深く眠れる【ヤバイ】ベッドフレームをみなさんに

家を支える柱で、眠りを支える。 日本の杉と、日本の伝統工法で。 — ムクムクベッドフレーム、2つのライン同時公開 —

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ベッドフレーム の付いた活動報告

横たわるものについて。一つの杉のベッドフレームをめぐる、長い思索序:眠りという、最も無防備な行為人間が一日のうちで最も無防備になる時間は、眠りである。意識を手放し、外界への警戒を解き、自らの身体を重力に明け渡す。この数時間、私たちは社会的な存在であることをやめ、肩書きも、役割も、言葉さえも手放して、ただ「横たわるもの」になる。考えてみれば奇妙なことだ。これほど無防備な行為を、私たちは毎晩、ほとんど何も考えずに繰り返している。そして、その無防備な身体を、夜ごと受けとめているものがある。ベッドだ。私たちは枕を選ぶことに時間をかけ、マットレスの硬さを吟味し、寝具の素材に心を砕く。しかし、それらすべてを下から支えている「フレーム」については、ほとんど考えない。フレームは、家具のなかでも最も寡黙な存在だ。目立たず、語らず、ただ支える。まるで、舞台を支える床のように。だが、考えてみてほしい。私たちが人生の三分の一を預けている相手が、化学物質で固められた合板や、冷たく無機質な金属パイプであるとしたら。それは、無防備な自分を、無防備なまま、どこか他人行儀なものに委ねているということではないか。このベッドフレームは、その問いから始まっている。第一章:支えるものの倫理 ──柱という思想日本の木造建築において、柱は特別な存在である。それは単に屋根を支える構造材ではない。「大黒柱」という言葉が一家の中心人物を指すように、柱は古来、支えるという行為そのものの象徴であった。家を支え、家族を支え、暮らしを支える。柱とは、垂直に立つことで、その上にあるすべての重みを引き受ける覚悟の形である。このベッドフレームに使われているのは、まさにその「柱」と同じ寸法の杉材だ。105ミリ角の柱、105×150ミリの梁。住宅を支えるために生まれた構造材が、今度は人の眠りを支えるために横たえられる。ここには、ひとつの思想的な転回がある。通常、私たちは「より軽く、より安く、より効率的に」という方向へと家具を進化させてきた。運びやすさ、組み立てやすさ、価格の安さ。それらは確かに合理的な価値だ。しかし、その合理性の追求のなかで、私たちは何を失ってきたのだろうか。「支える」という行為から、重みが失われたのではないか。軽さは美徳である。だが、軽さだけを追い求めるとき、支えるという行為は、どこか頼りないものになる。約100キログラムというこのフレームの重さは、効率の論理からすれば「欠点」だ。しかしその重さは、別の言葉で言えば「揺るがなさ」であり、「引き受ける覚悟」である。家を千年支えてきた木が、今度はあなたの夜を支える。その重さは、信頼の重さなのだ。ハイデガーは「建てること、住まうこと、考えること」という講演のなかで、「住まう(wohnen)」という言葉が本来「大切にする、保護する、平和のうちに留める」という意味を含んでいたと述べた。住まうとは、単に空間を占有することではない。何かに守られ、何かを大切にしながら、そこに在ることだ。このフレームの上で眠るとき、人は文字通り、家を支えてきたものに支えられて住まう。それは、住まうという行為の最も原初的な形への回帰である。第二章:ホゾ組みという哲学 ──接合の思想このフレームには、釘や接着剤による強引な結合が、できる限り避けられている。代わりに用いられているのは、「ホゾ組み」という日本の伝統的な接合技法だ。ホゾ組みとは何か。一方の木に突起(ほぞ)を作り、もう一方の木に穴(ほぞ穴)を彫り、それらを噛み合わせることで木と木を結ぶ。接着剤で貼り付けるのでも、釘で打ち付けるのでもない。木そのものの形が、互いを抱きとめる。ここに、ひとつの関係性の哲学を読み取ることができる。接着剤による結合は、いわば「溶かし合う」関係だ。境界を曖昧にし、二つを一つにしてしまう。釘による結合は「貫く」関係だ。一方が他方を貫通することで、力ずくで固定する。しかしホゾ組みは違う。それぞれの木が、それぞれの形を保ったまま、互いの形に応じて噛み合う。一方が突き出し、他方が受け入れる。凸と凹。与えるものと受けとるもの。両者は別個のものでありながら、互いの欠けを満たし合うことで、一つの強さを生み出す。これは、成熟した人間関係の理想形にも似ていないだろうか。溶け合って自己を失うのでもなく、相手を貫いて支配するのでもなく、それぞれが独立した存在でありながら、互いの形を尊重し、噛み合うことで、より大きな安定を生む。プラトンが『饗宴』のなかでアリストファネスに語らせた、かつて一つだった人間が二つに引き裂かれ、互いの半身を求めるという神話。あの「失われた半身を求める」という人間の根源的な希求が、ホゾとホゾ穴の関係には、静かに刻まれている。そして、ホゾ組みにはもう一つの美徳がある。それは「解くことができる」ということだ。接着剤で固めたものは、もう二度と解けない。壊すしかない。だがホゾ組みは、組むことができるものは、解くこともできる。だからこのフレームは、分解し、運び、また組み立てることができる。部材が傷めば、その一本だけを取り替えることもできる。これは、永続性についての一つの思想だ。私たちは「壊れないもの」を永続的だと考えがちだ。しかし真に永続的なものとは、壊れないものではなく、「直し続けられるもの」ではないか。伊勢神宮が二十年ごとの式年遷宮によって千三百年を生きてきたように。directで永遠なものよりも、手入れを通じて受け継がれていくものの方が、はるかに長く生きる。このフレームは、孫の代まで使えるという。だがそれは「壊れないから」ではない。「直せるから」なのだ。第三章:無塗装という選択 ──裸であることの誠実さこのフレームは、塗装されていない。ニスも、ペンキも、化粧の合板も纏わない。杉の肌が、そのまま空気に触れている。これは技術的には「無防備」な選択だ。塗装は木を保護し、汚れを防ぎ、見た目を均一に整える。無塗装の木は、シミがつき、傷がつき、一本ごとに表情が違う。なぜ、あえて裸のままなのか。ここには、「隠さないこと」への意志がある。私たちの社会は、隠すことに長けている。欠点を化粧で覆い、不揃いを規格で均し、個体差を「不良品」として排除する。効率と品質管理の名の下に、私たちは「ばらつき」を悪とみなすようになった。すべての製品が同じであることが、信頼の証だとされる。だが、自然はそうではない。一本の杉は、その生きてきた歳月を、年輪として、節として、色のムラとして、その身に刻んでいる。日当たりの良い斜面で育った木と、谷あいで育った木では、肌の色が違う。枝を多く出した木には、節が多く残る。それらは「欠陥」ではない。その木が、どこで、どのように生きてきたかという、生の記録なのだ。塗装で覆い隠せば、それらの個体差は消える。すべての木が、同じ顔をする。しかしそのとき、木は「その木」であることをやめ、均質な「木材」になる。無塗装であるとは、「あなたに届くのは、この一本だ」と宣言することだ。世界に二つとない、固有の生を生きてきた木。その木の、隠しようのない来歴ごと、受けとってほしいという誠実さ。レヴィナスは、他者の「顔(visage)」こそが倫理の源泉だと説いた。顔とは、化粧で取り繕われた表層ではなく、その人の傷つきやすさ、固有性、かけがえのなさが露わになる場所だ。無塗装の木の肌は、いわば木の「顔」である。それは均質な商品の顔ではなく、唯一無二の存在の顔だ。そして、無塗装であることのもう一つの帰結。それは「香り」である。塗膜に閉じ込められることなく、木は呼吸し、その芳香を放ち続ける。これについては、章を改めて語ろう。第四章:香りと時間 ──不可視のものへの信頼杉は、香る。切られ、製材され、家具となってなお、杉は香りを発し続ける。その香りは、目に見えない。形もなく、重さもなく、ただ空間を満たし、私たちの鼻腔を通って、意識の深いところに触れる。ここで、一つの逆説に立ち止まりたい。私たちは「見えるもの」を信頼する。データ、数値、エビデンス。可視化され、計測され、証明されたものを、私たちは確かなものとみなす。それは近代という時代の、偉大な達成だ。曖昧な信仰や迷信を退け、検証可能な事実によって世界を理解しようとする態度。しかし、香りはどうだろう。香りは、最も古い感覚だと言われる。嗅覚は、進化的に最も原始的な感覚であり、脳のなかでも記憶と情動を司る古い領域に直接つながっている。だからこそ、ある香りは、言葉を介さずに、一瞬で私たちを遠い記憶へと運ぶ。プルーストが紅茶に浸したマドレーヌの香りから、失われた時のすべてを甦らせたように。杉の香りを嗅ぐとき、多くの日本人が、言葉にならない懐かしさを覚える。それは、この島で暮らしてきた人々の、何百世代にもわたる記憶なのかもしれない。神社の杉木立。新築の家の匂い。木の風呂。私たちの身体は、杉の香りを「安心」と結びつけて記憶してきた。それは論理ではなく、もっと深い、身体の知だ。このフレームを語るとき、僕はあえて「この香りがあなたを眠らせる」とは言わない。それは証明されていないからだ。だが、こうは言える。──私たちは、見えないものに包まれて生きている、と。空気、温度、湿度、そして香り。私たちの身体は、計測しきれない無数の不可視のものと、絶えず交流している。近代は「見えるもの」を信頼することを教えた。だが成熟した知性とは、「見えないものの存在を、傲慢に否定しないこと」でもある。証明されていないことと、存在しないことは、違う。杉の香りに身を委ねるとは、計測しきれない世界への、ささやかな信頼の表明なのだ。第五章:木とともに老いること ──経年という贈り物新品であることは、価値だろうか。市場は「新しさ」を崇拝する。最新のモデル、未使用の状態、開封したての輝き。私たちは新しいものに高い価値を認め、使い古されたものを「劣化」として価値が下がったとみなす。だが、無垢の杉は、この価値観に静かに異を唱える。杉は、時とともに色を深める。最初は白っぽく明るい木肌が、年月を経て、飴色へ、そして琥珀色へと変わっていく。手の触れる場所には、艶が生まれる。それは「劣化」だろうか。違う。それは「成熟」だ。ワインが、チーズが、革製品が、そして人間が、時とともに深みを増すように、無垢の木は、使われることで美しくなる。新品のときが最も美しく、あとは劣化していくだけの工業製品とは、まったく逆の時間を生きる。ここには、「老い」についての、まったく異なる哲学がある。私たちの文化は、若さを称揚し、老いを恐れる。アンチエイジング。若返り。時間を止めようとする欲望。だが無垢の木とともに暮らすことは、毎日、別の時間観に触れることだ。時が経つことは、失うことではない。深まることだ。傷つくことは、損なわれることではない。物語が刻まれることだ。谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』のなかで、日本人が古びたもの、手垢のついたもの、時間の艶を帯びたものに見出してきた美意識を語った。彼が「時代(じだい)」と呼んだあの艶。それは、無数の人の手が触れ、無数の歳月が降り積もってはじめて生まれる、買うことのできない美だ。このフレームの上で、あなたが眠り続けるとき、フレームもまた、あなたとともに老いていく。あなたの汗が、あなたの体温が、あなたの夜の数だけ、木に染み込んでいく。十年後、二十年後、それは「あなたのベッド」になっている。世界のどこにもない、あなたと木がともに刻んだ時間の結晶として。そして、あなたがいつかこの世を去った後も、その木は残る。子へ、孫へ。木は、あなたが生きた証を、その身に宿したまま、次の世代の夜を支え続ける。物を所有するとは、本来そういうことだったのではないか。使い捨てではなく、受け継ぐこと。消費するのではなく、ともに生きること。第六章:森と寝室 ──私たちはどこから来たのか最後に、最も大きな円を描いて、この思索を閉じたい。この杉は、どこから来たのか。日本の、どこかの山だ。三、四十年前、誰かが植えた一本の苗が、雨を吸い、光を浴び、風に耐えて、まっすぐに伸びた。その間、その木は森の一部だった。鳥が枝に止まり、霧がその葉を濡らし、土の中で無数の菌や虫と繋がりながら、静かに生きていた。そして今、その木は、製材され、加工され、あなたの寝室にいる。考えてみれば、これは壮大な旅だ。森から、寝室へ。生きていた樹木から、人を支える家具へ。だが、ここで立ち止まって考えたいのは、この旅の「逆向き」の意味だ。私たち人間も、もとをたどれば、森から来た。人類が森を出て草原に立ったのは、進化の歴史からすればごく最近のことだ。私たちの身体は、感覚は、情動は、何百万年もの森の暮らしのなかで形作られた。緑を見ると心が落ち着くのも、木の香りに安らぐのも、水のせせらぎに癒されるのも、それが私たちの「ふるさと」の記憶だからだ。近代都市は、森から最も遠い場所だ。コンクリート、金属、ガラス、プラスチック。直線と直角と均質さ。効率的で、清潔で、合理的だ。だがそこには、私たちの身体が何百万年も慣れ親しんできたものが、ほとんどない。私たちは、自らが作り出した環境のなかで、奇妙な郷愁を抱えながら生きている。杉のベッドフレームを寝室に置くこと。それは、ささやかではあるが、森を寝室に呼び戻す行為だ。一日の三分の一を、森の一部だったものとともに過ごす。最も無防備になる眠りの時間を、私たちのふるさとの素材に委ねる。これは、現代という時代に対する、静かな抵抗かもしれない。すべてを効率化し、均質化し、使い捨てていく時代に対して、「重さ」を、「個体差」を、「経年」を、「香り」を、「受け継ぐこと」を選び取る。それは、便利さや安さとは別の価値が、人間の生にとって確かに大切なのだと、身をもって示す行為だ。そして同時に、それは森への小さな恩返しでもある。日本の山には、使われるのを待っている杉が、おびただしく立っている。手入れされず、伐られず、価値を見失われたまま。木を使うことは、山を守ることだ。一本のベッドが、巡り巡って、日本の森林の未来に、わずかながら繋がっている。結:横たわるという、信頼の行為長い思索を、振り出しに戻して閉じよう。人間が最も無防備になるのは、眠りである。意識を手放し、身体を重力に明け渡し、ただ「横たわるもの」になる、あの時間。横たわるとは、信頼の行為だ。自らを、何かに委ねること。明日も目覚めることを信じて、今日の意識を手放すこと。ならば、その身を委ねる相手は、信頼に値するものであってほしい。化学物質で固められた、顔のない均質な物体ではなく。家を千年支えてきた、確かな重みを持つ木。それぞれの形を尊重して噛み合う、誠実な接合。隠すことなく来歴を晒す、裸の木肌。見えないけれど確かに在る、安らぎの香り。あなたとともに老い、あなたの後も残っていく、時間の器。そして、私たちのふるさとである森の、ひとかけら。このベッドフレームが提案しているのは、単なる「良い眠り」ではない。それは、「何に身を委ねて生きるのか」という、生き方そのものへの問いかけだ。毎晩、あなたは横たわる。その時、あなたを支えているものが、確かな思想を持った、誠実なものであること。それは、一日の終わりに、世界への信頼をそっと回復させてくれる、静かな儀式になるだろう。眠りとは、世界を信じ直すことだ。そして、良い眠りを支えるものとは、信じるに足る、確かな何かなのである。


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