【はじめに】

皆さま、お世話になっております。Faina代表の菊地たかしです。

Faina(ファイナ)は、ウクライナから避難してきた私の義理の母(以下、イリーナさん)の「食を通して、日本の皆様に感謝の気持ちを届けたい」との思いから始まった、ウクライナ避難民とその家族で立ち上げたプロジェクトです。彦根市役所 プロジェクト発表記者会見時

2022年5月、多くの皆様からのご支援により、キッチンカーを購入することができ、私たちは活動をスタートすることができました。

ウクライナ避難民感謝の気持ちFainaキッチンカー誕生プロジェクトのリンク)

Fainaのロゴ

これまでの半年間で5都府県、40ヶ所を超えるエリアで出店して参りました。そして、ご提供したウクライナ料理の総数は1万個を超え、Fainaをきっかけにウクライナのことに興味をお持ちいただいたという方も多くいらっしゃいます。また、今まで私たちFainaの仕事に関わってくださったウクライナ人の数は14名(デザイナーの方や東京出店を含む)に及びます。

【感謝】

私たちFainaが、このように、目に見える形で、ウクライナの人たちへの幸せに貢献できていることに、大変嬉しく思っております。これはひとえに、ご支援いただいたFaina’s サポーターの皆さまのお力に他なりません。本当にありがとうございます。

プレオープン初日のFainaキッチンカー

しかし、嬉しいことばかりではございませんでした。多くの苦難が私たちのプロジェクトの前に大きな壁として立ちはだかるのです。

【苦難①】交通事故でキッチンカー破損

昨年10月のことです。

東京丸の内仲通りにて出店後、滋賀県彦根に向けてキッチンカーで移動中、前輪パンクによる横転事故で、私は危うく命を落とすところでした。

不幸中の幸いで、事故の大きさの割に、身体は無傷でした。しかし、車は大きく損傷し、メンタルはズタズタに引き裂かれました。私たちは、ひどく落ち込みました。軌道に乗り始めていた東京での出店も全てキャンセルで、閉鎖せざるを得なくったのでした。胸が裂ける思いでした。


それでも、また、心温かいFaina’s サポーター達に支えられました。

支援者の皆さまやお客様、京都や滋賀、東京の事業者様や自治体様が、励ましの言葉をかけてくださいました。

そんな方々から、秋には京都での出店のご依頼もいただけ、なんとか、前を向き直すことができたのでした。

ところが、その後も苦難は続きます。

【苦難②】冬の営業難

寒い冬の時期は、野外での飲食需要が少なく、キッチンカーにとっては、まさしく『冬の時期』です。お客様が来ないのです。私は出店場所探しに奔走しました。

そしてその時も、ありがたいことに、滋賀県の事業者様や、京都や東京の事業者様がお声をかけてくださり、出店場所を見つけることができました。我々の力不足でお客様の数は多くはありませんが、なんとか頑張っております。

道の駅 伊吹の里 出店時


【最大の苦難】戦禍にある義理の父(以下、ローマンさん)への心配

ローマンさんは、まだウクライナ北東部ハリコフにおり、避難できずにおります。

未来の見えない辛い日々を懸命に孤独で過ごしているのです。

依然として、国民総動員令のため、18歳から60歳までの男性は国外には出ることはできません(ローマンさんは53歳)。

そろそろ、この戦争が始まって一年になります。大変残念なことに、未だに終戦の目処はたっておりません。

戦争を止めることができない【国際社会の無力さ】に、憤りを感じているとともに大変悔しく思っております。


【私たち市民ができる戦争への前向きな対峙の仕方】

一方で、日本の市民の【避難民への支援の力】には感銘を受けました。

日本に避難したウクライナ人に前を向かせ、勇気や笑顔をもたらした【市民一人一人の思いやりの力】には大きな希望を感じております。

来日当初は、暗い表情が多かったイリーナさんや他のFainaのウクライナ人スタッフが、Fainaで働く中で見違えるほど明るくなっておりました。毎日のように、日本人(お客さんやスタッフ)や日本の街、自然、建物、お祭り、食べ物などの文化と密に触れ、理解が深まり、日本のことを好きになっていったと言います。

仕事を通して皆さまと触れ合え、イリーナさんたちは『未来への希望』を持てるようになっていったのです。

このように、戦禍にある一市民の人生を、別の国の一市民が、好転させられることは間違いありません

これが、【私たち市民ができる戦争への前向きな対峙の仕方】の一つであると私は確信しております。


Faina’sサポーターからのプレゼントをもらった時のギャリーナおばあちゃんとイリーナさん


皆さまのお力添えが必要です。

あなたもFaina’s サポーターになって一緒にウクライナ市民の復興を応援してください!



ここで、このプロジェクトのキーマンである義理の父:ローマンさんについてご紹介いたします。

「船のコックとして世界を回ったローマンさん。なぜ、日本人男性を信頼し、愛する一人娘を託したのか。

そして、この苦難の一年をローマンさんはどのように過ごしたのか。」

皆さまの気になる『戦争禍での市民の真実』をお伝えさせていただきます。

(『戦禍においてウクライナ市民がどう生きているのか』を背景とともに記しました。

読み終えるのに10分程度かかりますが、是非ともお読みいただきたいです。)

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【たかし君、しばらく、妻たちも頼む】
〜 ヤボルスカ ローマン 〜

この物語は、あまり報じられることのないウクライナ人男性のドキュメントストーリーである。

(このストーリーを読むのにかかる時間の目安:10分

30年前のイリーナさん,ローマンさん,カテリーナ 

【ローマンさんと日本】

遡ること約30年前、若かりしローマンさんは日本の港にいたという

世界中を旅する大型貨物船のコックだったローマン青年は、北海道や東北を中心に、九州や関西、日本の多くの港町を訪れている。そこには、ローマン青年(当時20代)がそれまで見たことのない美しい大自然や街並み、料理、文化、そして【人】があった。毎回のことではなかったが、滞在中、自由に過ごしてよい日があったようだ。

ローマンさんの乗ってきた大型貨物船のイメージ

ローマン青年の楽しみは、街の電気屋や港近くの居酒屋へ行くことだったという。

電気屋では当時世界最先端であった日本製の電化製品が立ち並んでいて、見ているだけで何時間も費やすこともあったそうだ。

港の居酒屋では、地元の漁師や町の人達と触れ合うことがあった。そこでの魚料理や日本酒に感動したと振り返る。時に、お客や店員と一緒にお酒を飲んだり、歌を歌ったりと、とても楽しい時間を過ごしたということであった。ローマンさんの行った港の飲食店のイメージ

当時の日本はバブル絶頂期だった。本当に賑やかで皆明るく笑顔が多く、全体が眩しく、華やかで、それでいて気品のある【日本という国】、【日本人という人々】のことをを若かりしローマン青年は大好きになったという。

それ以来、ローマン青年は、全く縁もゆかりもなかった日本と日本人に好意を持ち続けることになる

とはいえ、当時のローマン青年には、まさか20年後、自分の娘が自宅に日本人の男を連れてくるとは、夢にも思わなかったに違いない。


【ローマンさんと菊地、初対面】

さて、私がローマンさんと初めてお会いした時のことです。

それは、私が4回目にウクライナに訪れた時のことで、ハリコフの自宅でした。

娘たちが帰ってきたことを知ったイリーナさんは、ニコニコしながら足速に玄関にやってきました。飼い猫の『スー二ャ』も出迎えてくれ、珍しそうに私の方を見ておりました。

飼い猫 スー二ャ

ローマンさん『ンー!?』

私は、少々、怯みました。

そのローマンさんの声が、かなり大きかったことと(わかってはおりましたが)『義理の父がそこにいる』という事実が、私の背筋を冷やすのでした。

カテリーナ『パパー!』

ローマンさん『カトゥーシャ!』

そういうと、ついに、義理の父:ローマンさんが現れました。

私は、緊張しながらも簡単な挨拶や握手を交わしました。

その手は、大きく、そして、ものすごい握力であったことを今でも覚えております。

その後、ローマンさんは、何を言うでもなく、そそくさと自分の部屋へ戻ってしまいました。長老スー二ャと新人リリー

(あぁ、そりゃそうだよなぁ。一人娘が連れてきた彼氏が、異国の男で、言語も通じないんだもんな、これは一筋縄では、、)

そんなことを一人、ブツブツ考えていると、義理の父は大きな足音を立てながら、嬉しそうな表情を浮かべ、戻ってきました。

「どうしたのだろう」私がそう思ったのも束の間、何かを持って戻ってきたのでした。

その手には、とても古く、すでに動かなくなっていたG-ショックがありました。

(え!なんで!!?)

私は、状況が全く掴めませんでした。

日本製の時計を、日本人に見せるのはわかります、しかし、初対面且つ、会って間も無くの、娘の彼氏の日本人に、こんなに満面の笑みで見せてくる代物であろうか。

そう思った私は率直に思ったことを尋ねた。

菊地「この時計は、いったい、なんですか?」

ローマンさん「じゃぱん、JAPAN !」

(ジェスチャーで必死に伝えようとしてくれましたが、その時、私には真意がわからず、結局、妻に訳してもらいました)


妻曰く、そのG-ショックは、30年前の来日の記念に買ったものだそうで、20年間、正確に動き続けてくれたといって、どこか誇らしげでした。

日本人の仕事は素晴らしい。人が素晴らしいのだから、その人たちが作る製品が素晴らしいのは疑いの余地がない。このGショックが何よりの証拠だ」というのです。

それを聞いた時、今度は、私の方も誇らしげだったと妻が後に話してくれました。

ローマンさんと私の初対面は、そんな不思議なものでした。

妻と行ったウクライナの港町オデッサにあるコンサート劇場


【ローマンさん。娘さんをください 】

私は、再びウクライナへ行きました。5回目のウクライナです。この旅の1番の目的は、男性にとっては人生最大の山場の一つでしょう、義理の父:ローマンさんたちに、私たちの結婚を認めてもらうことでした。

いわゆる『娘さんをください』というやつです。

妻の実家に到着すると、イリーナさんが優しく出迎えてくれました。ローマンさんは、仕事で、もう少し遅くなるとのことでした。

(まずい、ちょっと予定と違うなぁ。)

予定では、ローマンさんも出迎えてくれるはずだったのでした。

2014年 ハリコフ中心部の夜の様子

待つこと1時間、ローマンさんが帰宅しました。

私は緊張で、引き攣りながらも満面の笑みで、ローマンさんと握手を交わしたのでした。

その時、ローマンさんは少々疲れている様子ではあったものの、その握手の力は今回も、とても強かったのでした。

ローマンさんが自宅着に着替え、晩餐が始まりました。

【つづく】


ローマンさん:『たかし君、娘のことを頼む』

菊地:『はい(あぁ。やっぱG-ショック、買っておいてよかった)。』

こうして、私と妻は、ローマンさんから結婚を認めてもらえたのでした。


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【ローマンさんと、義理の息子:たかし】

以降、ローマンさんは、とても積極的に、私とコミュニケーションをとろうしてくれました。

アルバムを見せてもらいながら二人でお酒を飲んだり(コニャックという強い酒で、一発KOされました)、私とローマンさんの二人でボート魚釣りに行ったり(勿論、言葉は全く通じないが、ジェスチャーとパッションで意思疎通)、キノコ狩り(私は、毒キノコばかり採ってきてしまい、ほぼ破棄されちゃいました、、)に行ったこともありましたし、ローマンさんの趣味の農作業BBQ準備を手伝うこともしばしばありました。

言葉は通じませんが、意思は通じておりました。どれも、忘れられない楽しい思い出ばかりです。農作業お手伝い時の私ローマンさんのBBQお手伝い時の私

ローマンさんは、私のことを実の息子のように思って、接しようとくれておりました。

畑で収穫したスイカと私とローマンさん

ある時、妻が教えてくれました。

昔から、ローマンさんは、息子が欲しかったという。息子と一緒に、釣りをしたり、畑をいじったり、酒を飲んだり、BBQしたりしたかったのだとという。

妻『あいにく、私は女なので、、』

菊地『あ、なるほどね。それで(笑)』

それを聞いたとき、私はとても嬉しく思いました。

そのローマンさんが息子とやりたかったことは、どれも、私と既にやったことばかりだったからです。


その夜、今度は妻やイリーナさんも一緒に、コニャック(強いお酒)を皆で飲みました。

前回に比べれば、善戦いたしました。

妻や、イリーナさんが脱落していき、、

(よし、あとは、ローマンさんと私だけ、、、)

そう思ったのも束の間、その後の記憶はございません(笑)。

ローマンさんは、そのことを覚えており、未だにからかってきます。


西部の都市リビウ訪問時の私

このように、私から見たローマンさんは、一言で表すと『優しくも、厳格な方』です。細身ではありますが、大きい眼の奥には力強さがあり、声が大きく、力が強く、普段は少々、怖く感じることもありますが、家族のことをとても大切にしている男らしい人です。

読書、釣り動画を見ること(釣るのも大好き)が好きで、時間を忘れて夜中まで没頭していることがあります。

ある時、私とローマンさんで、日本の地図を見ながら、私の実家や、ゆかりのある地を紹介していた時のことでした。

ローマンさんは嬉しそうに琵琶湖を指差しました。

琵琶湖のことが気になっているのかと思い、私は「B・I・W・A!」と言いました。

ローマンさんは「知っているよ」と言わんばかりに『Fishing 、good!』そういうと、自分のスマホを取り出し大きな魚の画像を私に見せてくるのでした。(どうやら、琵琶湖で釣りしたいんだな。)

(後に妻から聞いて知りましたが、ローマンさんは、琵琶湖でのバスフィッシングの動画でお気に入りがあったらしく、よく見ていたそうです。そのため、私たちが、琵琶湖のそばに住むことを知った時には、大喜びしていたものでした。)

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【2022年2月】

イリーナさんの職場(薬品会社)はミサイルで粉砕され、実家の隣の建物も粉砕されました。

それでも避難を躊躇するイリーナさんを見兼ねたローマンさんは、強い口調で言ったそうです。

「俺のことは気にせず、一刻も早く国外に避難してくれ。ここにいると命が危ない!何かあった時に、二人を守りきれる自信がない。俺は大丈夫だから」と。

こうして、イリーナさんはようやく、避難の決意を固め、すぐさま国外への避難の準備を始めることになります。


【避難先、日本。】

イリーナさん達が最初に避難したポーランドでは避難民で溢れかえり、仕事はなく、物価は高く、長期滞在の選択肢はありませんでした。そこで、文化も言語も大きく異なる【日本】に向かうことを検討します。

しかし、ウクライナの隣国(地理的に近い)であるポーランドではなく、遠い日本に避難するということは、一時退避ではなく、長期間の避難ということになります。

すなわち、ローマンさんを長期で完全に1人にするということに他ならず、万が一、ローマンさんに何か起こったとしてもすぐには駆けつけられないことを意味する決断なのでした。

この判断を迫られた時、イリーナさんたちは、戦争中のウクライナに戻ることを本気で考えます。

「ローマンを置いて、自分達だけで日本に避難するだなんて、何かあった時に、何もできない。」

「それに日本に行ったとしても、職場や住居を探すのは難しいのは変わらない。いや、むしろもっと難しい可能性が高い。それでは娘や、たかし君に迷惑をかけてしまう。」ということでした。


そんな中、ローマンさんは、イリーナさん達が日本に避難できる可能性を知るために、私と妻に電話で相談してきたのでした。

私たちは、こちらの状況(日本政府のウクライナ避難民ビザ簡略化の動きや住居の問題等)と『イリーナさんたちを日本へ避難させたい意思』を必死で伝えました。この時、私は、もし連れて来れなければ、一生会えなくなるかもしれないと本気で思っておりました。

そしてローマンさんは、込み上げる思いを抑え、堪えながら言いました。




これが、ローマンさんから私への二回目の『頼み』でした。

ローマンさん:「俺は、大丈夫。きっと、なんとかする。イリーナは、カテリーナとたかし君のいる日本へ行くんだ。たかし君に、必要な手続きや生活のサポートをしてくれるように頼んだ。」

イリーナさん:「でも、」

ローマンさん:「大丈夫、少しの間の辛抱だ。」

こうして、イリーナさん達は、日本への渡航の準備に入ったのでありました。

イリーナさん達の避難の経路

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【一人、ウクライナに残ったローマンさん ①】

ローマンさんは、どういう思いでイリーナさんたちを、私と妻のいる日本へ送り出したのでしょう。

おそらく【もう2度と会えなくなるかもしれない】ということも考えての決断であったのだと私は思います。

当時、ハリコフの自宅の周りはミサイルで攻撃され、窓ガラスが割れ、毎日何度もシェルターと自宅の行き来を繰り返す日々でしたし、世界では『ロシア軍圧倒的有利』、『数週間以内にキエフ陥落』と言われておりました。

その中で、イリーナさん達を日本へ送るという決断は、まさに『男の覚悟』だと思います。

ローマンさんのその時の気持ちを察しようとするだけで、目頭が熱くなります。

イリーナさん達を日本に避難させた後、ローマンさんは、ハリコフの中心地の自宅を離れ、親戚の家(ハリコフ州内の郊外)へ避難することになります。

ローマンさんの従兄弟とローマンさん

当時は、ハリコフは、ひどく攻撃を受けていたため、24時間、いつでも攻撃に対応できるように、夜中でも家族で順番で見張りをする必要があっと言います。ロシア軍は、市民の活力・体力を削ぐべく、真夜中のミサイル攻撃を続け、休む間(寝る間)を与えないという戦略をとっていたのでありました。

眠りにつきかけると、ミサイルの飛来音や爆発音、そしてサイレン音で起こされます。それが深夜でも数時間おきに断続的に起こされるということなのだから、そのストレスは計り知れません。

ローマンさんは睡眠不足や不規則な生活を強いられ、体力は徐々に蝕まれていきました。

それに加えて、ミサイル攻撃や地上部隊からの攻撃や強奪への不安終わりの見えない戦いへの苛立ちイリーナさん達家族と離れていることへの孤独感、コレらがローマンさんの精神面も弱らせていくのでした。

あまりにも過酷です。

それでも、電話で聞く、私たちのキッチンカーの進捗や、お客さんの話、新メニューについての話題になると、違う人になったかのように、明るい表情に変わって、イキイキといろんなアドバイスをくれていたのでした。


【一人、ウクライナに残ったローマンさん ②】

こうして、親戚の家で過ごすこと約6ヶ月。

ようやく、自宅のあるハリコフ中心地のミサイル攻撃が落ち着いてきたというニュースを耳にします。

一方で、地方のエリアでは、ロシア兵による民家での強盗等の犯罪があとを立たず、むしろ危険なエリアとなりました。また、発電所等のインフラが標的となりはじめたことで、(バックアップ設備が少ないため)地方のエリアでは通信環境が悪化し、連絡が取りにくいという問題もありました。戦時中、連絡が取れないことは大変危険なことは言うまでもありません。

そういった理由から、ローマンさんは、(ハリコフの中心地も依然として、危険ではありますが)インフラ設備環境(ガス・電気)が比較的充実しているハリコフ中心地の自宅に戻ることを決断いたしました。


ローマンさんには、自宅に帰る時、大きな心配があったと言います。

半年の留守の間に、ハリコフ中心地の自宅が、被害に遭っている恐れがあるということでした。

自宅を出る前も、近くに落ちたミサイルの影響で自宅の窓ガラスが割れたということがありました。

ミサイルの直撃の可能性は低いでしょうが、付近へのミサイル飛来に伴い、自宅にも被害が及ぶことは大いに考えられました。

(実際、留守の間に、大変残念なことが起きております。同じマンション住人が、その自宅で遺体で発見されております。ご高齢の方で、遠方に避難できなかったということでした。 頭を撃ち抜かれていたということです。マンション近くに飛来したミサイルの破片がその部屋の窓ガラスを貫き、そのままその方の頭部も貫通したということなのです。これほど近くにまでに、ローマンさん達に死のリスクが差し迫っていたという事実に、青ざめてしまいます。)


ただ自分の家に帰るだけなのに、コレほど緊張することはないでしょう。

「家が瓦礫になっていたらどうしようか。強盗に入られている可能性もある。とにかく急いで帰らねば。」

ローマンさんは、無意識に早足になり、予定していたよりも少し早く自宅の前に到着しました。

「よかった。外側は、大丈夫そうだな。中も、大丈夫だといいが。」

自宅の鍵を開け、部屋に入ったローマンさんは胸を撫で下ろします。

「よかった。中の方も、大丈夫そうだ。」

自宅は避難した時のままでした。

「。。。」

ローマンさんは、この家で、家族3人で暮らしていた時のことを思い出しました。

独り、か。」

幸いにも、家は元のままでした。しかし、無論、自宅に帰ったからといって元の暮らしに戻れるわけではありませんでした

「ふぅー。。。」

ローマンさんは、座り慣れたソファで、見慣れた天井を見ながら、慣れない独りの時間を過ごすのでした

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【一人、ウクライナに残ったローマンさん ③】

「(着信音♪♪♪)」

電話の先は、イリーナさんでした。Fainaの仕事終わりだそうです。

ローマンさんは、家が無事だったことや、これから、荷物や3匹の飼い猫を運び入れる旨を伝えました。

イリーナさん曰く、その日のローマンさんとの電話はいつもより少し長かったということです。


その日のうちに無事、引っ越しを終えました。

数日間休んだのち、ローマンさんは、仕事をしたい気持ちを抱くようになります。

ローマンさんは、スーパーマーケットで働き始めました。

働いている間は、他のスタッフとも会話ができるので、嫌なことを考えなくてすみ、気分転換になると言います。

もちろん、会話の内容は明るいものばかりではないそうですが、それでも、気は紛れるの出そうです。

戦争という体力的にも精神的にも極めて過酷な状況の中でも、『仕事をする』ということが、その人に活力を与えるということは、とても感慨深いです。まさに、Fainaで働くウクライナ人スタッフ達と重なります。


【ローマンさんとのビデオトーク】

12月に入り、ローマンさんが、『戦争が終わったら、日本で家族で暮らしたい。Fainaで家族一緒に、働きたい』と話していると妻から聞いておりました。それを聞いたとき、私は、大変嬉しかったですし、頑張らないといけないなと思いました。

そして、大晦日の夜の食事時、ローマンさんもビデオトークで参加することになっておりました。

イリーナさんや妻は、ローマンさんとほぼ毎日のように電話で話しておりますが、今回のように、私も交えて、しかもビデオトークでお互いの顔を見て、話すのはとても久しぶりでした。

電話がつながり、ローマンさんの顔が見えた時、私は、驚愕いたしました

(ロ、ローマンさん、、、)

申し上げたくはありませんが、ローマンさんは、この一年で、顔つきが一気に変わりました

端的にいえば、10年以上の年をとったような大きな変化です。

シワは増え、深まりました。目のクマが際立ち、表情には、緊張感がありました。

私は悲しい気持ちを抑え、必死に笑顔を作ってウクライナ語で簡単なあいさつをしました

そして、皆で、乾杯したのでありました。


ほんの数年前、ウクライナにて、皆、満面の笑みで乾杯したあの時そして今

笑顔は笑顔ですでも、あの時と同じ笑顔ではないことは言うまでもありません。


そんな中でも、やはり、『The Faina』オープンに向けた話になると、表情が『パッ』と明るくなりました。

私は妻に通訳を頼みながら、ローマンさんのイメージしている理想のお店の話を聞いていきました。すると、「こういう雰囲気のお店にしたい」、「こういう料理を出したい」、「日本にはこういう食材は手に入るのか」など、ローマンさんは、水を得た魚のように、テンション高く口早に話すようになったのです。

この時は、私も妻やイリーナさんもあの時と同じように、一緒に盛り上がったのでした。

『家族で作るウクライナ料理屋【The Faina】

これがローマンさんと私たちに大きな活力をもたらす【共通の明るい未来】です。

未来への希望があっても、もしかすると、ローマンさんのシワは深いままかもしれません。

しかし、それ以上に、多くの笑いのシワを作ることができたら、その顔は幸せな顔になると、私は思います。

「ローマンさん。早く、日本へ来てください。皆、あなたを待っています。」


【たかし君、しばらく、妻たちも頼む】  

〜ヤボルスカ ローマン〜

『完』

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【Fainaの今までの活動】

5/28 プレオープン


6月 TVや新聞等の多くのメディアに取り上げていただきました

NHK おはよう日本出演時

6/23 キッチンカー納車


7/9 本オープン


8/8 東京丸の内店オープン&七人の新たなウクライナ人を雇用


8/20-21 大阪うめきた広場(グランフロント大阪) 単独出店


8/23 朝日新聞『天声人語』掲載

8/29 フジテレビ「ポップUP!」キッチンカーグルメ番付 3位


9/17-18 イナズマロックフェス


9/9 TBS「ひるおび」出演

10/7-9 鈴鹿サーキットF1日本グランプリ決勝


【10月中旬 交通事故による車両故障に伴い、東京店 撤退】


11月 京都出店スタート&大阪在住ウクライナ避難民を雇用&ふるさと納税スタート

NHK「ほっと関西」

2023年4月 小6社会の教科書(日本標準)1ページ目に掲載予定

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実現したいこと

小さくても良いので、ローマンさんが来た時にすぐにオープンできるオーブンのあるウクライナ料理店の実店舗を作りたいです!ローマンさんが来るまでの間は、プレオープンという形で活用いたします。また、キッチンカーの仕込み通販用食品の仕込み場所、ウクライナ輸入品の販売場所として活用いたします。

ウクライナの『ヒト・モノ・コト』を感じていただける空間をご提供いたします。

場所は滋賀県彦根市彦根城の城下町メインストリートの『夢京橋キャッスルロード』沿い。

開業資金にはおよそ800万円かかります。その内の340 万円をご支援いただきたいです。

着眼大局 着手小局 私たちFainaは日本から、ウクライナの復興を目指しています。




資金の使い道

店舗『The Faina』のオープンにあたって、居抜きの状態から工事を行い、厨房機器からオーブン等の調理器具まで(節約しながら)、ほとんど全てを購入して揃えていく予定です。


〈オープンのために必要な費用〉

・物件初期費用:140万円

・外装工事費:80万円

  塗装工事  50万円

  看板工事  30万円

・内装工事費:230万円

  厨房等水道、電気の工事 50万円

  大工工事(内壁新設、既存壁撤去) 80万円

  内装(床、壁、天井) 100万円 

・家具購入費用:150万円

・調理器具費用:170万円

・消耗品、備品の調達費用:30万円

       初期費用合計 800万円

※内、340万円(手数料含む)をクラウドファンディングを利用させて調達したいと考えています。

私たちの資金や銀行からの融資だけでは足りない部分を、Faina’sサポーターの皆さまにご支援いただきたいと思っています。

クラウドファンディング終了後は、2023年5月中のプレオープンを目標に、着手して参ります。

彦根城城下町 夢京橋キャッスルロード


開業までのスケジュール

3月下旬 クラウドファンディング終了

4月初旬 物件契約完了

4月中旬 工事開始

4月下旬 営業許可申請

5月中旬 工事完了

5月下旬 営業許可取得

5月27日 プレオープン

6月下旬 リターン品発送

ローマンさん来日2週間後:『The Faina』本オープン


Next GOAL360万円!

NEXT GOAL達成時には関西圏に避難されているウクライナ人たち15名をThe Fainaのお店にご招待いたします!

故郷ウクライナの『ヒト・モノ・コト』に久しぶりに触れていただきます。

そして、歴史あふれる彦根の町や豊かな自然の観光案内を私たちFainaのスタッフ一同がいたします!

Fainaのメンバーは多くの方々のお力添えにより、活力をいただき、希望を持てるようになりました。

もっと多くのウクライナ避難民に前を向くきっかけをご提供したい。その想いから、NEXT GOAL達成を目指します。皆さま、よろしくお願いいたします。


Faina元スタッフ(東京店)からのメッセージ


応援者からのメッセージ



【最後に】

お忙しい中、ここまでお読みいただきまして、本当にありがとうございました!

(クラウドファンディングのページでここまで長い話をするプロジェクトは私自身見たことがありません(笑)。)

そんな皆様にだけ、正直に申し上げます。

私は、

この戦争から目を背けられればどれほどラクになるか」と考えてしまうことが時々あります。

心身ともに苦難の連続で辛いことだらけで、限界の一歩手前なのです。

それでも、必死に現実と向き合う義理の父や、義理の母、ウクライナ人の皆さま、そして応援してくださる皆さまのおかげで立ち向かうことができております。

このプロジェクトでFainaの実店舗【The Faina】をオープンできた暁には、ぜひ、私たちのお店で、皆様と一緒に祝勝会を挙げたいです。この祝勝会が、皆さまと私たちの【共通の明るい未来】となることを心から祈っております。

Faina'sサポーターからいただいたウクライナだるま“ 戦争で苦しむ市民に活力を与え、精神的に支援し、復興を促す ’’

これが、数少ない、私たち市民ができる戦争への前向きな対峙の仕方だと思います。

このプロジェクトは、ローマンさんと私たちFainaスタッフの共通の明るい未来】です

皆さまにとっても【共通の明るい未来】となれたとしたら、これほど嬉しいことはございません。

とはいえ、

必ずしもこのプロジェクトにご支援いただかなくても構わないと思っております。

Fainaの話を通して戦禍にある人々やその家族のことを身近に感じもらえ、この戦争への前向きな対峙の仕方を考えるきっかけになれれば、

私は、それで本望です

ただ、もし、

コレを読んだあなたが、我々の向き合い方に強く賛同していただけるのであれば

戦争に苦しむ市民に活力を与え復興を促すFaina’sサポーターになってください!】

何卒、よろしくお願い申し上げます。

<募集方式について>
本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。

  • 2024/03/16 21:05

    先日、第二回目の能登応援に行って参りまして、ご協力いただきましたNPO(ピースウィンズ・ジャパン)に動画を撮影&編集いただきましたのでご共有させてください。【動画】第二回ウクライナキッチンカー能登支援今回は、非常に被害の大きいエリア(石川県珠洲市立宝立小中学校)でのボルシチの炊き出しで...

  • 2024/02/21 17:30

    私たちの、ウクライナの子ども支援プロジェクト(https://camp-fire.jp/projects/view/714083)が、2/21本日のNHKの関西圏のニュース番組「ほっと関西」18:00-18:30のどこかの時間にて取り上げられます!プロジェクトページには記載できなかった、漫画担...

  • 2023/12/30 20:37

    こんにちは!Katerinaです!この度は嬉しいニュースと悲しいニュースがございます。本来であれば、昨日に、嬉しいニュースだけでご投稿できるはずでしたが、悲しいニュースのせいで、気落ちしてしまい、本日の投稿となってしまいました。まずは悲しいニュースからです。昨日「侵攻後最大とも言われる大規模な...

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