
こんにちは。
ReverVの中島(陽色しな)です。
本日は1月17日。
31年前に阪神・淡路大震災があった日ですね。
今年は神戸で開催される「1.17のつどい」には参加できませんでしたが、5時46分に追悼を捧げました。
当時小学生だった僕も震災の被害にあいました。
今日は当時のお話もしようかなと思います。
※生々しいお話もありますので、気分が悪くなった際には、すぐに読むのを中断してください
当時の僕
当時も僕は西宮に住んでおり、被災しました。
子ども部屋で弟たちと寝ていた僕は、揺れる直前に床の下から爆発音を聞きます。
水道管が破裂したような音と認識しましたが、実際どうだったのかはわかりません。
その直後に大きく揺れ、カバンなどを吊り下げていた突っ張り棒が耐えきれず横になっている僕のところに落ちてきました。
幸い子ども部屋には、大きな家具もなく、それ以外の大きな物が落下してくるということはなく、怪我もしませんでした。
母親の「大丈夫か?」という声が聞こえ、リビングに移動します。
リビングに移動すると食器棚が倒れ、食器類が散乱している様子もありました。
父親はリビングの隣にある和室でいつも寝ているのですが、そこには仏壇があり、父親は倒れてきた仏壇を支えていたことを今でも覚えています。
とりあえず家族で集合した方が良いということになり、まだ寝ている弟たちを起こして、リビングでも食器などが散乱していない安全なスペースで僕は弟たちと明るくなるまで、テレビもつかないので、弟たちとマリオのパズルをして過ごしました。
父親が外の様子を見てくると言い、出ていき、戻ってきた時に聞かされたのは、エレベーターに誰か閉じ込められているみたいだということでした。
その後は救出されたのだと思うのですが、すぐには助けは来なかったでしょうし、どれほど閉じ込められていたのかと考えると恐ろしく感じます。
明るくなってきて、地震の全容が見えてきます。
小学生だった僕は、呑気に学校が休みになることを喜んでいましたが、今思うとなんてことで喜んでいるんだと恥ずかしい思いです。
僕の住んでいた団地は大丈夫だったのですが、近隣にある木造の一軒家は軒並み倒壊し、ぺちゃんこになっている状態でした。
ライフラインも復旧せず、学校に自衛隊の給水車が来ているということで、何度も水をそこに汲みに行くことになります。
父親はスーパーで働いていたので、食料を配布できるのではないかということで、律儀に職場に向かっていきました。
父親が帰って来る時には食料も持って帰ってきてくれてたので、被災時に食べることに困らなかったことも幸運だったなと今となっては思います。
神戸に住む親戚も無事で大きな怪我もなかったので、僕の周りで命を落とす人はいなくて、本当に幸運なことだったんだなって思っています。
しかし、学校が再開すると命を落とした人もいたようで、体育館で校長先生が話していたことを覚えています。
命の価値は
今ある命は、当たり前ではないと思う一方で、自ら命を断つ人も多くいます。
命は価値のあるものだと、そう思いたい自分もいるけれど、そう言い切ることは、生きることにしんどさを感じていることを、さらに苦しめてしまうことになることも知っています。
僕自身、生きることに意味があるのかという問いには、まだ答えを出せません。
きっとこの問いには、誰もが死ぬ時に答えを出さなきゃいけなんだろうなと思っています。
でも、命の灯火が消えるその時に、意味のある人生だったと思えるように、今僕は行動します。
そして、僕の手の届く範囲で、生きることに苦しんでいる人が、死ぬ時に生きていて良かったと思えるように…できる限りがんばっていきます。



