いずれ誰もが辿るであろう老いと病い、それがどういう形で訪れ次ぎの生へと向かうのか。死んでしまえば〝無〟があるだけと言う人がいます。しかし、私は思うのです。それぞれの人生にそれぞれの価値と意義があるように、〝死に方〟〝看取り方〟もやはり尊く大切なものであると。この本が悩める誰かの慰藉となりますように。

プロジェクト本文

1. はじめに・ご挨拶

ページをご覧くださり、どうもありがとうございます。
この度、三年前に他界した母の笑顔と涙を手記に綴り、一冊の本として世に出すべく皆様のご助力を募らせていただきます。
生前の母は「毎日〝ありがとう〟って百ぺん言うと幸せになるんだよ......」と、話すのが口癖で、いつも朗らかな笑顔をたやさず、誰にでも何にでも〝ありがとう〟と言って慈しむ人でした。
その母が、脳腫瘍のため〝失語症〟となり、最後に残した〝残語〟が、やはり〝ありがとう〟の一言でした。
遂にはそれも口にできなくなってしまった母の心を想い、この本のタイトルを「ありがとうをもういちど」と、しました。
そして、息子から母へ心よりの〝ありがとう〟を捧げます......。


2. 刊行予定本の概要

● 本の題名:ありがとうをもういちど
● 副題:去りゆく母の心象風景
● 著者:残間昭彦
● 製本様式:単行本(四六版 / 300頁)
● 初版発行部数:1130冊
● 予定価格:1,200円(税抜)
● 出版費用:231万円
● 自己資金:150万円
● 刊行出版社:幻冬舎(げんとうしゃ)
(審査通過済み)

作品講評

本作品は脳腫瘍の母とそれを支える家族の心象を綴った闘病記であり、「人類の普遍的な課題を分かりやすく丁寧に描いた作品」という好印象を得た。
また、テーマ・内容・筆力ともに申し分なく、全国流通する上で全く問題のないクオリティであると判断される。

「死が近づいてくる」とはどういう体験なのか。
著作では病状の進行度合いやそれに伴う母親の感情の変化を丁寧に綴っており、読者を作中に引き込み、期待に応えうる文章であると思われる。

詩的な文体は描くものを表現する上で非常に適しているという印象で、特に、登場人物の心情と季節によって変わる安曇野の自然を重ねながら表現している部分が、映像的に解釈できるため解りやすく、読者の感動を増幅させる構成となっている。

頂戴した原稿は非常に完成度の高いものと言えるが、さらに多くの読者から反響を得るために一点提案させていただきたい。
内容に強弱をつけるため、重要な出来事が起きた日には、より読者の想像力を掻き立てるようなダイナミックな表現を使い、逆に重要な部分以外は思い切って削る必要もあるだろう。

結論として、本作は是非とも世に出すべき価値のある作品である。
単に印刷して配本するのではなく、制作力と流通力を持つ正規出版社から刊行し、多くの読者へ届けられるべき作品と考える。

企画編集部(尾﨑)



3. 本として出版する意義「人が生きた意味」

これは、母が私の手を借りて書かせてくれたものと思っています。
母がどうして、自らの病いと身命を賭し、これほど克明な記録を残させたのか......。
人はいつか死にいくもの。だから〝死〟という自然の摂理には特段の意図はないのかもしれません。けれど、一つの〝命〟が或る時代を生きたという事実には深い理由があると考えます。
だから、〝ガン〟とは〝脳腫瘍〟とは、という至極個人的でありながら決して人事ではない一大事を広く世に打ち明けることが、残された者の役目であり今は亡き母の本懐と考えるのです。
このささやかな物語が、誰かの心を慰め励ますことを願っています。


4. プロジェクト実施の意図「いつかは映像化の実現を視野に入れ」

〝本〟というものはいかにも厄介なものだと予々思ってきました。
歌であれば僅か3分で、絵であるならきっと一瞬で感動と納得を与えうるのに、「これを読んでくれ......」と、手に押し付けられてから意を察するまで何日もの時を要します。
それを嫌い、端から背を向ける人さえ少なくはありません。
随筆を同じ芸術表現と呼ぶには少し微妙ですが、それにしても不公平なことです。
しかし、それでも伝えなけらばならない物がこの胸にあふれているのです。


5. 抜粋文を読んでくださった方々の感想を一部ご紹介します

● 介護ヘルパーをしています。これを読んで、脳腫瘍の自分の母を思って涙が止まりませんでした。私もこんなふうに母や利用者さんに接しようと思い、とても参考になりました。

● 私は看護師をしているのですが、これは凄い体験だと思います。本になれば、私たちのように患者さんと関わる者にとってのバイブルになると思います。抜粋ではなく、全部読んでみたいです。

● 私も肺がんを患っていて、母も3年前に胃がんで亡くなりました。がんについての専門書は沢山ありますが、こうしたメンタル面に関する本は多くないので、読みながら涙が止まらず困まってしまいました。いま、患者会の仲間で回し読みをしています。 

● 普段は「このクソバァバァ」なんて言ってしまうこともあるけど、母に「ありがとう」って言いたくなりまた。来週、久しぶりに実家に帰ってこようかと思います。

●「私はこの腹を破って産まれてきたのだ」云々、というくだりに感動して泣いちゃいました。私を含め、子供たちはもっと親に感謝をしなければいけないと思います。「親孝行 したい時には 親は無し」なんて事になる前に。

● 本という形になって、見ず知らずの人の手に取られ読まれることにより、亡くなられたお母さまは再び蘇り、ずっと生き続けるのだと思います。ぜひ出版化してください。



6. 推薦文

残間昭彦君の「ありがとうをもういちど」の出版を応援する会
発起人代表 対馬孝一(青森県腎臓病患者連絡協議会副会長)

私の家族は両親共に糖尿病疾患の家系で、父と姉は既に早世し、母と甥は今も闘病しています。私自身、23歳の時に発病以来30余年を経、合併症による腎不全で週3度の透析を欠かせない日々を送っています。

この度、旧友である残間昭彦君の体験記の原稿を読み、病床にある我が身を振り返ると共に親の看取り方について考えさせられました。向後「高齢化社会」へと向かう一途である今、きっと、誰しもが「明日は我が身」と、身につまされる追体験になる本だと思います。




7. さいごに・メッセージ
※ クリックして動画 👇

messege
幼い日に聴いた童謡や子守唄のような本をつくりたい……。
私はこの手記をそんな想いで書きました。
母親との思い出や故郷の記憶は皆んな様々で違っていても、あの懐かしい歌に触れる時、不思議と誰もが同じ情景と郷愁を心に見ることが出来ます。
そんなふうに、このささやかな物語が、いま同じような境遇で辛い思いをしている誰かの、心を慰め励ますことを願っています。

不遜な物言いで恐縮ですが、これは私個人の母へのレクイエムではなく、よくある家族史のような記念出版ではありません。
そうしたパーソナルなものではない、あくまで公に向けた発信と考えています。
だからこそ、書店での流通に加え、病院・施設・図書館などへの寄贈により、一人でも多くの人たちの手に届けさせていただきたいのです。
どうか、趣旨への寛容なご理解とご協力ご支援を心からお願い致します。


8. メディア紹介

▽ 提供:あづみ野FM「臼井則孔の おひさまサークル」(ゲスト:残間昭彦)

クリックして動画 👇
https://youtu.be/mEYJiddrG58


▽ 提供:信濃毎日新聞社・MGプレス


▽ 提供:安曇野 市民タイムス


9. 資金の使い道とリターンについて

出版社(幻冬舎)の制作費
支援者さまへのリターン提供と送料
ガン専門病院・施設・図書館などへの寄贈
CAMPFIRE掲載手数料

☆ リターン:完成した刊行書籍に加え、ご支援の内容に応じた感謝の品を心をこめてお贈りさせていただきます。


10. 実施スケジュール

10月末:クラウドファンディング終了
編集・製作
来春:刊行、支援者様へお届け(※ 編集作業の都合により変更する事があります)


11. さらにご興味をお持ちくださる方へ
本のテイストをわかっていただくために文章の一部をご紹介します


<序文より抜粋>

いま日本では、自殺をする人の数が年間二万数千人を数えるという。
慎みに欠ける物言いではあるけれど......、その一人一人の人生のうち、捨ててしまうはずのたった数時間を、もしも、もらう事が出来るなら、母はあと十年生きられる。
でも、それは叶うべくもなく、生命(いのち)を使い終えた母は、約束どおり天にその身を還していった。オルゴールがゆっくりと鳴り終わるように、自然と息を閉じて......。

末期の全身ガンと診断された母にとり、為せる術(すべ)といえば時を待つ事より他は無かった。その数ヶ月後、どうしてか、それらのガンは消えた。けれど、その奇跡は頭にまでは届かず、結句、脳腫瘍という悪魔の巣くうに任せた。そして、当初より、一切の延命治療を拒んでいた母が、或る日「怖い、怖いのよ......」と、私の胸に泣きすがった。

その宣告から以後、四季を過ごしつつ母が私へ伝えた多くの宝物は、まるで幼き日に聴いた子守唄のように優しく哀しいものであった。
生と死を見つめるという事がどういうものであるのか、時の経過と症状の進行に伴い心と思考はどう移り変わるのか。その全てを、当人、家族、医療側、それぞれの目線で見つめたものを書き残さなければならない。


<本文より抜粋>

人は何年も前から少しずつ死ぬ準備をはじめる。そして、いよいよという時、無意識のうちにその時が近いことを悟るらしい。
2015年、母はその年、前から行きたいと思っていた処、やりたいと思っていた事の全てをやった。

「オレはいったい、あと何度ギラギラするような熱い夏をすごす事ができるだろうか。ただ暑いだけの夏なら誰にだって毎年やってくる。でもそうじゃない、ギラギラする夏だよ……」
昔、誰かがラジオで言っていたのを印象的に覚えている。まさに、母のあの夏はギラギラと輝いていた。


11月21日(土)    奈良井病院 神経内科、坂下医師の説明
坂下医師「現段階では〝強い疑い〟としか言えないのですが、採取した組織の染色状態から見ると、90%以上の確率で『上皮性に由来する腺ガン』であると思われます。
既に、腫瘍細胞と見られる影は腹部から胸・首・肩まで全身に散らばっていて、大小あわせて百個以上も多発している状態であるので、これはもう手術は不可能です。
それに加え、脳の腫瘍は悪質かつ極めて進行が早いとされる膠芽腫《こうがしゅ》と見られるため、どう手段を講じても根治は無理だと言えます。
はっきり申し上げて、あと数ヶ月か半年……、来年の桜が見られたら御《おん》の字……、というほどの状態です。」


11月26日(木)  放射線治療科、田上医師の説明
田上医師「実は脳腫瘍って治らないものなんです。現代の放射線治療というものは未だ開発途上なので、今の治療法では治せないというのが正しい認識だと言わざるをえません。ですから、出来るだけ小さくするというのが目標になります。
問題は、どこまで小さく出来るかという事と、その代償としての副作用がどうなるかというバランスです。
ここで言う放射線とは、原爆や原発の比ではなく、その何万倍という被爆量になります。ですから、それをもし、ピンポイントではなく全身にあびれば、人は一週間以内に死にます。
それだけ強力な放射線を使うという事は脳の破壊を意味します。
薬か毒かと言えば毒の方が遥かに強いと言えるわけで、良かれと思ってやったつもりが、むしろ裏目に出てしまうという事も多いんです。特に今回のように、脳の深い所にあると犠牲も大きくなりますから。


12月4日(金)雲
結果、放射線治療も抗がん剤治療も共に最良の策とはされず、この日、母は掛かりつけの高瀬医院へ転院し、緩和ケアを受ける身となった。

奈良井病院を後にする前、母がトイレによりたいと言い、一人でヨタヨタと婦人トイレに入っていった。
そして程なく、「あきひこー、あきひこー」と、母が慌てて私を呼んだ。母は既に一人ではズボンを下すことも便器に座ることも出来なくなっており、しかもその事実を当人も初めて知ったらしく、ひどく狼狽していた。

介助して用をすませた後、ズボンを上げてやろうとした時、不意に母の腹に手が触れた。母の下腹部には、私たちを産む時にできた帝王切開の傷痕がある。子供のころにそれを見たことはあっても、触ることはなかった。
私は、この腹を破って産まれてきたのだと思った途端、あふれる涙を抑えることができなかった。命がけで私たちを産み、命がけで育ててくれた母は、今、なに恥ずることなく、子の助けをうけ小便《いばり》をしている。


2月4日(木)
高瀬医師「先日のCT検査の結果ですが……、腹部リンパ腺の腫れが前回の検査より小さくなってきています。奈良井病院からの報告では〝リンパ腫〟という診断になっているわけですが、通常、ガンであれば何も治療をしないで腫れが小さくなることはありませんので……、とにかく妙としか言いようがありません。」
昭彦「ガンが治ってきているという事ですか……」
高瀬医師「それは何とも……。何かのガンがどこかに隠れているという疑いも否定できませんが、とりあえず深刻な状態から脱しつつあるのは確かだと言えます。」


2月16日(火)晴
昔、ある水俣病患者が、「だんだん自分の身体が世の中から引き離されていきよるごたぁ気がするとです……」と、言った言葉が残されている。きっと、今の母の心境がそれなのではないだろうか。
子である私がどんなに苦しみを共にしたいと願っても、看護師たちがいかに献身的につくしてくれようとも、岸から離れていく小舟に乗っているのは母ただ一人……。

ガン患者は、ひたすらに孤独であると聞く。その底なしの不安の前には、誰も為す術を持たない。けれど、せめて今は母の傍らに寄り添い、この時を共にしてあげたいと願う。
遠い昔、風邪をひいてゼーゼーと唸る私の背中を、「辛いね、苦しいね……」と、さすりながら泣いていた母のように。


3月1日(火)晴
母を背負いて、見知らぬ街で道を探して歩く夢をみた。
私の他に頼る者のない母が可愛く、愛おしくてならない。
降りだした小雨に気持ちがなえるも、我が背に母を感じているだけで心細さが癒える気がしていた。
嗚呼 母よ、幼き私を背負いし貴女も、こんな想いで辛い道を歩いていたのでしょうか。
独りではないという心丈夫は、背負う背負われるが替わり、腹の温みが背になっても同じであった。
お母さん、あなたの背中は、いつだって僕のシェルターでしたよ。

   夢に見る 母の姿は
     けざやかに
   なれどマッチを する如き夢


3月7日(月)曇
「言葉が通じない……。喋っても、伝わらないのよ……」
突然、母の悪夢が始まった。
昭彦「誰と話ているの……」
母「わからない……。頭の骨が、どうにかなっていくみたい」
昭彦「頭が痛いのか」
母「痛くない」
昭彦「じゃ、意識が混乱してるいのか」
母「していない」
昭彦「頭の中がどんな感じなの」
母「どんな感じでもないよ」
昭彦「それじゃ……」
母「ありがとう、ありがとう、ありがとう」
昭彦「どうして〝ありがとう〟ばっかり言うの」
母「恐怖なんだ。恐怖なんだよ」
昭彦「怖くなんかないよ。一人ぼっちなら怖いけど、お母さんは一人じゃないんだから。今お母さんが苦しいなら、辛いなら、怖いなら、俺も一緒に苦しむから、そばにいるから、孤独じゃないから……。
大丈夫だよ、今はちょっと夢を見ているだけ、もう少ししたら覚めるから、怖がらないで……」
私はたまらず、初めて母を抱きしめ、そして誰はばかることなく大声をあげて泣いた……。
母もオンオンと声をあげ、「怖い、怖いのよ……」と、呻《うめ》きつづけた。

いま母は、否、おそらく誰もが、自分という存在がこの地上から無くなってしまうという想定を理解できない。今ある意思・思考は何処へ行ってしまうのかという認識が計れない。だから、恐怖せざるをえない……。

何年か前、難病をかかえた或る友人が言った。
「人がいつか死ぬという事は解っているけれど、その期限を言い渡されると、その瞬間から恐怖が始まるんだ。それが一年でも十年でも二十年でも関係ない。
『君の病気は治らない。でも、同じケースで最長十八年生きた人もいるよ……』って、何の慰めにもならないんだよ。まるまる生きたって十八年でしょ。それに向かって秒読みを数えるだけのことだ。」

絶えた命は一旦宇宙へ還り、また新しい姿を得る。それを本当に信じる事が出来れば、人は死を恐れなくなるのだろうか……。


3月14日(月)曇
母を苦しめる失語症がいよいよひどくなってきた。
脳腫瘍患者特有の症状である〝失語症〟とは、発声器官そのものの障害でなく、発語や言葉の理解が困難になる病気だ。
そして近ごろでは、〝 ありがとう、ありがとう 〟と繰り返すばかり……。
〝残語〟といって、その人が最もこだわり執着している一言を残し、徐々に全ての言葉をなくしていく、この病いの典型である。
そうしてさらに、いつかそれさえも失ってしまう。


4月2日(土)曇
待ちに待った日帰り外出の日がやって来た。花見をかねた墓参へ出かけるのだ。母は、遠足の朝を向かえた子供のようなソワソワ顔で待っていた。

客殿へ赴くと参拝者の数も増えてきた。車椅子の移動で裾の乱れた母に、「あんまり、はだけた足を見せていると、参詣のお爺ちゃんたちが色めきだちゃうから気をつけてね……」と、裾の着付けを直しながら冗談を言うと、母は腹をかかえるようにして大笑いした。
そしてそれは、母が声を出して笑う最後になる事を、この時の私は知らなかった。
こうして、母の最後が一つ二つと増えていく……。
きっと、母が最後に歌う日、最後に子の名を呼ぶ日、最後の食を口にする日……。
そうしていつか、本当の最後が来てしまうのか。


5月1日(日)晴
いつしか春は過ぎ、もう初夏の日和だ。
去年11月、余命宣告を春までと言われた母が、今、夏をま近に迎えようとしている。
「今日はシュークリームを買ってきたよ……」
大きな口で2口ほおばったあと、〝 もういらない 〟という表情をしたもので、クリームだけを指につけ、母の口へ運んだ。
赤子が母親の乳房を欲しがるように、 美味そうに私の指をなめる。何度も口を開け催促し、母は私の指を吸った。そんな母を愛おしく思わずにはいられない。
その昔、母も私をこんなふうに見つめていたのだろうか。


5月4日(水)晴
母は毎年この日を楽しみにしていた……。アルプスあづみの公園の恒例「早春賦音楽祭」へ行くことだ。大勢のアーティストたちの演奏や歌を聴くために、押し車で広い公園内を一日中歩いて回り飽きなかった。
無論、今年は行けない。既に母の身体はほとんど自力で動かず、今日のように陽だまりの窓へ車椅子で来る事さえ希になってしまったから。
けれど、このところ、何故だか穏やかな気分に浴しているように見える時が間々あり、思いがけずも私の気持ちまで和まされる。

突然、母が私の手首を強くつかんだ。その手に私もそっと手をかさねると、母は何も言わず涙をこぼした。その涙の意味を確かに図るは難きけれど、母は今とても大切な時を過ごしている。おそらく、この小さくも愛おしい幸いが、指から落ちる砂のように消えていくのを惜しんでいるのだろう。 

櫛の歯が欠けるように、脳腫瘍という悪魔は母の頭から少しずつ大切な物を奪ったけれど、その代わりに安息への道程をくれた。

   のどやかな 陽だまりつつむ
     窓におり
   ふと涙おつ 慈しき刻


5月13日(金)晴
高瀬医師「左大脳鎌に接する腫瘍が更に大きくなって、脳梁《のうりょう》を圧迫しはじめてきています。
幸い、意識の喪失やひどい痙攣《けいれん》などの症状は今のところ起きていないので、腫瘍の大きさのわりには非常に落ち着いた状態だと言えます。
ただ、一刻一刻、どう変化するかは分かりませんので、なるべく平穏な時間を過ごさせてあげる事が大事でしょう。」


5月21日(土)晴
食べるも歯磨きも、母は一向に口を開けてくれない。私は、少しでも母にしっかりして欲しくて、半ば強引にスプーンや歯ブラシを突っ込む。
分かっている、これがエゴでしかないという事は。止まってしまったオルゴールのゼンマイを巻きなおすようにはいかないのに……。けれど、そうせずにはいられない。


5月29日(日)晴
穏やかな晴天の日がつづいている。
母と私の心が塞がないように、せめてもの天の気づかいなのだろうか。ともあれ、我が母の逝く時を待つ悲しみには、あまりに似あわしくない、青い青い空である。こんな気持ちのいい日に、きっと、母は空へと昇っていくのだろうか……。

そうだ、母が死ぬ……。そう遠くない将来。
悲しい。誰が悲しい?
私……!
実は私は、自分が寂しくなる辛さを思い、それで悲しんでいるだけなのではないか……。
そんな事をふと思った。
その本当がどこにあるかは分からないけれど、確かな事実が一つある。
この地上で、私という人間を愛する人が、ただの一人も居なくなってしまうということ。
私は、ついに誰からも愛されることのない、寄る辺なき者になってしまうという心細さ。
嗚呼……
今はただ、母の安穏が少しでも長く続くことを願うのみ也。


6月20日(月)晴
母の口へ運ぶアイスクリームのサジがキラッと陽に光った……。
不意に、昔、高校の学食で目にした一瞬の光景を思い出した。窓辺の彼女が、向かい合った友達に笑顔を向けながらカレーライスを食べていた時のこと……。あの眩しさは今も鮮明に瞼に焼き付いている。

母は、いつにない旺盛な催促で何度もサジを求めた。
「旨いかい……。季節限定の生イチゴアイスだよ……。明日は、お母さんの好きな小豆のミゾレを買ってくるからね……」
いつの間にか、カップの半分ほども食べてしまった母に、「おっ、今日はすごいじゃん……」と、声をかけた。

   一瞬の サジの光に
     よみがえる
   あの切なさは 今に似ている


6月21日(火)晴
「今日は約束の小豆アイスだよ……」
ところが、母は一向に口を開けようとしない。昨日はあれほど喜んで食べていたのに、どうしたことか……。無理に口に入れた一口さえ、自然に溶けるに任せているだけで、あとは、かたくなに嫌がるばかりだ。
飲み込むのが辛いのか、それとも、味という刺激自体が負担なのだろうか。
そして以後、一切の飲食を欲しなくなってしまった。

   また一つ 母の最後が
     忍び寄り
   不帰(ふき)の仕舞いの 足音おそる

 

 

7月6日(水)晴
廊下で赤木師長とすれちがい、少し話をした。
赤木「今は落ち着いていますけど、この間の無呼吸のように、いつどうなってもおかしくない時期に来てしまっています……。
そうは言っても、一般的に、ガンや脳腫瘍の人は皆んな痛い痛いって苦しむはずなのに、お母さまは不思議と呻き声一つ上げないで、いつ見ても穏やかな顔していらっしゃるのは本当に幸せだと思いますよ。
それは、これまでお母さまが生きてこられた姿の現れではないでしょうか。看護婦として、人のため世の中のためって常に生きてきた、優しい人だったからなんだろうなと感じます。」

そうだ、数え切れない数の出産に立ち会い、この世に生を産み出す手伝いをしてきた母の最期が、辛く苦しい非命の最後であるわけがない。なのに私は、何を案じているのだろうか。何も不安などない。善い生き方をした人は善い死に方をして、そしてまた善い産まれ方をするに違いないのだから。


7月22日(金)晴
夕方、高瀬医師から話があった。
「私の見解では、そろそろ終末期に入ってきたと思うのですが、だけど非常に穏やかな入り方です。脳腫瘍の患者さんの末期が、これほど穏やかであることに正直驚いています。
もっとも私の専門は内科ですから、転移性の脳腫瘍は沢山診てきているけれど、初めから脳腫瘍という人を看取る経験はあまり多くないんです。が、それにしても、こんなにも苦しまず、穏やかで落ちている末期の患者さんは、経験上ほとんど知りません。
腫瘍はこんなに肥大しているのに、頭痛も発熱も嘔吐もなく、それに、肝不全・腎不全・心臓への影響もなければ肺炎も起こさない……。どうしてそうなのか不思議なくらいですが、お母さまにとっては大変幸せな事です。」


8月6日(土)晴
71年前の今日、広島に原爆が落とされた。その忌日《きび》が私の誕生日である。
「 誕生日といものは自分が生まれた日を祝うのではなく、命がけで産んでくれた母親に感謝をする日である……」そう、誰かが言っていた。
まして母は、私たち二人を帝王切開で産んだのだから、文字通り命がけだった事は言うまでもない……。

     阿鼻《あび》の忌《き》に 腹を破りて
        命 受く
     この身の成せる 使命《さだめ》しりたや


9月5日(月)晴
高瀬医師「とうとう脳梁を越えて、左脳の腫瘍が対側(右脳)へ浸潤してきています……。
このように、脳幹部を圧迫しはじめると、血圧・脈拍・呼吸の安定を失い、頭痛や嘔吐などの症状が頻繁に起きてきます。ですが、あまり辛そうであれば麻薬を使いますので痛みはなくなります。
本来なら、ずっと前の段階でそういう症状が出ていなければおかしかったと言えるくらいですから、お母さまは運が良いと思います。もっとも、私もこんなに大きなった脳腫瘍は見た事ないですが……」


9月8日(木)雨
秋の秋霖(しゅうりん)……
いつの間にやら暑い夏は過ぎ、もうこんな季節になってしまった。
シトシトと降る雨の音が、私の気鬱をいっそう強くさせる。
けれど、こうして母の顔を眺めている時だけは、しばし気分の落ち着く刹那である。

思考能力の有無は既に疑問……と、言われた母が、今こうして歌っている。左足で拍子をとり、心の中で懸命に歌っている。

母のお気に入りは、森繁、美空、古賀、小鳩……と、数ある中、反応が顕著なのはやはり倍賞千恵子が一番のようだ。
こんな母を見ていると、終末期という引導(いんどう)を渡されたのも忘れてしまいそうだ。
高瀬医師の予見は、幸いにして当たる気配を見せない。


9月28日(水)小雨
夜になり兄が来た。「お母さん俺だよ、和雄だよ、おい分かるか……」
10秒ほどして、「あー、あー」と、目を閉じたまま返事をした。それからさらに数分、僅かに薄目を開け、兄の姿を認めた。「和雄だよ、分かるかい……」、兄の問いかけに瞬きで答え、すぐにまた目を閉じた。たった数秒の対面ながら母は喜んでいるに違いない。


10月5日(水)晴-雨
28年前、昭和最後の年……。曲がりなりにも29年連れ添った母と父が離婚した。おそらく、これはその秋の事。
新潟で一人暮らしをしていた祖母を久しぶりに母が訪ね、その時の様子を母はカセットレコーダーに録音している。

きっと、母自身でさえとうに忘れていたであろうそのテープを、母に聴かせるべく勇み持ってきた。

実家の居間で2人〝 ちゃぶ台 〟をはさみ、食事をしながら実にたわいない話をしているだけのものを、いったいどうして母が記録に残そうと考えたのかは想像に叶わないけれど、どうしてか今日は、それを聴くための万端の準備が出来ている。
先刻から母は、近ごろでは珍しいほどしっかりとした顔つきで、なぜだか大きく開いた目を輝かせて何かを待ちわびているようでさえある。

戦中戦後の古い話から別れた父への愚痴、それから私たち子供の心配等々。そして、それに一つ一つ親身に応える祖母の声。母は、祖母の写真を見つめながら一心に傾聴している。
その集中は10数分つづき、しばらく目を閉じたかと思えば再び目を開けるを繰り返した。

何もかもが不思議でしかない。母がこれを残し、私が見つけたこと。それが今であったということ。昨日までは目さえ開けられなかった母が、今日はこんなにもキラキラする瞳を見せていること。そして、母が言いそびれていた言葉がここにあるということ。


10月6日(木)風台風
雨はさほどでもないが、風ばかりがひどく強い。けれど私の心は、逆に凪(なぎ)模様で穏やかである。ここしばらくの気ウツが嘘のように晴れているのが不思議だった。
以心伝心……。その気持ちは母にも分かるのか、今日もまずまずご機嫌の様子で私を見る。
その顔に「いい夢でも見たのかい」と、問えば、「ぁー」と、小さく答え、私の手を強く握った。
今日は、何より平和な日である。


10月7日(金)快晴  そして臨終
親の生が永遠でなきは必然、子より先に逝くも道理、愛別離苦《あいべつりく》が免れ難きも必定。そう納得はするものの、未練おびただしき也。

今に思えば、昨日までのあの数日は燃え尽きる前の蝋燭《ろうそく》の火のようであった……。昨日の台風のおかげで、雲一つなくなった秋空へ母は静かに昇っていった。その顔は、本当に眠っているように穏やかで、微塵の苦悶もなく自然と息を閉じた。

野辺送りの装束は大好きだった看護婦の白衣を着せてあげ、死化粧はなれぬ私の手でした。そして、最後の瞬間を看取ってくれた赤木師長が、ナースキャップを母の頭へつけてくれた。

午後1時40分……、高瀬医師が私の手をとり、そっと母の手へいざなった。


<結文より抜粋>

母は目蓋に眩しい秋晴れの青い空を感じながら逝った。そう、死ぬなら今、今日しかないと念じたのだ……。

親の死に目に会えるとか会えないと言うけれど、心底それを望むのは、逝く前の親の方であろうかと思う。この世の最後に見るべきものは、自分が生きた証しである子供の姿であり、それを目に焼き付けて死門へ向いたいと念望するはずだから。

母は、自分が死んだら声をかけてね……と、言った。言われたとおり、私はいつも母へ話しかける。
とりわけ、車を運転する私の左後ろの席には、いつも母が座っているような錯覚を感じる時が間々ある。
見えずとも、語らずとも、確かに母はそこにいる……。

人は皆の記憶から消えて忘れられた時、二度目の死を迎える……と、言われるように、いつまでも、いつでも、母のことを思い出し、覚えていてあげたいと思う。

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クラウドファンディングとは……
この言葉はまだ耳新しいものですが、広く一般からの支援を募り、何かのプロジェクト実現の資金源とする、というシステム自体は古くから行われてきました。
これは有名な話ですが……、あの野口英世も、山ほどの借金をしていました。
「学問のため」と称し友人の実家や恩師にまで無遠慮に金の無心をし、その多くを遊興に費やしてしまい、留学の渡航費がなくなり又借金を繰り返す。まったく感心できません。
でも、結果、細菌学で功をなし、黄熱病や梅毒の病原体を発見して、人類を救った……。
寄付や募金を「人のフンドシで相撲……」と言うのなら、その最たる親玉は野口英世と言えるでしょう。
そして、その二番手は今NHKの〝大河ドラマ〟で走っている金栗四三さん。と、いうわけです。
しかし、そんな大馬鹿者に手を差し伸べる行為も大事なんです。
もう一つ言うなら、野口英世の家がもし裕福であったなら、間違いなくあの功績は成し得なかったということです。

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※本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。


  • 2019/10/02 19:12

    本作品は脳腫瘍の母とそれを支える家族の心象を綴った闘病記であり、「人類の普遍的な課題を分かりやすく丁寧に描いた作品」という好印象を得た。また、テーマ・内容・筆力ともに申し分なく、全国流通する上で全く問題のないクオリティであると判断される。「死が近づいてくる」とはどういう体験なのか。著作では病状...

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