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誰でも本が作れる
誰でも本が発行できる
誰でも出版社が作れる革命


草の葉ライブラリーは、たった数部しか売れない本に果敢に取り組み、独自の方式で読書社会に、毎月、一冊、また一冊と投じていきます。閉塞した社会に新たな生命の樹を打ち立てる本です。地下水脈となって永遠に読み継がれていく本です。

売れる本しか刊行しない、売れる本しか刊行できない現代の出版のシステムに反逆する、旧時代的な手づくり工法によって、真の価値をもった作品が一冊の本となって誕生します。そしてクラウド・ファンディングによって、その本を真に欲している人に手渡されていきます。

「誰でも本が作れる、誰でも本が発行できる、誰でも出版社が作れる」革命によって「誰でも本が作れる、誰でも本が発行できる、誰でも出版社が作れる私塾」が誕生した。


   

高尾五郎著  山に登りて告げよ

     
悲劇のどん底に投げ込まれる弘。分校の存在理由に苦しむ智子。風雲急を告げる長太。三人はどこに流れていくのか。小さな人間の小さなドラマを、三十六の短編に積み上げて描く現代の叙事詩。その第三部。

 
                   

 
第一章   手の素描
この手紙があなたの手に渡る頃には、ぼくはニューヨークにいるはずです。ソーホーの安ホテルに泊まって、部屋探しに明け暮れているでしょう。やっと本物の芸術家の魂をつくりだすことに挑戦する時間を持つことができたということでしょうか。当分のあいだ日本に戻らないつもりです。十年、いや二十年、いやひょっとするとぼくはもう永遠に日本にはもどらないかもしれません。この国を捨てて、かの国でぼくの樹を打ち立てるという覚悟で新天地に渡っていきます。

第二章  愛の挨拶
ぶらりと分校を訪ねてきて智子や子供たちに鮮烈な印象を残した茜は、それから一週間ほどしてまたぶらりとあらわれ、また一日中、子供たちと遊んでいった。明日もまたきてよねと子供たちの熱い声に送られて、その日は別れるのだが、しかしその翌日にも次の日も姿をみせず、もう茜はこないとみんなあきらめていたら、またぶらりとあらわれる。その間隔がだんだん短くなって、とうとう茜は分校に入学した。

第三章  健太
健太の家は、国道の裏に立っているマンションのなかにあった。階段をあがって三階にあるその部屋にいってみると、ドアから健太の弟が姿をみせて、親はいないと言った。どこにいってるかも分からないと言うのだ。親が子供にぴたりと貼りついて、その一挙手一投足まで見張られている家庭の子供たちもつらいが、またこういう底なしの放任家庭も問題だなあと弘は思うのだった。

第四章  She not goes does to school
英語は希望を語る言語であった。愛を歌う言語であり、嘆きや悲しみ怒りの叫びをあげる言語であった。小さき者たちが、圧制の帝国から立ち上がる抵抗の言語であった。英語というものは誇り高き民族の言語であったのだ。中学校の授業によって、ひたすらけちくさい言語におとしめられていたその英語を、洋治は長太の仕組んだその授業によって、その力と生命を蘇らせたのだ。

第五章 北海道遠征
明彦たちを送り出すと、七人はテレビの前にすわりこんで第一回の遠征を記録したビデオを見ていた。するとそこに正憲がやってきた。はげしい雨のなかを、学校が終ってかけつけてきた彼の全身は、びしょ濡れだった。彼はけわしい顔を智子にむけて、けわしい声で言った。
「こいつら、なにやってんですか」

第六章 復讐は私のする仕事
来る日も来る日も悶えのなかにあった。子供団がどんなに深く彼の生命のなかに根をのばしていたかを知るのだった。苦しかった。どこかでこの苦しみから抜け出したかった。彼は聖書を手にしていた。そしてある言葉を探していた。以前その不思議な言葉に触れたことがあったが、そのときその言葉がよくわからなかった。しかしなにかひどくひっかかる言葉だった。その言葉はロマ書のなかにあった。

第七章 ガレージコンサート
彼の横に愛が座っている。彼がずうっと夢みた愛が座っているのだ。彼の胸はなにか恋人の隣りにすわったようにどきどきしている。彼はしきりにその手をのばそうとしていた。そのかわいい手を握りろうとしていた。彼はおそるおそる手をのばした。拒絶されるかもしれなかった。しかしその手は逃げなかった。その小さな手もまた長太の手を求めるように、しっかりと握りかえしてくるのだった。

第八章 父と子
分校に入学すると、みんなの前で、自己紹介することになっていた。横田貴之は、両手でピースのサインをつくり、ひょうきんさを全面にだして、みんなの受けを狙うかのような挨拶をした。「……それと趣味とかですが、そういうのはあんまりなくて、ファミコンとかするけど。それから、あんまり趣味には関係ないけど、むしゃくしゃしたときには妹をぶっとばすとか、おやじとかおふくろをバッドでぶんなぐるとか……

第九章 山に登りて告げよ
弘は思った。なぜ宮沢賢治はかくも童話にこだわりつづけたのか。彼は詩人だった。難解な詩を書きつける詩人だった。文明論や農業論を書き上げる力も持っていた。宗教文学だって書ける力量を持っていた。しかし彼は童話を書き続けた。それはおそらく童話こそ文学の核心だったからにちがいない。芸術の核心であり、人間の魂の核心がそこにあるからだった。

             

透明な風が吹き渡る──服部みずほ
「ゼームス坂物語」の一部と二部から私はたくさんのフレーズをノートに写しました。子供たちの姿を見失ったとき、教師としての自信を失った時などによくそのノートを開き、そのフレーズを指でなぞるように味わいます。教師の姿勢や、教育のあり方を根源的ところで問いかけてくるからです。
第三部もまた魅力的な子供がたちがたくさん登場してきますが、なかでも茜さんってなんて素敵な少女なのでしょうか。本当に透明な風が吹き渡っていきました。望月先生に次々に襲いかかる悲劇。もう息も止まる思いでした。弘さんはこの悲劇の底からどのようにして立ち直っていくのでしようか。現代という時代に翻弄される三人。しかし押し寄せる荒波に真っ直ぐ立ち向かい、新しい道を切り開いていこうと英雄的な戦いをする三人。これはまさしく現代に叙事詩です。第四部が待ち遠しく仕方がありません。(小学校教師)


高尾五郎著  最後の授業

伝統ある公立中学校に通う三年生の瀧沢隆君が、自宅の納屋で首を吊って自殺した。遺書を残しての覚悟の自殺だった。この遺書を、瀧沢君の通う中学校の篠田政雄校長は、「貧しい幼稚な遺書です」といった。なぜ篠田校長は、瀧澤君の書いた遺書ほ貧しい幼稚な遺書だと言ったのか。日本の教育の核心に迫っていく名作である。


 これは北アルプスの麓に広がる安曇平という地のある町でおこった出来事です。すでにみなさんはその町の名前を知っていますね。あれだけ騒がれた事件ですから。ですからその町の人々にはとてもつらいことですから、その町の名をA町としておくことにします。その町の名をつけた中学校もまたやはりA中学校としておきますが、この中学校は信州教育と尊敬をこめてよばれる数々の実践活動を生みだしていった古い輝かしい歴史をもった学校でした。この中学校に通う瀧沢隆君という中学生が、自宅の納屋で首を吊って自殺するという痛ましい事牛がおこったのでしたね。
 残念なことに、まるで流行のように、子供たちがあちこちで自殺しています。子供たちの自殺があまりにも頻繁に起こるので、いまでは新聞記事にもなりません。しかしこの隆君の自殺事件はちがっていました。連日にわたって新聞もテレビも週刊誌も、なにかヒステリ一をおこしたと思われるばかりの騒ぎかたでした。どうしてこんな騒動に発展していったかといいますと、その事件を取材するためにつめかけた地元記者たちが、その学校の校長先生を取り囲んで、
「隆君は遺書の残していますが、この遺書を先生はどう思っていますか」
 とたずねたのです。その学校の校長先生は篠田政雄といいましたが、そのときその篠田校長は、なにか吐き捨てるように、
「こんな貧しい遺書で死ぬなんてあわれです」
 といったのです。驚いた記者たちは、
「貧しいですか?」
「貧しくて幼稚な遺書です」
「幼稚なんですか?」
「これが幼椎でなくてなんなのでしょうか。こんな幼稚な遺書で死んでいく子供はあわれにつきます」
 校長先生はさらに取材を続けようとつめよる記者たちをかきわけて、逃げ込むように校門に消えていったのですが、そのときその一部始終をテレビ局のクルーが音声とともにしっかりと録画していたのです。その映像とその会話が、各テレビ局に配信され、日本中にそのシーンがそれはもう繰り返し繰り返し放映されていったのでした。
 翌日の新聞も一斉にこの事を報じました。社会面を二面もつぶし、さらに社説までにとりあげて、校長先生の言動をはげしく非難するのでした。凄まじいのはテレビでした。昼のワイドショーで、夕刻のニュースショーで、さらには深夜のニュース番組で、いずれもトップニュースとしてこの事件を報じるのでした。
 いったいこの事件をマスコミはどのように報じていったのでしょうか。そのあたりをある日の昼のワイドショーを子細に再現してみましょう。いかに日本中がすさまじい騒動の嵐につつまれたかがわかろうというものです。
 まずその画面に重々しい悲しみの音楽がながれて、隆君の遺書が写し出されます。その遺書を声優が悲しみをこめて読んでいきます。

「お父さん、お母さん、由香、それとぼくの大好きなおじいちゃんおばあちゃん。ぼくが死ぬことをゆるしてください。ぼくはもう生きていくことはできなくなりました。もうつかれました。とても生きていく力はありません。HYSFNにもうぼくはつきあえません。ぼくはもう二度ほど死ぬ目にあっています。二年のときは日本海で死ねといわれたし、またこのあいだの台風のあと犀川横断のときも死にそこないました。だんだんバツゲームもひどくなって、今度はT先生の部屋をおそうなんてぼくにはできません。ぼくはHたちにつきあうのはもうつかれました。ぼくはいままで六十万たまっています。いつかぜったいに返そうと思っていましたが、返せなくなってごめんなさい。お父さんとお母さんにはいろいろと感謝しています。由香はぼくのぶんまでお父さんとお母さんを大事にして下さい。おじいちゃん、おばあちゃん、いつまでも元気でいてください。ぼくはみんなが大好きでした。ぼくが死ぬことをどうかどうかゆるしてください」

 

高尾五郎著  実朝公暁

実朝は殺された。しかし彼の詩魂は、自分は自殺したのだというのかもしれない──小林秀雄

健保七年(一二一九年)の一月、実朝は暗殺された。この事件の謎は深い。実朝を暗殺した公暁が、いかなる人物であったかを照射する歴史資料が、無きに等しいところからくる。しかし『吾妻鏡』をなめるようにあるいは穴の開くほど眺めていると、この公暁がほのかに歴史の闇のなかから姿をみせてくる。


序の章

源実朝は健保七年(一二一九年)正月二十七日に鶴岡八幡宮の社頭で暗殺された。この事件の謎は深い。フィクションで歴史を描くことを禁じられている歴史家たちにとっても、この事件はいたく想像力をかきたてられるのか、その謎を暴こうと少ない資料を駆使して推論を組み立てる。しかしそれらの論がさらに謎を深めるといったありさまなのだ。それもこれも、実朝を暗殺した公暁がいかなる人物であったかを照射する歴史資料が無きに等しいところからくる。

しかし鎌倉幕府の公文書とでもいうべき『吾妻鏡』を、なめるようにあるいは穴の開くほど眺めていると、この公暁がほのかに歴史の闇のなかから姿をみせてくるのだ。というのもこの『吾妻鏡』のなかに「頼家の子善哉(公暁の幼名)鶴岡に詣でる」とか「善哉実朝の猶子となる」といったたった一行のそっけない記事が記されていて、それもすべてを並べたって十行余にすぎないが、しかしそれらの一行一行の奥に隠された公暁の生というものに踏み込んでいくとき、そこから公暁はただならぬ人物となって現れてくるのだ。

それは歴史学者たちが好んで描く、実朝暗殺は幕府の重臣たちの権力闘争であったとか、北条一族が権力を握るために公暁に暗殺させたとか、公暁が狂乱の果てに起こした刃傷沙汰だったといったことではなく、なにやら公暁なる人物が、主体的意志をもって時代を駆け抜けていった事件、公暁が公暁になるために──すなわち鎌倉に新しい国をつくるために画策した事件であったという像が、ほのかに歴史の底から立ち上ってくるのだ。

したがってこの謎に包まれた事件に近づいていくには、暗殺の首謀者である公暁を、どれだけ歴史のなかから掘り起こしていくかにある。もし公暁に生命を吹き込むことに成功したとき、私たちははじめてこの歴史の闇のなかにかすかであるが、一条の光を射し込ましたということになるのであろう。

                

リターン

高尾五郎著  山に登りて告げよ A4版  300ページ
頒布価2500円 送料370円

高尾五郎著  最後の授業  A4版  220ページ
頒布価2000円 送料180円

高尾五郎著  実朝と公暁  A4版 300ページ  
頒布価2500円 送料370円

          

集めた支援金の用途と内訳

CAMPFIRE手数料
草の葉ライブラリーの本の製作費 
著者への印税

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誰でも本が作れる
誰でも本が発行できる
誰でも出版社が作れる革命

 毎年おびただしい本が刊行される。それらはすべて採算が取れると踏んで刊行されるのであって、少なくとも数千部、さらに数万部の大台にのせ、あわよくば数十万部を目指し、その究極の目標がベストセラーである。本は売れなければならない。売れる本だけが価値をもたらす。売れる本によって彼らの存在が確立されていくからである。これがこの世界を絶対的に支配している思想でありシステムであり、したがって数百部しか売れない本は価値のない本であり、数十部しか売れない本は紙屑のようものであり、たった数部しか売れない本は鼻くそみたいに本ということになる。

 しかし本というものは、食料品でも、商品でも、製品でもなく、まったく別の価値をもって存在するものであり、たった数十部しか売れなかった本が、数十万部を売った本よりもはるかに高い価値をもっていることなどざらにあり、数百万部のベストセラーなるものの大半が賞味期限がきれたらたちまちごみとなって捨てられるが、たった五部しか売れなかった本が、永遠の生命をたたえて世界を変革していくことがある。

 この視点にたって創刊される草の葉ライブラリーは、たった数部しか売れない本に果敢に取り組み、独自の方式で読書社会に放っていく。荒廃していくばかりの読書社会に新たな生命の樹を打ち立てる本である。閉塞の世界を転覆させんとする力動をもった本である。地下水脈となって永遠に読み継がれていく本である。これら数部しか売れない本を読書社会に送り出していくには、数部しか売れない本を発行していくシステムを確立しなければならないが、これは簡単なことだ。その制作のシステムを旧時代に引き戻せばいいのだ。グーテンベルグが開発した活版印刷が登場する以前の時代の本づくりに。

 出版のシステムを旧時代の手作り工法に

 旧時代の本とは手書きだった。手書きで書かれた紙片を綴じて一冊の書物とした。その書物を人がまた書き写し、その紙片を束ね、表紙をつけて綴じるともう一冊の書物になった。こうして一冊一冊がその書物を所望する人に配布されていった。この手法ならば売れない本を発行するシステムが確立できる。作家たちが膨大な時間とエネルギーを投じて仕上げた作品を、コンピューターに打ち込み、スクリーンに現れる電子文字を編集レイアウトして、プリンターでA四紙の裏面に印字する。それを二つ折して中綴じホチキスで止めると一冊の冊子──ブック──が出来上がる。その工程はすべて手作りである。その一冊一冊が工芸品を作り上げていくかのように、その本を注文した購読者に送付されていく。

大量印刷技術によって、採算をとる経済によって、多層なる販売流通によって、売れる本しか刊行しない、売れる本しか刊行できない現代の出版のシステムに反逆する、古代的な手づくり工法によって、真の価値をもった作品が新たな生命力を吹きこまれて一冊の本となって誕生する。そして二十一世紀の初頭、アメリカに誕生したクラウド・ファンディングによって、その本を真に欲している人に手渡していくのである。

生命の木立となって成長していく草の葉ライブラリー

現在の出版のシステムは、その本を読書社会に投じたらそれで完了である。一度出した本を再編集して投じるなどということはめったに行われない。出版社は絶版の山を築いていくばかりである。大地を豊かにする名作がこうして捨てられていく。

ゴッホの絵がなぜいまなお脈々と生命をたたえているのか。それは繰り返し彼の絵が展示されるからである。なぜモーツアルトの音楽がいまなお人々に愛されるのか、それは繰り返し演奏されるからである。生命力をたたえた本は、繰り返し新しい世代に向けて発行していくべきなのだ。新しい編集がなされ、新しい体裁によって繰り返し刊行されていく。新しい時代の生命をその本に注ぎ込むことによって、その本は時代ともに成長していく。






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