「ボクと御手洗潔との出会い」



本格ミステリの大家であられる島田荘司氏の作品との出会いは、ほんの些細なものでした。


親しい間柄での食事の席で、ある先輩が 「君に向いていそうだ」 と薦めてくれたのが氏の代表作の一つである 『奇想、天を動かす』 でした。

翌日最寄りのBOOK OFFに立ち寄ると幸い売っていたので気軽に購入し、すぐに読み始めました。


衝撃の一言でした。


こんな感動がまだこの世界に残されていたなんて、と。それは大げさではなく、確実にボクの人生観に新しい影響を刻み込む体験でした。

そうして、読み終えるとすぐに BOOK OFFに通い、目についたタイトルをランダムに買っては4〜5冊をいっきに読みむという日々が少し続きました。


推理小説というジャンルに明るくなかったボクは、この時初めて 「御手洗潔シリーズ」 という存在を知り、島田荘司氏のことをインターネットで調べ、ここでようやく 『占星術殺人事件』 という氏の伝説的デビュー作にたどり着き、孤高の天才・御手洗潔と出会うことができました。

同作の舞台が東京の目黒区で、同じ目黒区で生まれ育ったボクにとって(もちろん時代は違うので)、事件当時の情景を思い描くことも面白く、さらに当時の御手洗の占星術教室が東横線の綱島駅にあることも、学生時代に綱島で学習塾の講師をしていたボクにとって不思議な縁を感じたもので、より一層作品世界に引き込まれた一つの要因かもしれません。

とにかく、大人になってからここまで大きな影響を与えてくれた氏の作品を、ボクは全作品読んでみたいと思いました。


「ボクはこの作家の作品がこれだけ好きで、全ての作品で感動して泣けると確信しているし、その感動を与えてくれた感謝の気持ちがなんらかの形で著者に伝わらないのはフェアではない!」と思いました。もちろんこの時点でご本人とのつながりなどは皆無ですが・・・。


このまま古本で全タイトルを揃えることは、感謝心も伝わりようがないし、なによりそんなリスペクトに欠けることはないのではないか?と思い、かねてより調べていた全著作のリストを印刷して近所の書店に持っていき、「全て注文することはできますか?」 と問うと、最初は目を丸くした書店員さんも、「1ヶ月いただければ揃えられると思います!」 と引き受けてくれました。2016年の暮れのことで、それから約1年半かけて全てを噛みしめるように読みました。



「ボクについて」



ボクは子供の頃からよく泣く子でした。

と言っても、弱虫とか泣き虫というわけでもなく、ただ人前で泣くことに抵抗がない性格だったということです。

感受性という言葉で表現するとちょっと格好つけすぎる気はしますが、とにかく漫画を読んじゃ泣き、ドラえもんを観ちゃ泣き、音楽を聴きゃ泣き、小説を読めば泣き、ドラマ、映画を観ては大いに泣いていました。

そしてそのたびに、人生に必要なことを全て教えてもらえたと思い、ひとつひとつを胸に刻み込んでいきました。


良いものは良い、悪者は悪い。自分が登場人物ならどちらになりたいか?と自分自身に問いかけたら誰もが “良いもの“ になりたいはずだし、良いものになるためには、目の前で困っている人は助けようとか、嘘をついて成功を手に入れてはいけない、とか他人のものを奪ってはいけないとかそういう当たり前の価値観を持ち続けたまま大人にならないといけないし、そうなりたいと思いました。

だから、弱小チームが頑張って優勝する話や、差別され冤罪をかけられた人が “良いもの” の弁護士に助けられて無罪を勝ち取る話が大好きだったし、素直に泣きました。

ちなみに記憶に残る一番初めに感動して涙した映画は小学校一年生の時に観たディヴィット・リンチの 『エレファントマン』、漫画は小学校三年生で読んだ手塚治虫の 『ブラック・ジャック(チャンピオンコミックス12巻収録の「上と下」という話)』 です。


16歳くらいになると、漠然と 「ボクが素晴らしい作品たちからもらった感動と同じ感動を人に与えたい。自分が創り出した作品で人を泣かせたい」 と思うようになりました。


そして大人になって、その中から自分が選んだ方法が “映画” でした。


大学を卒業後、親の脛をかじらせてもらって、アメリカへ留学させてもらうことができました。

もちろん映画の都ハリウッドがあるロサンゼルスです。そこで3年みっちり映画製作を学び、帰国後は幸いにしてコマーシャルの世界で職業演出家としてお仕事をさせていただける機会を多く与えてもらっています。

そして、今でも子供の頃に培った当たり前の価値観を持ったままでお仕事に臨んでいられていると信じています。


「作品世界への挑戦」


ちょうど島田先生の作品と出会った30代も半ばを駆け抜けて、がむしゃらに仕事をしていました。

そうして40代を少し過ぎたとき、世界はパンデミックに襲われました。

ボクはとてもラッキーでその瞬間はお仕事も減らず、職業演出家としてコマーシャルを世間に発表する機会はありましたし、とにかく目の前のことを頑張って生きることに精一杯だと言えば聴こえは良いですが、同時に、映画監督としての自分の道がどこまで拓けているのかはまったくもって見えていませんでした。いや、見えるけど見ようとしてなかったのかも。

見てしまったら少しも拓けていないことがわかってしまうから。

けれども、焦りはありましたし、挑戦もしないといけないと、時間を見つけては自らの脚本を書いたりはしていても、映画監督としてのチャンスは待っていても誰も与えてはくれないということは気付いていました。

パンデミックの渦中は耐え凌げたとしても、昨年から元の世界へ徐々に戻りつつある頃から、逆に自分の全てが緩やかに下降し始めていることを感じ出しました。

これをこのまま放っておいたら、自分の残りの人生は緩やかに燃え尽きていくだけだし、そもそも自分はフリーランスなので惰性で仕事をこなしていくことは、そのまま失職が確実な存在です。

そう思い、下降してしまった自分を再び上昇気流に乗せるためには、新しいことに挑戦し、乗り越え、自分自身を次の段階へと無理矢理にでも押し上げるしか選択肢はないのだと覚悟しました。


そして、ささやかながらの私財を投じて、本当に自分が表現したかった映像作品世界を創ろうと決意したときボクの頭の中には “島田荘司“ の四文字がすぐに浮かび上がりました。

 

「BLEND # 1974」


決意してからの展開は本当に速いものでした。


まずボクが最初にしたことは、島田荘司氏の短編を読み返すことでした。長篇は予算的に無理だと決め、改めて 『御手洗潔の挨拶』 から、同シリーズ 『メロディ』 『ダンス』、吉敷竹史シリーズの短編集 『展望塔の殺人』 などを、「低予算で実写化可能か?」という視点で見るほど、ボクの中では御手洗潔の若き日を描いたスピンオフ的な作品である 『御手洗潔と進々堂珈琲(新潮文庫2015年刊)』 しかないと思えるようになり、その中に収録された一遍 「進々堂ブレンド 1974」 に強く興味を持ちました。

しかも、主人公が御手洗潔ではなく、彼に惹かれる浪人生サトルの目線で描かれた物語というのが、また素敵じゃないですか。


ここで物語のあらすじを以下に紹介させてください。


1974年、冬の京都。

清水寺の足元、法観寺の五重の塔が望める産寧坂を少し外れた所に下宿している浪人生のサトル。

大好きな京都の町並みを歩き、路面電車を乗り継いで京大北門前にある老舗の喫茶店に通う。

毎日午後3時頃に必ずいる京大医学部の御手洗に会い彼の話を聞くために足繁く通う日々。

ある日、風邪気味だというサトルに、御手洗は外国で手に入れた喉スプレーを試すよう促し手渡す。

喉にしみるスプレーの味をゆっくりと飲み込むと、黙り込んでしまうサトル。

そして、サトルは自分の生まれ故郷である日本海に面した漁港の町での思い出を語り出す。

それは小さく閉ざされた地方で苦悩する少年が体験した淡い初恋の物語だった。



次にボクが手をつけたのは、この原作のセリフを全て書き起こし、最小限のト書きを加えて脚本化することでした。


できるだけ原作に忠実に、でも映像として島田氏の世界観をボクというフィルターを通しつつも、完全に再現することがまるで使命のように感じました。

脚本にするとその先は、本当にものごとは強く願う方向に導かれていくということを実感させてくれるように、信じられないようなスピードで展開していきました。


そして、今回最初からとてもお世話になっている方々の仲介により、ついに島田先生ご本人に脚本を読んでいただくことができ、「応援します」 という言葉を頂戴したのが2022年秋の頃でした。


こうしてこの短編自主映画製作プロジェクトを正式にスタートさせることができたとき、ボクはこの映画を世界へ伝えたいと思いました。


島田荘司氏の世界観が世界中へより発信されていくことに、ほんの少しでも寄与できることがあるのなら、ボクはこの作品を世界中の国際映画祭に応募することで問いかけてみるつもりです。


その想いを込めて、原作からタイトルを変更させていただく許可を得て 「BLEND # 1974」 と名付けました。



「出演者について」


主演 – サトル役 – 上村 侑


監督は孤独です。常に試されているし、常に不安なものです。しかも今回はボクが自分から始めた映画だし、のしかかる重圧は言葉にできないほど。でも、それは全てのアーティスト(表現者)に平等に言えることだし、当然、“演じる者” にも常に不安や誰にも理解してもらえない孤独があると思う。主演の上村侑くんも必ずそういったものと闘っている人だということはオーディションの時から気づいていました。彼ほど脚本を考え、キャラクターを考え、作品を考える役者さんはそうそういないし、その姿勢と鍛錬が彼の実力を裏付けていると安心させてくれる役者です。

その安心はボクにとって数少ない拠り所となり、撮影中は彼に多くを語りかけず、細かな演出もしなかったことは彼に対する甘えであり、完全に頼りにしている、そんなことを思わせる人です。



- 御手洗潔役 – 両角 颯


両角くんには、演技としてのプレッシャー以上の重圧があったと思います。それは ”御手洗潔” というある意味伝説的なキャラクターを演じるというもので、御手洗のファンが持つイメージも裏切れない、ボクが持つ御手洗というキャラクターに対するイメージも裏切れないという、とても苦しい挑戦を強いてしまったと思います。ただでさえ他者から理解され難い孤高の天才であるキャラクターなのに。

本来の両角くんの性格は、本当に素直で純粋で明るいのに、本番では見事に、偏屈でとっつきにくくて、かと思えば時々愛くるしい表情も覗かせるジェットコースターみたいな性質の御手洗潔という人を見事に演じきったと思っています。



- 美紗役 – 泉 マリン


キャスティングのプロセスで最も悩んだのが “美紗” というキャラクターで、おそらく原作を読んだ方なら誰もが思い描く “美紗さん” のイメージと、それを演じる泉さんとのイメージは必ずしも合っていないと思うでしょう。ボクもそう思います。

けれども、彼女の目の輝き、表情全て、立ち居振る舞いの全てをファインダー越しに見たとき、「映画のスクリーンでボクたちが観たい人はこういう人なんじゃないか?無条件に」 と思いました。

作中からサトルのセリフを引用します。

「日が暮れたら、中に明かりがともるから、窓から店内の様子がよく見えるんです。

そうしたら、カウンターの中に女の人がいるのが見えて、それがすごくきれいな人で、

はじめて見た時、びっくりした。本当にきれいで、女優さんみたいだった」



- 美紗の彼氏役 – 稲村 幸助


当初、脚本の初稿の頃、この役にセリフはありませんでした。本作中、唯一の “悪役“?(と、言っても彼もおそらくごく善良な一般人で、いい意味でも悪い意味でも当時の ”常識的な大人” だったのでしょうが)で、その悪い部分を映像表現だけで伝えようと考えていました。

しかしオーディションで稲村くんと出会うと、改めてこのキャラクターに少し人間味を加えたくなりました。絶妙に嫌なやつで、でも美紗が惚れてるわけだから良いところもあって。そんな微妙な人間らしさを表現してくれる役者です。



「京都でクランクイン」



京都での撮影は困難の連続でした。


例年より早い桜の開花、3年振りになるインバウンドの増加で、京都市内は観光客で賑わっていました。しかも、天気予報は一週間前から雨100%。

しかし、当然諦めるはずもなく、本当にたくさんの人の助けにより、2日間の京都撮影を無事に乗り切りました。

しかもその2日間だけ晴れる!

これはこのプロジェクトが少なからず祝福されているのだと確信した瞬間でした。

特に、十数カ所にも及ぶ撮影場所の中で本当にお世話になった 「あじき路地」 の安食盛夫氏との出会いは生涯に渡る交友になることで、なにより彼自身も、高校生の頃より島田荘司氏の大ファンということで、快く撮影場所を提供してくださいました。そして、ちょうど撮影の数日前に安食氏は珈琲焙煎所を開業したところで、この縁が元で、今回のクラウドファンディングのリターン品の目玉としてオリジナルブレンドコーヒー豆に思い至りました。



「fuku coffee roastery」はコーヒーを飲んでいただく方が「幸福(しあわせ)」になれるよう、そして愛猫の「福(ふく)」から名付けられたそうです。世界各地で栽培されるコーヒーの中から厳選した豆を焙煎されています。


今回の一部のリターンでは、「BLEND # 1974」オリジナルブレンド珈琲(コラボ焙煎珈琲豆)も提供させていただきます。



「情熱、島田先生を動かす」



今回の作品は、その舞台のほとんどが実は喫茶店でのサトルと御手洗の会話劇です。


つまりこの喫茶店がほぼメインのシーンであり、どこで撮影するのかが非常に大きい要素でした。ここに限らず自主映画での撮影場所探しと交渉は非常に困難なものですが。


そして、行き着いたのが埼玉県川口市にある一軒家を改築してカフェにしたSenkiya。

もう既に何件も断られているボクはかなりの緊張と覚悟を持って店主の高橋秀之氏に会いに行きました。



店に入った瞬間に感じた空気感、店内の雰囲気、佇まい、どれをとってもここしかない!と確信しました。

高橋氏は最後までとても真剣にボクの話に耳を傾けてくれました。

後日、改めて撮影依頼のお話に行くと、 「うちで良ければ是非したいし、応援したい」 という暖かくも力強いお言葉をいただき、その言葉でボクは泣きました。


そして、2023年6月某日に喫茶店シーンの撮影をすることにし、ボクは改めて島田先生にコンタクトを取ってもらいました。


それは、「撮影の現場に是非いらしてください」 というお願いをするために。


当日、ボクは緊張のためにどんな振る舞いや話が出来たのか、舞い上がってしまって言いたいことはほとんど言えませんでした。

でも、島田先生からとても心強いお言葉をいただき、ここでもまた感動で泣きました。

自分のことを褒めてくださったことはもちろん感動ですが、その場いたこのプロジェクトを支えてくれているスタッフ一同を褒めてくれたことが何よりも嬉しかったです。

自分の情熱が島田先生に伝わり、また自分が大切に思っていた信念が間違ってはいなかったんだと思えた1日でした。


「島田先生より直筆メッセージ」




「まだ挑戦の途中 – 今後の展開」


サトルの故郷である日本海沿いの漁港の町を新潟に定め、そこでの撮影を11月に実施するつもりです。


当地にも何度も足を運び、その都度素晴らしい出会いに恵まれ、ここでも撮影場所としてご協力いただける方々がいます。

みなさん 「頑張っている人を応援したい」 とおっしゃってくださいました。


この想いに応えるためにも、新潟での撮影を成功させ、その後に控える編集でも決して妥協することなく、誰の心にも響く作品をみなさまにお届けするためにクラウドファンディングでの資金調達に是非ご協力ください。


ボクが生まれる前の1970年代前半の日本、しかも京都や日本海沿いの漁港町の風景。誰しもにとって海外の国々がまだ遠く、でも憧れる場所だった時代。音楽やファッションを通じてその憧れに少しでも近づこうと願う若者たち。

これらを令和になった現代で、どう再現していくかということに強く挑戦心が沸き立ちました。

また同時にそれらの景色を必ず当時の音楽で表現したいと心に誓いました。

そして四六時中、70年から74年までの当時の洋楽ヒット曲をのべ500曲ほどを聴き、うち100曲をお気に入りのプレイリストに入れ、今も繰り返し繰り返し聴いています。

しかし、70年代のアーティストはレジェンドであり、その使用は簡単なものではありません。

でもアーティストをリスペクトする気持ちを最優先に、このハードルを乗り越えるためにもさらなる資金が必要になってくるでしょう。

お金はかければ良いというものでは決してありませんが、この挑戦にほんの少しの後悔も残さないためにも、みなさまのさらなるご支援を心より願っております。



スケジュールに関して

R5年10月 クラウドファンディング終了
R5年11月上旬 新潟での撮影(最後の撮影)
R6年2月 編集作業終了、映画完成
R6年4月 リターン発送

上記日程を予定しております。


最後に資金のお話です。

撮影費として約400万円を予定しております。

内訳は以下の通りです。

・交通、宿泊費 ¥1,000,000

・食費 ¥400,000

・人件費 ¥600,000

・機材費 ¥500,000

・美術、衣装費 ¥300,000

・編集費 ¥300,000

・車両費 ¥500,000

・ロケーション費 ¥250,000

・ロケハンその他経費 ¥150,000

計¥4,000,000

そのうちすでに自己資金、約200万円を撮影費として費やしてきました。

また、今後も映画祭への出品など追加で費用がかかってきます。

今後の撮影のために、ご支援いただけますと幸いです。


ご支援希望額:約300万円

そのうち約100万円はクラウドファンディングのための費用とさせていただきます。

リターン品(試写会含む)および送料など:約50万円

クラウドファンディング手数料:約50万円


風来漢あき

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