はじめに・ご挨拶

 皆様はじめまして。この本プロジェクトを主導する我々、下北山村 不動峠地蔵堂修復保存会は、30歳から80歳までの下北山村に在住・在勤する者たちにより、下北山村歴史民俗資料館のもと約20名ほどで構成されています。

 昨年11月には「北山郷・不動峠の街道を語る会」を実施して地域の方々に文化遺産の歴史や不動堂修復と保存の意義について会員みんなで熱心に語り合いました。
保存会のメンバーが各地区で聴きとりを行い、資料を調べ自分たちの言葉で地域住民に語ったことは私たちの自信に繋がり貴重な経験となりました。
 そのような活動を通じ、これまでの募金活動では沢山の方からのご協力をいただきました。

 ただ2020年内に不動堂の修復を完成するためにはあともう少し、後押しが必要であります。そこでクラウドファンディングの支援でお願い出来たらと、今回プロジェクトに願いを託し立案した次第です。

5月11日 倒壊寸前の不動堂の祠を解体して、後ろの石垣を積みあげるところまで作業出来ました!

不動峠「筏師の道」の歴史について

江戸時代には、下北山村あたりの地域は北山郷と呼ばれてました。当時、幕府の直轄領だった北山郷には農地が少ないため「作物の代わりに山の木を納めよ」と米年貢制度に代る「木年貢制度」が適用されていました。江戸に新しい町をつくるため多くの材木が必要だったのでしょう。
しかし、伐採した木を山奥から運び出すには修羅や木馬で川べりまで降ろし、川は管(単木)流しをするか筏に組んで流すかの方法しか無く、いずれも非常に危険で困難な作業でした。
現在の上北山村や下北山村で伐採された材木は、各地の筏師が北山川を利用して新宮まで運んでましたが1665年頃に「中乗(なかのり)制度」がつくられて、北山郷の筏師は北山村七色まで運び、そこからは北山村大沼の筏師が引き継いで新宮まで運ぶことになりました。上北山村の西原や小橡の材木は河合で筏に組んで池原へ、備後や大瀬からも池原へ、水量の少ない西の川筋では堰を築いて水量を調整して大川へ、そしてもっとも難所である「七色の滝」を命ながらに乗り落として北山村七色の「筏繋ぎ場」に辿り着きます。材木を運び終えた筏師は、すぐさま山道を歩いて家路へと急ぎますが険しい「不動峠」を越える頃には深夜になることもあったそうです。

七色から不動峠までの、市老谷(上図)には幾つもの大きな滝や急峻な登りがあり仕事帰りの峠越えは容易でなかったといいます。
その峠の分岐点にに安全祈願のための地蔵堂があり、お堂の中には自然石に「法華供養塔」と刻まれた石塔が祀られています。今から247年前の明和9年に建立され、当時から旅人や筏師を見守ってきました。


 また、大正13年に熊野の木ノ本を起点とした索道の中継地が不動峠に施設されてからは、さらに人と生活物資がたいそう行き交う場所となっておりました。

このプロジェクトで実現したいこと

 紀伊半島の大峯奥駆道と台高山脈に挟まれた急峻な山の中で、いにしえの人々は想像を超えるような過酷で質素な生活を営んでいたことと思われます。

 林業が唯一の生きる手段であるがゆえに、筏師は命がけで川を下り材木を北山村へ運んだあと、海抜606mの険しい不動峠を越えて家族の元へ帰るのが深夜にもなったといいます。

 しかし時代の変化とともに人の往来が無くなった不動峠で、かつて筏師たちが命がけで木材を運んだ帰りに安全を祈願した峠の地蔵堂は柱が腐食し後方に傾いて倒壊寸前となっています。

 こういった経緯で少なくとも数百年にわたって利用されてきた街道と地蔵堂の修復をのぞむ声が、下北山村にとどまらず近隣地域の人々からも多く上がってくるようになりました。

 現在、下北山村や近隣の村では人口が減り続け今では750人ほどとなり、先人が築き上げた文化をこのままでは次の世代に受け継ぐことが出来なくなってしまいます。

現在、残っている資料から地蔵堂のお堂はおよそ250年の間に2回建て替えられています。 下北山村とは?どこにあるの?

 下北山村とは奈良県の中でも1番東南にあります。急峻な山々にはさまれていますが、距離的には三重・熊野とか和歌山の港町のほうが近く、筏師さんをはじめ長い道中を行き来してきた先人たちのお陰で、その辺りの食文化や言葉も入り混じった面白い村です。

そんな下北山村のたべもんは山と川のもんと、海のもんもぜんぶおいしいにゃぁ!

「おかいさん」…白粥ではなく、茶粥のこと。下北山村では自分の家のお茶は自分の家で育てて、摘んで、炒って作ってました。その香り高いお茶で作った茶粥はみんな大好きな一品です!

「天魚(あめのうお)」と「鮎」…村の自慢・美しく清浄な川で育った素晴らしく美味しい魚もぜひ食べてもらいたい逸品です。また村の人たちもほとんど釣り名人なのです。


「下北 春まな」…修験道の行者さんが山から降りてきて種を授けたのが始まりだとか。

寒暖の激しい下北山村の土地でしか、深みのある味に育たないのだそうです。

「めはり寿司」…めはり寿司は紀伊半島南部の名物ですが、下北山村の春まなのお漬物で作るめはり寿司はこれまた絶品!

そんな下北山村の人はみんな明るく何ごとにも一生懸命!

みんなの話し言葉も、少し熊野や尾鷲ことばの影響がある温かみのある言葉です。


ぜひ、下北山村に来てたもれ〜


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さいごに昭和・平成・令和を越えてきた私たちの思い

 明治22年、北山郷の上組が上北山村に、下組が下北山村となってから昨年で130年が経ちました。
 時代は大正・昭和・平成そして令和へと流れ、世の中も大きく様変わりしました。
 以前は筏師がかつて歩いた北山村の七色から下北山村の上桑原までの距離も、車で40分程で行けるようになり、不動トンネルが開通してからは更に早く、現在ではわずか10分で行けるようになりました。

しかしそんな効率や生産性が重要視されてきた時代も今は変わろうとしているのを感じます。

道には歴史が刻まれています。 

 昔は暗く長く険しい不動峠を、生活を支えるため危険と隣り合わせで歩き、必死で越えてきた時代が確かにあったのです。
 それに感謝しつつ、忘れぬように伝えていきたい!それが私たちの想いです。

祠が解体され、あらわになった石塔には今も先人の祈りが感じられます。

資金の使い道・実施スケジュール

 一昨年より活動をスタートし、今年中に地蔵堂の祠を修復するために村内での募金活動と広報活動を進めてきました。当初計画していた予算(祠の制作費、峠までの資材の運搬費など)の内、不足分が現在約50万円と試算しています。
 本年末までに祠を完成させて現地へ設置予定です。

令和元年の不動峠春の登山会で集まった方々紀州と大和を結ぶ歴史的に希少な街道

地蔵堂修復はたんに建物を修復することにとどまらないと我々は考えています。

私たちの村は将来、存続さえも危ぶまれている状況ですが「紀州と大和を結ぶ歴史的に希少な街道」である地域の歴史と文化の遺産を後世に残していくことで、いつか都会の方が昔ながらの生活の大切さに気づいた時に「移住したい」と思える場所をここに遺していきたいと思っています。

皆さま方のご賛同とご支援を何卒よろしくお願い申し上げます!

本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、ご支援頂いた方へリターンをお届けします。

  • 2020/07/01 15:57

    6月26日に、下北山村のぽこぽん図書館(https://goo.gl/maps/d7n1h3CizTvmzzWN9)で不動峠地蔵堂修復保存会の会議を行いました。 会議では、6月12日からクラウドファンディングをスタートした状況報告と、地蔵堂の再建について大工さんの見積もりや設置方法について討...

  • 2020/06/15 18:44

    北山川 筏師節今回、筏師の歌を下北山村のコワーキングスペースBIYORI(https://www.facebook.com/SHIMOKITAYAMA.BIYORI)の運営をされている仲奈央子さんの楽曲で再現いたしました!山奥でのきびしい生活のなかで生まれた歌が、現在によみがえりました!

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