の読本挿絵は北斎作品から強い影響を受けていることが先行研究で指摘されており、江戸と上方の文化交流を考える上で重要な人物といえます。
また、芦国の画業においてとりわけ注目したいのが、役者似顔絵です。上方で刊行された浮世絵版画の多くは歌舞伎役者の舞台姿を描いた、いわゆる「役者絵」でしたが、芦国はその中において、役者似顔絵の名手として知られていました。そして、芦国が最も多く描いた歌舞伎役者が三代目中村歌右衛門(俳名 芝翫、1778~1838)です。芦国は三代目歌右衛門の熱烈な贔屓で、歌右衛門を称賛する版本には必ずといってよいほど挿絵を手掛けました。
ここに紹介します『芦国芝翫帖』(個人蔵、図1)は、三代目歌右衛門がはじめての江戸下り(江戸の地で歌舞伎の舞台を踏むこと)から5年ぶりの大坂へ戻ってきたことを機に制作された画帖です。画帖には歌舞伎小屋の前で、駕籠に乗る三代目歌右衛門に駆け寄る大勢の人々が描かれています(図2)。夥しい人々や提灯の数から、三代目歌右衛門の帰坂を大坂全体で盛り上げんとする当時の熱を帯びた雰囲気がありありと伝わってきます。画面手前には幟旗が大きく描かれ、さながらスナップ写真のような臨場感ある構図となっていますが、おそらくこの場に居合わせたであろう芦国が、その目で見た光景を活写したものと思われます。
(図1)
(図2)
さらに同画帖には、仮名手本忠臣蔵の高師直(吉良上野介)を演じる三代目歌右衛門が描かれています(図3)。塩谷判官(浅野内匠頭)を侮辱する「殿中刃傷の場」を表わしたものと考えられますが、判官が今まさに師直を斬りつけんとする緊張感が漂っています。素早い筆致と淡彩で構成された図ながらも顔の描き込みは丹念で、「浪花似顔画師」と称された芦国らしく、三代目歌右衛門の気迫までも描かんとした写実性の高い人物画となっています。
芦国は絵師だけでなく、戯作者(戯作とは、洒落本や滑稽本などの通俗小説のこと)や、布屋忠三郎の名前で書肆(書物を出版するいわゆる版元のこと)としても活動し、その多彩な才能を遺憾なく発揮しました。しかし、ますますの活躍が期待されていた文政元年(1818)、芦国は40歳余で人生の幕を下ろします。芦国没後は、弟子の戯画堂芦ゆき(ぎがどう あしゆき、生没年未詳)や寿好堂よし国(じゅこうどう よしくに、生没年未詳)らが上方浮世絵界を牽引しました。
(図3)
芦国の画号について
芦国は蘭英斎、青陽斎、狂画堂とも号しました。
「芦国」の表記も様々で、あし国、あし洲、芦洲、蘆国、蘆洲(すべて読みは「あしくに」)などが確認できます。
▼浅山芦国の石碑を守り伝える意義
1.貴重な研究資料として
円成院(大阪市天王寺区)に安置されています芦国の石碑には、以下の碑文が刻まれています。
蘭林齋門葉號 浅山蘭英齋後 号狂画堂蘆國 法名釈順清
「蘭林齋門葉」とあるように、芦国は大坂の絵師である須賀蘭林斎常政(すがらんりんさいつねまさ、?~1807)の門人であったことがわかります。蘭林斎は大坂の狩野派絵師である大岡春卜(おおおかしゅんぼく、1680~1763)の門人であったと伝わるため、芦国もまた、狩野派の系譜に連なる絵師だと、この碑文から位置づけることができます。法名は「釈順清」とあることから、芦国は浄土真宗の門徒であったことがわかります。
石碑の正面向かって右側面には、「維時文政元年戌寅九月五日」と刻まれており、芦国は文政元年(1818)に亡くなったことが明らかとなりました。これまで芦国の没年を文政3年(1820)とする先行研究が多かったため、大きな発見となりました。さらに、芦国は40余歳で亡くなったという記録があるため、ここから逆算しますと、安永年間(1772~1781)頃に生誕したものと考えられます。
芦国の伝記は決して多く残ってはいません。その様な状況の中、芦国の画系や法名、没年を刻んだ石碑は、非常に貴重な研究上の一次資料と位置付けることができます。
2.石碑の美術的価値
石碑には碑文だけでなく、「蓮に鶺鴒」(はすにせきれい)の図が刻まれています。右下に「あし国」の落款が認められることから、芦国が生前に残した絵を基にして石碑に刻まれたものと考えられます。すなわち、石碑は芦国の作品であり、ある意味で美術品と呼ぶこともできるでしょう。
枯れゆく蓮の葉にとまる一羽の鶺鴒は、瀟洒な筆致ながらも愛くるしい姿で表わされています。役者絵が中心であった芦国の画業において、この様な花鳥画は稀有な作例です。石碑に刻まれていることを考えると、芦国の絶筆(生前、最後に描いた絵)が下敷きになっているのかもしれません。
3.上方絵の顕彰
上方浮世絵師の多くは職業絵師(絵師を専業とする者)ではなかったこともあり、生没年をはじめその素性が明らかでない人々が大半を占めます。そうした中、「芦国派」という一派を築いた芦国の石碑が現代に伝わっていることは、極めて幸運なことといえます。
芦国の石碑を守り後世に伝えることは上方浮世絵の顕彰に繋がることと考えます。
皆様が芦国の石碑を実際に訪れることで、ここ大坂の地に、上方独自の浮世絵がにぎにぎしく華やかに展開していたのだと、確かに感じとっていただき、さらには上方浮世絵に親しんでいただけることを祈念しています。
▼このプロジェクトで実現したいこと
浅山芦国の石碑を雨風から守り、上方で活躍した浮世絵師が後世に伝わるように祠を設置したい
修復した石碑を元の場所に戻すと雨風にさらされ、やわらかい和泉砂岩の碑は再び崩壊の危機を迎えます。それになにより、誰もが芦国に会える場所をつくりたい。ご住職と相談し、松屋町筋から門をくぐった場所に移設することになりましたが、風化防止の屋根や土台、石碑の管理、芦国の業績を伝える案内板の設置など、整備することはたくさんあります。その整備のための費用を今回、クラウドファンディングにてご支援賜りたいと思います。
70万円の使途
祠制作 400,000円
リターン制作費 200,000円
通信費 16,000円
キャンプファイヤー手数料 84,000円
合計700,000円
▼リターンについて
浅山芦国は文政元年(1818年)に亡くなっているので、今年2018年は浅山芦国没後200年となります。
今回は浅山芦国二百回忌・芦国石碑修復完成記念として、リターンは3種類ご用意させていただきました。
今回はALL-IN方式で募集させていただきます。仮に目標金額に達しなくても、リターンについてはお送りさせていただきます。
1.3,000円のご支援のお礼の品
浅山芦国二百回忌・芦国石碑修復完成記念ポストカード+クリアファイルのセット
ポストカード(イメージ)
表 裏
クリアファイル(イメージ)
表
裏
2.5,000円のご支援のお礼の品
3,000円の品+浅山芦国の石碑フェイスタオル(約85cm×35cm)1枚のセット
3色ありますのでお好きな色をお選びください。ご指定のない場合はこちらで選ばせていただきます。
<緑> <紫> <黄>
3.10,000円のご支援のお礼の品
5,000円の品+祠に設置するプレートにお名前を入れさせていただきます。
現在、ステンレス製の板を考えており、半永久的に残ります。
▼最後に
今回、浅山芦国の石碑を保存するために有志の方が集まっていただけました。
浅山芦国の石碑保存有志の会 メンバー
大阪ガス エネルギー文化研究所 所長 池永寛明
現代芸術家 イマタニ タカコ
東京国立博物館アソシエイトフェロー 曽田めぐみ
上方浮世絵館 館長 高野征子
舞台装置家 竹内志朗
大阪くらしの今昔館 館長 谷 直樹
キングプリンティング株式会社 代表取締役 津村武志
アートで元気 代表 津村長利
大阪大学総合学術博物館教授・前館長 橋爪節也
株式会社つむら工芸 代表取締役 浜田 晋
公益財団法人美術院 国宝修理所 工房長 八坂寿史
*名前50音順
▼浅山芦国(あさやま あしくに)とは
▼浅山芦国の石碑を守り伝える意義
執筆者:曽田めぐみ
最新の活動報告
もっと見る浅山芦国の石碑の祠基礎工事
2018/10/05 15:32浅山芦国の石碑の祠を作る作業をしています。 10月2日(火)祠を建てるための基礎工事をしました。 工務店の方がお二人でキテパキと作業が進んでいきます。 無駄のない動きに職人技を感じました。 その模様は下記をご覧ください。 22日に祠のこの上に設置する予定です。 着々と進んでいます。 もっと見る
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