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先日、打ち合わせのあとに浅草の街を歩いた。
僕が生まれ育った街と浅草はそう遠くなくて、でも遊びに来たことはほとんどなく、思い出せるのは小学校にもあがらないような年少の頃、祖母に手を引かれて行った浅草寺。
そこで何をしたのかはちっとも覚えていない。
そもそも、そんな小さな子供がお寺に行ったって面白いことなど何一つなかったのだろう。僕は歴代仮面ライダーとウルトラマンと世界地図の地名は完璧に覚えてすらすらと言える幼稚園児だったけれども、興味のないことはまるで覚えなかったのだ。
さて、そんな浅草寺に久方ぶりに立ち寄ってみたのである。
雷門をくぐって仲見世通りを歩く。外国人観光客ばかりで、喧噪に飛び交う言語は中国語、英語、そしてどこの国のものかわからぬ言葉。見上げるほど大きなタトゥーだらけの巨漢もいれば、顔を黒い布で隠したイスラム教の女性もいる。
さて、そんな路地を通り抜けて境内に入ると、目につくのはおみくじにたかる人々。なんだかしらぬが、浅草寺はそこらじゅうにくじをひくコーナーが設置されている。この手のコーナーというのは寺に一カ所か二カ所設置されているものだと僕は思っていたのだけれども、この寺はそこらじゅうにあるのだ。もう本当に、いたるところでおみくじを売っている。異様である。
もっとも、僕はちっとも寺社に詳しくないから、僕の常識が間違っていて、どこの寺もこのようなものなのかもしれないけれども。
そしてその夥しいほどのおみくじ売り場には、もちろん販売員を置くわけでもなく、ただ百円を入れる穴があって、それに勝手に硬貨を入れて、勝手にくじを引くといった、完全に良心に全てが委ねられたシステムであった。
まあ、おみくじなんて、そうそう壊れるわけでもないからさほどメンテナンス代もかからぬのだろうし、となればコストなんてせいぜい紙切れ一枚の印刷代だけなのだから、不心得者が多少いたところで充分利益が生まれるだろう。これだけ大量に設置されているのだから、よほど実入りがいいのか。
なんてことを考えながら、境内をぐるりとまわり、賽銭箱に五円玉を放り込み、するともうやることがなくなった。しかしこのままあっさりと帰るのも、せっかく来たのに面白くない。
じゃあ、せっかくだからこのやたらと大人気のおみくじを引いてみるか。
僕はそう思ったのである。
ちなみに僕は神仏はまったく信じていないし、この手のくじもろくに引いたことがない。
が、つきあいというか、その場の勢いというか、そんな感じで四度ほど挑戦したことはある。
一度目は、中学校の修学旅行で京都奈良に行ったときだった。どこか忘れたけれども、みなで引いて、そして僕は凶だった。
二度目は、大学生の頃である。夜勤明け、バイト仲間と近くの神社に初詣に行こうとなって、そこで引いた。そこでもやはり凶だった。
三度目は、フリーターをしていた頃だ。やはり初詣。恋人と共に行った神社で引いて、これは末吉だった。
そして四度目は、十年ほど前だった。母と初詣に行った神社で、凶だった。
さて、こう並べるとお気づきかと思うが、僕はやたらと凶を引く。四回中三回凶というのは、一体どんな確率なのだろう? おみくじというのは、参拝客をがっかりさせぬよう、凶の割合を落としていたり、最初から入っていなかったりするものなのじゃないか?
もちろん僕は現代社会に生きる科学の子だからこんなものがいくらかでも運命を言い当てるとは考えていない。しかし、お前の運勢は凶だ、何をしてもうまくいかない、なんて言われれば気分が悪い。いいわけがない。お前の母ちゃんでべそと言われれば、たとえでべそでなくとも腹が立つのだ。
だから、おみくじを引くのはなんとなくいやだったのだけれども、でも、今日は違うかも知れないと思った。
だって、クラウドファンディングはサクセスしたし、体験版は評判が良いようだし、今の僕はツキについている。いけている男なのだ。そんな素晴らしい僕が、凶を引くことなどあるのだろうか?
と、およそ科学的ではない自信が心に満ちていた。
そうして、意気揚々と引いたのである。
賢明なみなさんは気づいただろう。このような前フリをするということは、つまりそういうことなのだ。
というわけで、凶でした。
調べてみると浅草寺のおみくじは、全体のうち30%ほどが凶らしい。だから凶を引き当てるということはそれほど特別なものではなく、ごくありふれた結果ではあるのだけれども、やはりぴたりと引き当ててしまうと気分が悪い。
なんてことだろう。やらなきゃよかった。さっきまでの自信が嘘のようである。僕はツイてない。いけてる男なんかじゃない。凶の宿命を背負った男なのだ。
なんだか急に何をやってもうまく行かないような気分になってきた。憂鬱だ。帰る足取りもなにやら重いようである。
だから神仏は嫌いなんだ。宗教は嫌いなんだ。
本来こういったものは心を穏やかにし、人を救うものじゃないのか? 生きる苦痛を癒やし軽減する効果がなければ、人類にとって宗教など存在する価値がない。いやそれどころか、僕の場合、宗教はいつだって目の前に立ちはだかって、たとえようのない絶望や悲しみばかりを与えてくれる。
中国の禅僧である臨済義玄はこう言った。
「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん。」
まさに僕はそんな気持ちであった。
ということは、もしかしたらいま僕は解脱に片足をかけたような心境なのかもしれない。百円のおみくじ一つで得られる解脱なんかえらく安っぽいような気もするが、しかしこういうものは費用の多寡ではない。大事なのは心だ。
僕は凶を引いたかわりに少し人間的に成長した。もしおみくじの言う通り、何一つうまく行かなくてもいいじゃないか。全部駄目だっていいじゃないか。そうしたらそれをこの成長した精神でもって文章に書けば良い。僕は文章書きなのだ。ただでは死なぬ。
さて、そんな感じで今日もごちゃごちゃと考えながらシナリオを書いています。
ほんとうにシナリオライティングしかしていなくて、活動日記を書けと言われたけれど書くことがないから、浅草を散歩しておみくじを引いたというだけの内容になってしまいました。ごめんなさい。