脚本家の石森史郎先生と
石森の私塾である青春脚本塾塾生七人で作成した映画用シナリオ
「硫黄島 英霊たちへの頌歌」のスポンサー用脚本印刷費用を募集します。

▼はじめに

石森史郎プロフィール
1931年北海道生まれ。
日本大学芸術学部映画学科卒業。
在学中、十九歳で第四回映画シナリオコンクールに処女作「晩鐘」が入賞。一九五九年日本テレビ系テレビドラマ「ママ、ちょっときて」でデビュー。

以降も映画「夜霧よ今夜も有難う」「愛と誠」「銀河鉄道999」テレビ「おれは男だ!」「仮面ライダー」「ウルトラマンA」「必殺仕置人」など数々のシナリオを手掛け、映画脚本界の巨匠として名を轟かせている。

私塾「青春脚本塾」を開講し、多数の門下生を世に輩出し、自らも生涯現役をモットーに精力的な創作活動を今も続けている。

▼写真右、硫黄島協会 寺本鐡朗会長。中央右、脚本家石森史郎。中央左、新藤義孝衆議院議員(第17代総務大臣)。新藤大臣は栗林忠道中将のお孫さんです。左、谷輔次プロデューサー。

サブ1新藤先生と石森先生

▼これまでの活動の紹介とプロジェクトをやろうと思った背景

石森史郎青春脚本塾は脚本家、石森史郎の私塾です。今まで映画やDVD等数々の作品を制作してきました。今回、戦後70周年という事で過去の硫黄島と現代の小笠原諸島を舞台とする映画用脚本を石森と塾生とで共同執筆しました。脚本は完成しましたが困った事に製本する費用がありません。製本をしないと資金集めができません。何かよい方法はないかと考えておりましたら、塾生からクラウドファンディングの事を聞き、それではチャレンジしてみようと考えました。

▼プロジェクトで何を実現したいか?

映画を作るためです。

しかもただの映画ではありません。

後記の通り石森は旧制中学時代、軍事教練を受けていました。

石森少年は大東亜戦争最中、本土決戦のど真ん中にいました。

僕は38式歩兵銃が手渡せられると思っていたのですが、手渡されたのは竹槍でした。

来る日も来る日も竹槍の訓練ばかり。

利発な石森少年はある日、教官に聞きました。

「教官殿、敵はB29という爆撃機で爆弾を大量に落としています。こんな訓練は意味があるのでしょうか」

教官は絶句しましたが僕は殴られませんでした。

僕の父は教職についていました。

教官は僕の父に米を家族のために多く貰えないかと度々頼み込んでいたのです。

今年は戦後70周年です。

戦争を知らない皆さんに当時の戦争の真実を知っている生き証人の僕ができる事は僕の作品を通して、当時の状況がどうだったのかを知っていただく事です。

その為に僕はこの作品を書きました。

▼具体的になぜ資金が必要なのか?その資金がどう使われるのか?

映画を製作する前に脚本を製本しその脚本を元に今後スポンサーを募集します。お相撲さんにも谷町(タニマチ)が必要です。歴史に名を残した偉大な音楽家や美術家もパトロネージュによって支えられていたのです。

シナリオはいろんな使われ方があります。スポンサー用、キャストスタッフ用、ロケ交渉用、などです。

今回はスポンサー募集用です。

しかし用途は違っていても、共通している事があります。

それは見ただけで中身が瞬時に映像的に理解できる脚本に仕上げなければならない点です。

僕にはそれができるのです。

▼支援のお願いとイメージ付きでリターンの説明

お礼メール500円から〜


「硫黄島 英霊たちへの頌歌」石森史郎

皆さん、はじめまして。脚本家の石森史郎です。
僕が小さい頃には小学校という名称はありませんでした。当時は国民学校と呼ばれ、日本は世界を相手に戦争の真っただ中でした。石森少年は日々繰り返される竹槍突撃の訓練に疑問を持ちながらも、少国民として本土決戦を迎えるつもりでおりました。


やがて日本は敗戦を迎えます。


ご存知かと思いますが敗戦の前に日本はすでに本土決戦を何度も行っていたのです。
最初の本土決戦は小笠原諸島の硫黄島でした。
アメリカ軍はこの小さな小さな島を3日で攻略できると考えてましたが、実際には約一ヶ月近くかかり、本土に近くなるにつれ戦闘は激烈を極めたのです。
その激戦地小笠原諸島硫黄島では毎年、慰霊祭が行われています。


父島と母島から来島した中学生たちが慰霊のためにある歌を歌います。
「故郷の廃家」という唱歌です。
では何故故郷の廃家なのでしょうか。
日本の唱歌ではありますがこの歌はウイリアム•ヘイス作曲のれっきとしたアメリカ民謡なのです。
しかしこの歌は日本の唱歌として明治の時代から歌われ続けてきたのです。
硫黄島には食糧を自給させるために少年兵が昼夜を問わず、畑を耕し、雨水を溜め甘藷作りに精を出していました。
厳しい労働に従事する少年兵たちが空襲後、南国の海に沈む大きな夕陽を見ながら望郷の念にかられ、思わず口ずさんだ歌が「故郷の廃家」だったのです。
慰霊祭では出席者全員がこの歌を歌い、激戦を繰り広げた日米両兵士の慰霊を行い続けているのです。


僕はこの話を聞いた瞬間、頭の中で火花がバチバチっと飛んだのです。
僕たちは現代に生きています。
物語はフックしてフックしてフックしなければならないのです。
今の小笠原諸島に生きる島民はどのように生きているのだろうか。
怒濤のように好奇心がまるで蛇の鎌首のようにせり上がってきました。


小笠原諸島は世界遺産に登録された大変美しい島です。
東京都でありながら、南の島でもあり、パパイヤやバナナがいたる所に生えている非常に不思議な島なのです。

片道1,000キロの長い長い道のりを25時間30分をかけて、おがさわら丸という一週間に一度しかない定期便の船旅でようやく到着します。
島の重要産業は観光業です。


海の色はこの世の物とも思えない青さでボニンブルーと呼ばれています。
ボニンとは小笠原の別名です。
このボニンブルーの海の色に魅せられ、古来よりさまざまな入植者たちが小笠原諸島を訪れ、定住しました。


現代のお話はこれら島に定住する方々のお話になります。
余談ですが中国漁船による小笠原諸島沖の赤サンゴ密漁を石森は許せない暴挙だと個人的に大変憤慨いたしております。


この作品は僕だけの力でできた物ではありません。
青春脚本塾という僕のお弟子さん達と一緒に作り上げた競作なのです。
決して合作ではありません。
僕とお弟子さん達との間の火花が随所にちりばめられているのです。
まさに真剣勝負の日々でした。
おかげさまで脚本は出来ましたがまだ完成はしておりません。
脚本を製本しスポンサーを集め、映像化して初めて世に産声を上げるのです。
そのための印刷資金を今回は募集します。


この作品は戦争を題材に扱ってますが、単なる戦争映画ではありません。
日本映画史上初と言える銃や血に頼らない戦争映画なのです。
僕たちが悩み苦しんでいる日々の日常は過去も未来も実はそんなに変わってはいないのです。
物語に出てくる登場人物ひとりひとりは皆さんの分身なのです。
これを共有していただくため、石森は人生初のクラウドファンディングにチャレンジしてみました。


僕は皆さんとはお会いできないと思います。
僕が高齢だからではありません。
皆さんとはスクリーンを通してお会いできるのを楽しみにしているからです。
僕は私塾に青春脚本塾と名前を付けています。
いい歳こいて何が青春だとあざ笑うすかした奴は犬に喰われて死んでしまえばいいのです。
青春は永遠なのです。
僕の情熱と皆さんの情熱がシンクロできる日を楽しみに、もうすでに次回作の構想を練っています。

サブ2硫黄島島民平和祈念墓地公園

▼最後にプロジェクトにかける思いやページを見てくれたひとへのお礼のコメント

『硫黄島 英雄たちへの頌歌』とは
平成26年6月、硫黄島では昭和20年3月17日第109師団師団、栗林忠道中将以下の玉砕した守備隊将兵の慰霊祭が行われました。
慰霊祭には遺族代表の他、高齢者が多く席を埋めている中、小笠原父島母島から中学2年の男女生徒が参加、式の最後に必ず「故郷の廃家」を合唱しました。
その理由は守備隊員には、今唄っている中2と前後の年齢の少年兵が多く、爆撃が止む夕刻になると陽が沈む日本の故郷の方向に向かい、望郷の思いを込めて「故郷の廃家」を唄っていたという。その事実が語り伝えられ、以後慰霊祭には父島、母島の中学2年の生徒たちが参加して、当時同年代であった少年兵たちへの思いを込めて同じ歌を歌うようになりました。

本企画は、この事実に深く心を動かされたシナリオ作家、石森史郎が数々の資料を調査して独自の取材を重ね、渾身の力を込めて書き下ろしたオリジナルシナリオを、自らの手により映画化するものです。戦後70年にふさわしい本作脚本の支援をなにとぞよろしくお願いいたします。

サブ3硫黄島戦没者顕彰碑

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