初めまして。
佐藤倭(さとうやまと) と申します。
愛知県出身、1998年生まれの27歳です。
早速ですが、このプロジェクトの内容、これまでの私のサッカー人生、再挑戦への経緯について説明させていただきます。
少し長くはなりますが、ご一読いただけますと幸いです。
◎ プロジェクトの内容
7年前に引退をしたサッカーで、自身3度目の海外挑戦、現役復帰を目指します。
11月にオーストラリアへ渡豪し、現地でトライアルを受けて契約を目指します。
私は5歳の時に地元の少年団でサッカーを始め、20歳での現役引退まで15年間プレーしました。
引退後は小中学生年代の指導者として活動しておりましたが、この度、指導の現場を離れ、約7年ぶりの現役復帰、3度目の海外挑戦をする決意をいたしました。
◉ 支援金の使い道
•エージェント費
•渡航費
•ビザ
•サッカー用具
支援金は、上記の費用の一部に充てさせていただきます。
11月に渡豪し、2ヶ月程がトライアウト期間になります。
トライアウト期間にサッカーに集中できる環境を作りたいと思っております。
◯ 小学生

5歳の頃に地元の友達と一緒に少年団に入りサッカーを始めました。
地元の小学生皆が入るクラブで、サッカーの楽しさを学び、6年間楽しくボールを追いかけました。
4〜6年生時には地区トレセンに選ばれたりする事はありましたが、大きな結果を残すことも出来ず、周りの上手な選手達との差を感じており、プロになるという夢はぼんやりとしか頭にありませんでした。
◯ 中学生

中学生になり、地元の中学のサッカー部に入りました。
身体的、技術的な急激な成長もあり、その頃からもっと高いレベルでやりたいと思うようになりました。
タイミング良く、Jリーガーも輩出していたクラブチームの監督から声をかけていただき、移籍を決めました。
そして中学2年生から、知多SCというクラブでプレーする事になりました。
移籍後は本当に充実した2年間になりました。
クラブ史上初の夏の全国大会に出場し、U15日本代表候補、愛知県優秀選手にも選ばれました。
このクラブでの2年間が、私自身のサッカーに対しての向き合い方や考え方が変わる事に繋がり、本格的にプロを意識するようになりました。
◯ 高校生

9チームのJユースから声をかけていただき、ガンバ大阪ユースへの入団をしました。
ガンバ大阪での3年間は、挫折の3年間となりました。
同期の堂安律、食野亮太郎、小西雄大や、先輩の初瀬亮くん、後輩の谷晃生など、今現在プロの世界で活躍している多くの選手と共にプレーする事になり、初めの2年間のAチームでの出場は1試合のみで、Bチームでの活動がメインでした。
順風満帆な中学時代から一転し、現実を知る事になりとても悔しい2年間でしたが、素晴らしい環境のもと、ハイレベルなスタッフ、選手と共に毎日取り組む事で、選手としても人としても成長する事ができたと感じています。
現JFA会長の宮本恒靖さんが監督となった高校3年時には9番を着けてFWとしてプレーする事ができました。
しかし、残念ながらトップチームの昇格はできず、大学進学をする事になりました。
◯ 大学生
卒業後、地元の東海学園大学に進学しました。
進学までの経緯として、高校3年時にJ2のクラブに練習参加をしました。
8月に練習参加してから契約の保留が続き、その間に声をかけていただいた大学の強豪校は全て断るしかない状況でした。
ギリギリまで枠を空けて待ってくださる大学もありましたが、結果的に11月末に契約ができないという連絡を受け、地元の大学に進学するに至りました。
A,Bチームの振り分けの12人に選ばれての1ヶ月間の活動を終えて、予想外のCチームでのスタートとなりました。
言われていた事と異なり、頭の中は疑問だらけでしたが、やるしかないと思って取り組んだ結果、チーム内で1番点を取ってもベンチ外、紅白戦では常に人が足りない空きのポジションをやる事になり、理想とはかけ離れた時間となりました。
当時の私はそんな壁にぶつかるとは思っておらず、ユースの同期たちのプロや学生リーグでの活躍を見ての理想と現実とのギャップによる焦りとの戦いの毎日でした。
気持ちに余裕が無く自分に矢印を向けることが出来ず、ただプロになる道から遠ざかってしまっていると思っていました。
そんな不安定な状況の中、自分のゴールで勝った試合で、"点を取っただけで喜ぶな" 担当コーチからそう言われた日に、大学を辞めての海外挑戦を決意しました。
◯ メキシコ挑戦

初の海外挑戦にはメキシコを選びました。
日本人に馴染みのない国に行ってゼロからスタートしたいという思いからでした。
当時、日本代表の本田圭佑選手が所属していた
CFパチューカのBチームで1ヶ月間プレーし、
ケビン•アルバレス(ロシアW杯メキシコ代表) や、オスカル•ペレス (日韓W杯、南アフリカW杯 メキシコ代表) など、多くの選手とプレーしました。
残念ながら外国人枠が取れず、契約はできませんでした。
又、2018年クラブW杯に出場し鹿島アントラーズと対戦した、CDグアダラハラ(チーバス) のキャンプに1週間特別に参加させていただく機会がありました。
歴史ある2つのクラブでトライアル、キャンプに参加をさせていただき、後悔なく胸を張って帰国ができる素晴らしい経験をする事ができました。
◯ 社会人リーグ

帰国後、岐阜県社会人1部リーグに所属していたFC.Bomboneraでプレーしました。
準備をして再度海外挑戦をする事を決めていた為、数ヶ月だけの在籍でした。
元Jリーガーの方もおり、歳の近い先輩達から学ぶ事も多く、短い期間で沢山の学びがありました。
◯ クロアチア挑戦、サッカー選手に

19歳の終わり頃、2度目の海外挑戦はクロアチアを選びました。
W杯で準優勝する事になった年で、偶然にも世界的に注目の集まる国でした。
4部リーグの NK Medimurec というクラブと契約し、サッカー選手になる事ができましたが、外国人枠の問題で、加入後すぐに同じ4部のチームに移籍する事になりました。
NK Omladinac という残留争いをしていたクラブで、攻撃の選手の私に求められていたのはとにかく結果を残す事でした。
チームメイトのサポートもあり、
10試合で10ゴール3アシストという結果を残す事ができました。
常に結果を出すことで評価されてきた私のような選手としては、本当に夢のような時間でした。
しかし好調なシーズンも残り2試合という所で、悪質なタックルにより利き足の右足を負傷しました。
隣国からのステップアップのオファーも複数あり、これからという所でしたが、帰国をしました。
◯ 帰国、引退

帰国後の診断の結果は、手術、リハビリをして復帰まで一年程度かかるとのことでした。
クロアチアにいる時から元々参加が決まっていたJ3のクラブに練習参加もしましたが、当然ながら契約してもらえるような満足なパフォーマンスはできませんでした。
その年、2018年は堂安律が日本代表でデビューをした年でした。
ユース卒団後は同級生の皆に負けたくないという思いでプレーしていた私にとっては、活躍する皆と、落ちていく自分とのギャップがあまりにも大きいものでした。
今思えばたった1年の手術とリハビリを乗り越えるだけだったと思いますが、当時はそうできるほどの心の余裕もなく、結局気持ちの糸が切れてしまい、15年間のサッカー人生を終えて引退、指導者になる事を決意しました。
◯ 引退後

引退後は、現役時代から決めていた、小中学生の指導者としてサッカーに関わる事になりました。
JFA公認B級ライセンス等も取得し、クラブチーム、トレセンなど、約7年間指導をしてきました。
引退から1年程が経ち、知人からの勧誘で東海社会人リーグ2部の長良クラブに加入し、指導者をやりながら、月に2回程サッカーをする機会がありました。
そのクラブでは、天皇杯にも出場する事もできました。
しかし、趣味としてのサッカーと、本気で取り組むサッカーは全く違うなと感じていました。
7年の指導者としての活動の中で、"自分は指導者としてサッカーに関わって生きていくんだろう" と思っていましたが、心のどこかで引っ掛かるものがありました。
それは、現役時代のチームメイト、対戦相手の選手達の活躍でした。
皆をサポーター目線で見る事になり、ユニフォームを買い、スタジアムに足を運び、応援してきました。
テレビをつけても、SNSを見ても、スポーツショップに行っても、色々なところで目にする皆の全てが羨ましく感じていました。
引退から数年経てばプレーする事に対しての思いは無くなるだろうと思っていましたが、何年経っても思いが消えることはありませんでした。
そんなタイミングで、ヨーロッパで挑戦し続けている後輩から、"またサッカーやりましょうよ" と声をかけてもらえた事で、現役復帰の決意ができました。
27歳という年齢や、競技のサッカーから離れていた時間が長いこと、サッカーを辞めた後の長い人生の事もあり、この選択には否定的な意見を言われる事もありましたが、悔しい事ばかりで終わってしまったサッカー人生で、自分が後悔しない道を選ぶ事に決めました。
1番大事なのは挑戦する事だと自分に言い聞かせながら、現役復帰、自身3度目の海外挑戦をします!





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